「で、楽しい夏休みはどこに行ったんですか?」
「……ごめん」
台風は過ぎ、明け方まで降っていた雨は止み、空は青々と眩しい。
それは私達の心情も同じで、今まで無意識に保っていた微妙な距離感は消え始め、幾分か距離の縮まった関係が形成されつつあった。
喧嘩をした訳でもないが、雨降って、というところだろうか。ただ距離の詰まった途端、莉緒の言葉が心なしか強くなったのが今抱える小さな問題。
「それはまぁ、忘れてた私も悪いですよ。昨日の夜は浮かれて、明日は何をしようかなんて考えてた私もいました。でも、当の本人が忘れていたのは話が別じゃないですか?」
「別に忘れてたわけじゃ」
「ほら、さっさと授業に戻ってください」
「反論くらいさせてよ」
私はキッチンでその場に不釣り合いな教科書を広げる。目線の先にはローテーブルにノートを広げた生徒。こと、三年藍原莉緒。
「じゃあ、問二の開設から入ります……」
「先生。声が小さいでーす」
「部屋でそんなに声張れないでしょ!」
「じゃあ外で発声練習からやります?」
「なんでそんなに体育会系の発想なの……」
大学の時入っていたサークルを思い出しながら私は溜息をつく。社会に出てから三年目の人間にそのテンションは辛い。
「ていうか、もうやめない? 莉緒相手じゃ練習にならないよ」
「私じゃ役不足ってことですか?」
「まぁ、それもあるよね」
「馬鹿にしてます?」
「まぁ、多少は」
やる気のない私に頬を膨らませる自称生徒は、手に持っていたノートを投げ出すようにして床に転がった。
昨日あんなことを言ってみたものの、今日は七月三十一日。月の終わりという事は明日からは八月がやってくるわけで、八月の頭には私の教員採用試験があるわけで。
二次試験の内容は集団討論と模擬授業。そして個人面談。正直何を対策すればいいのか分からないし、分かったとしても対策するモチベーションがない。集団討論は適当に議題について意見を述べて周囲との協調性を見せればいいし、模擬授業なんてどうせ数分だ。毎日実践を行っている身としては欠伸が出る。問題なのは面接だけど、それはまぁ、もう今更どうにもならない訳で。
だから今日は彼女のしたい事でもしようかなんて思いながら朝ご飯を食べていたのに、莉緒は私の試験の日程が明日だと知るや否や前日くらい対策しろと騒いだ。
「買い物でも行こうよ。莉緒もそろそろどっかに買い物行きたいでしょ?」
「麻里さんの試験の方が優先ですー」
「莉緒がそんなに気にするもんじゃないって。受かる時は受かるし、落ちる時は落ちるんだから」
「麻里さんそれでもう三回も落ちてるんですよね? そろそろ危機感を持った方がいいですよ」
「そんなこと言われてもなぁ」
私は教卓に見立てたシンクの上で教科書を閉じ、莉緒の横でソファに寝転ぶ。
「ちょっと、授業中ですよ?」
莉緒は床に転がったまま天井を見上げている。そんな体勢の奴に授業の続行を促されたくない。
「そんな真面目なセリフは莉緒には似合わないよ」
「……もう。だって、私のせいで麻里さんが試験に落ちたら、私、合わせる顔無いじゃないですか。無理やり家に押し入って、迷惑はかけたくないんです」
「心配性だなぁ」
ソファに寝転がったまま腕を伸ばすと丁度莉緒の頭に触れることが出来そうで、髪を撫でまわしてやろうと狙いを定める。莉緒はそれに気が付いたのか、触られることを嫌う猫のようにそそくさと距離を取り、私のことを上目遣いで睨む。
「やっぱり麻里さん、おかしいです」
「そう?」
「だって普通だったら教員免許って必死になって取るものじゃないんですか? いわばそこがゴールで、そこからがスタートじゃないですか」
「一生勉強、なんて言うくらいだし」
「でも、麻里さんはどこか既にゴールしている雰囲気があるじゃないですか」
「あぁ……そう?」
「あぁって」
何度も試験に落ちている理由は意欲の欠如だと理解はしていた。教師としてこれから生きていくモチベーションは高くなく、貫きたい信念も多くない。別に子供が好きなわけでもなければ、勉強を人に教えることに楽しさを見出してもいない。
もし適正職業を決めてくれるシステムがあるとしても、私に高校教師という職業は絶対に当て嵌まらないだろう。
でも、私はここにいなければならない。
たった一つだけ理由がある。
「元々私、高校教師になりたい訳じゃなかったからさ」
「成り行きで先生になったってことですか?」
「ううん。違う」
これは人に話してもしょうがないこと。親にだって話したことは無いし、面接で口に出せるわけはない。でも、目の前の少女になら話してもいいかなと思える。
「これはね。ある人の夢なの」
これは彼の夢。
私が代わりに叶えた、ある男の夢。
あの頃、なにも持っていなかった私に唯一残された道しるべ。私は前に進むためにそのレールに乗るしかなかった。だってその道以外は全て暗闇で、どっちが前かすら分からなかったんだから。
「偶々ね。私がある人の夢を引き受けることになって。そして偶々私はその夢を叶えることができた。それだけの話だよ」
莉緒は私の言葉を聞き眉を顰める。
「もう叶えちゃったんだ。だから正直、ここから先に意味はないんだよ。教師を続ける必要もない」
