これは私と彼女が出会い、そして別れるまでの、ひと夏……。三十日間と少しの話。
 この話には、湿度にまみれてねっとりと纏わりつく空気と、脳を揺らす断続的な激しい蝉の音が、よく似合う。
 出会いの日も、例外なく空は湿度と蝉の音で充満していた。
 私は上半期の仕事に一つの区切りが付き、今年の夏は何をしようかなんて頭を巡らせる。正直夏は嫌いだ。学生の頃はそれなりにはしゃぎもしたけど趣味もなくなってしまった今ではただ暑いだけの日々。
 海にも川にも行く予定はないし、行く友達も少ない。ただ漫然と耐えるように今年の夏も過ぎていくんだろう。あ、でも一つだけ。ビールが美味しいのは嫌いじゃない。
 いつもより遅いテンポでコツコツと、まるでゾンビの様にヒールを帰路に鳴らす。今はただ家に帰って冷たい缶に触りたい一心だ。
「あっつ……。ほんと死ぬよ……これ」
 全身に滲む汗に嫌悪感を抱きながら、水分不足と疲労でくたくたの身体をふらふらと前に進める。
 明日からは夏の日差しの下に出ることも無い。エアコンの効いた天国で堕落の限りを尽くす。そんな非生産的な幸せが手に入る。
 今この瞬間だけは脳の端に居座る不安感から目を逸らすことができた。
 私立高校の非常勤講師として契約して三年目。一昨年、去年と二年連続で取り損ねた教員採用試験も今年は順調。一次試験を終え、結果を待つばかり。それで受かっていたら二次試験を受けるだけだ。まだ一次の結果すら出ていないけど、恐らく今年は合格できるだろうと謎の自信で溢れている。しかし、非常勤講師という立場も案外気楽なもので、こうして他の教員が喉から手を出してでも欲しがるであろう長期休暇も楽にとることが出来る。
 その分、職員室での肩身が狭いのと、休みを取ることへの白い眼差しは応えるものがあるが、それを差し引いても満足してしまっている私がいる。
 贅沢をするような性格でもないし、今の小さなアパートにも慣れてしまった。
 まぁ、それでも、なんだかんだ言って、どうせ私は周囲の流れに合わせるように教員試験に合格し、めでたく今の学校からおさらばするんだろうな。なんて思う。
 向上心なんてものは無いが、流れに逆らう気力も持ち合わせていない。
 額に張り付いた前髪を払い、ふと左手首の時計を見る。
 十九時半。最後の仕事の片付けに手間取ったせいか、それとも死体の様にゆっくりと歩いていたせいか。いつものバスの時間はとうに過ぎ、数本後の発車時刻まであと少し。記憶上これを逃すと次は三十分後。この暑さの中それだけの時間を待つなんて地獄もいいところだ。
 慌てて足を速め、川を渡す大きな橋に足をかける。百メートル程の橋を渡り切った先がゴールのバス停。さながら真夏の百メートル走。それなのに私の下半身は言うことを聞かない。終業式中ずっと立ちっぱなしだったからだろう。パンパンに張った脹脛は悲鳴を上げていて持ち上げることすら億劫で、愉快に自分の体と格闘している私の隣を無感情にバスは通り過ぎていく。
 橋に足を掛けたばかりの私と橋を渡り切ったバス。到底追いつけない距離を引き離され、次のバスを待つという地獄を甘んじて受け入れた。
 田舎とも都会とも言えない中途半端なこの町で考えれば、バスが三十分の間隔で来るのはむしろありがたい話なのかもしれない。遥か遠くのバス停で乗り降りする人間を数えるのに片手で十分足りる。その証拠に車通りも少なく、バス以降私を追い抜いていく車は無かった。不幸中の幸いというやつだ。そう考えよう。
 軽く走って息切れを起こした私は、膝に手を付くようにして息を整える。これでも学生時代は球技とか長距離走とか結構得だった筈なんだけどな。
 二十歳を超えてから急激に体力が衰えると聞いていたけれど、今まさにそれを実感している。まだ二十代も折り返し地点なのにこんなに……。自分の老いを自覚すると結構メンタルに来る。
 この橋を歩ききらなきゃならない事への絶望。次のバスまでのニ十分間この外気を耐えることへの絶望。そして体力が落ちたことへの絶望。
 我ながら安い絶望感たちだ。絶望の意味を一度調べた方がいいかもしれない。
 その証拠に次の瞬間。息を整え歩き始めようと顔を上げた時。脳内にあった様々な感情は目の前に広がる光景に塗り潰され、私は感嘆の息を漏らした。
 視界に広がったのは夕暮れに相応しい真赤な空。
 少し黒を混ぜたような、重い赤。
 その中に、雑に千切られた雲が真っ黒な影を落として、浮かんでいる。
 どうしようもなく綺麗な景色だった。
 でもそれだけではない。
 私が目を奪われたのは、そのすべてを背負う少女。
 橋の中央で手すりの向こう側に立ち、頭上の夕暮れを仰ぐ少女。彼女の立つ場所の後ろには、綺麗に靴が二足並べられている。
 幼い体形を見る限り中学生だろうか。小柄な体躯に短い髪。そしてこの季節には不釣り合いなニット帽。
 袖口から露わになる肌はあまりに白く、そしてニット帽から覗く髪は空の黒にも負けない黒。
 背景の夕暮れをバックにする少女の立ち姿はまるで一枚の絵画のようで。
 釘付けになる私はそれに美しさを感じると同時に、恐怖を抱いていた。
夕焼けを反射するように光る彼女の眼にはまるで刃物のような剥き出しの鋭さがあった。それはまるで野生動物が獲物を狩る瞬間のような。張り詰めた空気の中に生と死が渦巻いていた。
 それは日常生活を送る人間には絶対に縁のない雰囲気。
全身からその気迫を漂わせる彼女を見て、私の身体は小動物のように震えていた。
 さっきまの暑苦しい汗とは違い、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
 その時、私の視界の中で静止画の様に佇んでいた彼女が、私の気配を察知したかのように振り向く。
 蛇に睨まれた蛙のごとく体を固める私をじっと見ながら、少女は微笑む。そしてゆっくりと口を開いた。
「大丈夫ですよ。飛び降りたりなんかしません」
「……え?」
 そうしてようやく、少女が今にも橋から飛び降りることができる体勢であることに気が付いた。橋はかなりの高さがあり、自殺するには十分。彼女がその身を投げ出す映像が脳内に浮かび全身に悪寒が走った。
 慌てた私の足は気づけば動くようになっていて、思考を回すよりも先に少女の元へ走る。
「いやいや、むしろ勢いよく来られた方が危ないですって。今戻るんで落ち着いてください」
 パニック状態で駆け寄る私に、彼女は穏やかな落ち着きを見せながら静止の言葉を掛ける。
 そして死の淵に立つ少女はまるで机の上にでも座るかのように、ひょいと手すりに一度腰を掛けると、そのまま体を回転させ私の目の前に着地する。
 私はその光景を唖然と見つめ、彼女が橋に足をつけた瞬間、咄嗟に少女の肩をつかんだ。
「早まっちゃだめ! そりゃ、辛いことだってあるかもしれないけど!」
 焦りに任せて言葉を投げかける私にまた彼女は笑う。
「落ち着いてください」
「……飛び降りるなんて駄目!」
「だから大丈夫ですって。ほら。もう私は手すりのこっち側にいるでしょ?」
 半ばパニックになる私を宥めるように優しい声色を投げかける。
 私は震える手で彼女の肩を掴んだまま、不規則に跳ねる呼吸を落ち着けるように、深く息をしようと試みる。
「安心してください。今日は死にませんから」
 自殺なんてしていいわけがない。どんな理由があったって、死んだら全部終わっちゃうんだから。
「結構いい景色だったから、ふと死にたくなっちゃっただけなんです。でも、これじゃまだ足りないかなって」
「……なに……何言って」
 私は呼吸の乱れと、少女が無事なことへの安心で、その場に膝をつく。ストッキング越しに肌に小石が刺さり、じんじんと痛みが波打った。
 私は橋の手すりに背中をつけ、深呼吸をする。視界を上げると夕暮れをバックに少女の顔が中央に映った。
「落ち着きました?」
「……だいぶ」
「よかった」
 彼女は私に微笑むと私に手を差し出す。
「とりあえず、バス停まで行きません? こんな所に座ってると、車通りが少ないとはいえ変に見られちゃいますよ?」
 今の私よりも奇異な行動を取っていた少女の手を取り私は立ち上がる。少女は小走りで私が落としたバックを拾ってくると、行きましょうとバス停に向かって歩き出した。
 この少女が分からない。さっきまであれ程死の気配を漂わせていたのに、今じゃこんなに普通の女の子の顔をしている。全く別の少女を見ている感覚だった。
 ひょこひょこと歩く少女の背中を追いかけながら考える。これは学校に連絡するべきだろう。少し会話をして学校とかを聞き出して、連絡……。いや、まずは慎重に話をしないと。さっきの雰囲気はふざけて手すりを超えたなんて物ではなかった。あまり焦ってこの子のスイッチを押してしまうことだけは避けなくてはならない。
 最悪私が家なり学校なりに送り届けなくちゃ。この子がどんな問題を抱えているか分からないけど、この子を一人にしちゃ駄目。そう胸騒ぎがした。
 バス停に着き時計を見ると、次のバスまではあと十五分。彼女は何故かバス停のベンチに座っている。どうやって引き留めようか迷っていたから都合がいい。
 さて、どうしたものかと考えながら私もベンチへ座る。
「それで……」
「え?」
 私から会話を始めようと切り口を考えているうちに、彼女が口を開く。
「生徒の自殺未遂を見つけた訳ですが、どうします? 先生」
「……先生? なんで私が先生だって……」
 首を傾け聞いてくる彼女の言葉を理解するのに時間が必要だった。
「だって校内で見たことありますし」
 私の学校の生徒だとは思いもよらなかった。だってそもそも見覚えがない。そこそこ大きい学校ではあるが全校朝会の髪型チェックを担当したこともあるし、一度は見ていてもいい筈なのに。
 そもそもこの子は顔がいい。クラスでも目立つ方だろう。それなのに見覚えがないという事は、あまり学校に来ない生徒なのかもしれない。
「え……? 先生、もしかして気付いてなかったんですか?」
「……ええ」
 そして何より、この小柄な見た目は高校生にしては小さい。
 少女はあからさまに失敗したという顔をして笑う。
「校内では結構有名人だと思ってたんですけど。…………言わなきゃよかった」
「名前、聞いてもいい?」
「はい。三年の藍原です。分かりませんか? 藍原莉緒」
 藍原、藍原。脳内で必死に記憶をたどるが、ピンと来ない。そこまで多い苗字ではないけど、少ない苗字でもない。私が思いつく限り学校にこの子以外に二人藍原という苗字はいる。
 三年生という事は私と同じ時期に学校に入ってきた子か。その学年を担当したことは無いし、知らないのも無理はない。職員室で名前を聞いた気もするが、この子って確証もないし。そもそも学校にあまり来ていないならその件かもしれないし。
 つまりは結局分からない。
「……ごめんなさい。分からないかも」
「へぇ……。知らないんだ。そっか……」
 少女は顔を逸らし、私からは表情が読み取れない。ただその言葉には読み取れない含みのようなものを感じた。
「……ねぇ先生。急な話なんですけど、お願いを聞いてくれませんか」
「お願い?」
「はい。一つ……。いや、二つ」
 少女は真っすぐ私の目を見る。その目からはもう恐怖を感じることはなかった。
 お願いとは何だろうか。ただここで彼女との距離を詰めておくに越したことは無い。それに彼女を刺激しないように動くのなら、ここは頷くしかない。
「言ってみて」
「まず一つ目なんですけど。私の自殺未遂はどこにも報告しないでください」
「……」
 見事に先手を打たれた。
「報告って、そんな」
「学校とかそういう団体とか。面倒臭くなるので」
「面倒臭くって……。あなた自分がどれだけ」
「わかってますよ。でも、これは私の問題なので。……勿論先生の責任になるようなことは一切しません。先生はさっきなにも見なかった。それだけです」
「そんなことでき――」
「できるわけない、ですか?」
 まるで彼女に会話をコントロールされている気分だった。言葉を潰され何も言えなくなる私を、少女は真面目な顔で静かに見つめ続ける。
 気が付けば、私の視線は彼女の目から離れなくなっている。黒い瞳の奥に広がる大きな何かに吸い込まれるように、私は釘付けになる。
「じゃあ、先生が私を助けてくれますか?」
「――っ」
 その言葉は切なく私の鼓膜を揺らした。きっとここで私は頷かなければならない。それが大人の役割。でも、私の首も私の喉も動かない。
「冗談ですよ。……優しいですね。先生」
 そして限界まで張り詰めた糸を彼女は一気に緩める。皮膚からは今まで忘れていた分の汗が流れ出し、心臓が五月蠅くなり始める。そうしてようやく喉から声が出るようになったことを確信した私は、彼女に私が言うべき言葉を伝える。
「でも、話を聞くことはできるよ」
「そう言ってくれる人は、本当に優しい人か、狡い大人かのどっちかです」
「私じゃ駄目かな? 悩みがあるなら何でも相談に乗るよ? 私にできることなら力を貸すから」
 少女は私の言葉に小さく俯くと、次の瞬間には表情を変えて明るい顔を私に見せる。
「じゃあ、今日、家に泊めてください」
「え?」
「私、今日家出してきたんです」
 さっきまでの静かな彼女はどこへ行ったのか、今度は年相応の少女と会話をしているよう。まるで何人もの彼女と入れ替わり話しているような感覚。
「これが二つ目のお願いです。先生の事を信用するので泊めてください」
「……何言ってるの? そんなのダメに決まって――」
「話を聞いてくれるって言うのは?」
「それはもっと別の、カフェとかファミレスとか」
「それ本気で言ってます? 自殺しようとしていた人間が心の内を公共の場で曝け出す訳ないじゃないですか」
 調子が狂う。まるでクラスの生徒と話している感覚。この子がさっきまで死の淵にいたことすら忘れてしまう。
「あぁ、えっと、じゃあ……」
「それに私、今日泊まる所ないんですよ」
「でも、教師が生徒を家に上げるのも、相当倫理的に」
「じゃあ、駅前でナンパされるのを待つか、潔く死ぬことにします」
 女子生徒が休み時間に見せるような、何でもない笑顔を浮かべながら少女はそんなことを口に出す。
 これはお願いじゃなくて脅迫だ。一生のお願いを軽々しく口に出す人間は山ほどいれども、ここまで重みをもったお願いは始めて見るかもしれない。だって彼女は下手をすれば本当に死んでしまう。彼女の目には冗談の色なんて全くなく、私は細い平均台の上に立っているかのような緊張感を覚える。
「親御さんだって心配するでしょ? ちゃんと帰った方がいい」
「それ、私じゃなかったらアウトですよ。学生の自殺志願者なんて数割は家庭環境が原因なんですから。家出してきた人間に帰れなんて、死ねって言ってるのと同じです」
「ごめんなさい……そんなつもりじゃ」
「私は大丈夫ですよ。そんな理由で死のうとなんて思いませんし」
「でも家に帰りたくないの?」
「はい。こうして家出しているくらいですからね。でも、虐待とかではないですよ? 親は私に優しいですし、大切にされています」
「じゃあどうして……」
「色々あるんですよ。女子高生ですもん。多感な時期なんですよ」
 ヘラヘラと他人事のように会話を進める。そこから彼女の内面は全く見えない。
「あ、じゃあ先生が泊めてくれるなら親に連絡してもいいですよ。私が家に帰らないことが伝わってれば全然問題ないですよね。お友達の家に泊るとでも言っておきます。彼氏の家に泊る学生みたいでいいじゃないですか」
 退路はもうない。彼女を家に招き話を聞かなければ、今後彼女がどうなってしまうか予想はつく。
 他人にそこまでの興味はない私でも、命を投げ出そうとしている子供を見逃すわけにはいかない。
 それだけは、絶対にできない。
「で、先生。どうなんですか? 次のバス。来ちゃいますよ?」
 時計を見ると、次のバスまであと数分。
「一つだけ聞いていいかな?」
「なんですか?」
 なぜ死に急ぐのか? なぜ家出をしたのか? なぜ学校で有名なのか? その他にも沢山聞きたいことはあったけれど、私の口から出たのはそのどれでもなかった。
「信用する大人が、私でいいの?」
 きっと私は狡い人間で、彼女が信用していいような人間ではない。それでもいいなら、私は彼女の話を聞く。それで彼女が少しでも明日を生きることができるなら、彼女の抱えている物を少しだけ持ってあげてもいい。
 私の言葉を聞いて少女は少し顔を明るくして、考える。
「……こうして。こうして偶然会っただけですけど、なんだか運命を感じたんです。それだけで私はいいんです」
 そう言ってまた彼女は無邪気に笑う。目には明るい命の輝きを宿しながら。体からは生の激しさを漂わせながら。
 そして私は、どうしようもなくそれに惹かれていた。
「話を聞くからさ。死んじゃうなんて勿体ないよ。それで明日になったら今後どうするか一緒に考えよう? 家に帰るか、それが無理なら助けてくれるところは沢山あるし。私が間に入ってもいいからさ」
「……はい。ありがとうございます。これからのことは、そうですね。はい」
 この歳の子が自殺なんてしてはいけない。話を聞いて、分かち合って、彼女に圧し掛かる物を軽くしてあげれば、きっと死ぬなんて馬鹿な考えはしなくなる。
 こんな私でも、彼女を救える。

 しかし、後から思い返せば、この時すでに私は彼女の命の激しさに見惚れていたのだと思う。
 それは、どうしようもなく尊くて、どうしようもなく儚い。
 一瞬で燃え尽きてしまいそうな程、激しく輝く炎に、釘付けになっていたのだろう。
 藍原莉緒。
 彼女は残りの命、全てに炎を灯して生きていた。