「……なんですか、それ」
「でも、私、主体性無いからさ。何でもいいんだ。だからこのまま教師でいいかって」
莉緒の言葉の端は僅かに震えていて、それはまるで初日の私を見ているようだった。
人間、自分の理解が及ばない範囲には恐怖を覚えるしかない。
「ごめん。忘れて。つまらない話だから」
「本当に、つまらないじゃないですか……」
「……ストレートに言われると流石に傷つくよ?」
ただの過去話のつもりだった。だから私は飄々と、まるで莉緒が死の話を口にするように軽い口調で声にする。だって私もこの話は何度も何度も考えて、飲み込んできた物語だったから。だからこの話に関して私の感覚は麻痺していて、口に出す際に感情は追いついてこない。
でも、それを聞いた莉緒は違った。
勢いよく私に近づき、手を握られる。驚いて顔を上げると、莉緒の目は動揺の色をしていた。
「そんなの、つまらない……。だって、麻里さんの人生ですよね。今の話じゃ、まるで別の誰かの代役じゃないですか」
莉緒の声は芯から震え、次第に握られた手にも震えが伝わってくる。
それを見て私は嬉しく思った。
こんなにも私のことを思ってくれる人がいるなんて驚いた。
「莉緒は優しいね」
「だって、明らかにおかしいじゃないですか。そんなの生きてる意味――」
こんなにも私の目を見てくれる人がいたんだ。
そんなことに、驚いた。
「私は良いんだよ。ずっと、私はこうして生きてきたんだから」
長瀬麻里という人生はとうの昔に断線した。
だから、私にはもう、目的地はない。
途切れた私のレールの近くに、運よく廃線があったからそこに移っただけだ。
元から夢なんてなかった。だから誰の夢でも別に良かった。
前に進むための光であるなら、なんだってよかった。
「やっぱり、おかしいです」
「本当だね。莉緒に何も言えないや。自分でも分かってた筈なんだけどね。何もない人間だって」
ただ自分で人生を終わりにするのは怖いから、自然と燃料が切れるのを待っている。
意義もなく意味もなく。
ただ消耗しながら、消えていくのを待っている。
「そんなこと言わないでください」
教師になるのが夢だと言っていた。
だから私が代わりに教師になった。
正直私には非常勤講師も正規の教員も違いが分からない。
生徒の前に立って、様々なことを教えて。たまに彼の受け売りを話して。
いつしか私はここまで来ていた。
「だから莉緒の言う通り。もう私はゴールしてるとも言えるのかもね」
肩をすくめて笑って見せる。おどけたつもりだったのに、なぜか莉緒は顔を歪めた。
「じゃあ、麻里さんは何を目標に生きてるんですか?」
そんな莉緒から投げかけられたのはここ数日必死に考えた問。
彼女と対話する為に秘かに考えていた命題。
模範解答なんかないけど、きっと私の答えは世間一般からするとズレているんだろう。
「考えたんだけどね。答えが出ないんだよ。どうやっても出ない。だから私の答えは簡単なんだろうなって。……死にたくないんだ」
とても簡単な答え。
昨日の莉緒を抱きしめた時、辿り着いた。
異常なほど死に怯える彼女を見て、私もそうなのだと思った。
だから、私達は似ている。
そして。
対極にいる。
「……」
莉緒は何も言ってくれない。
「死にたくないから、生きている。自明の理って感じだけど」
もう一度、今度は自分に言い聞かせるように呟いてみる。その言葉には意味などなく空っぽで。何もない私には丁度いい回答だった。
「なんですか、それ。……意味わかりませんよ。急に先生みたいなこと言わないでください」
「自明の理? 覚えといたほうがいいよ? 何かと便利だし。証明す――」
「そんなこと言ってるんじゃないんです!」
悲鳴の様だった。莉緒の声が世界全ての音を掻き消してしまったかのように、真白な静寂が響く。ピリピリと痺れるように耳が痛み、少し考えてようやく莉緒が叫んだことを知った。
彼女が感情を剥き出しにしたのは十日も一緒にいて初めてのことじゃないだろうか。自分がその悲鳴の対象であることなど忘れ、莉緒が感情を露わにしたことに喜びを感じた。
いつも常に面を被っているような彼女の素を見ることができて、心が躍る。
「ごめんなさい。ちょっと、外に出てきます」
そして彼女は静かにこの部屋から出ていった。
とても綺麗な夕暮れだった。
窓の外は橙に染まっていて、明日の準備を終えた私はキッチンで料理の真似事をしてみたり。
莉緒はまだ帰ってこない。心配はあったけれど、どちらかと言えば罪悪感の方が大きかった。まるで叱られた後の子供みたい。彼女が感情を高ぶらせた訳はいまいち理解できないけれど、彼女が返ってきた時に機嫌を取れるようにこうして包丁を握っている。思考回路が小学生だ。
トン、トン、とぎこちない音が部屋に響く。
「静か……」
久しぶりに部屋に広がる静寂に震える。エアコンの設定温度はそこまで低くない。この震えは肌寒さというよりも。
「……寂しいんだ」
独り言を口にするのだって久しぶりだ。いつもならすぐに「なんですか?」と声が返ってくるのに、今は窓の外で鳴る蝉の音しか耳に返ってこない。
寂しさなんて感じるのはいつぶりだろうか。
大学進学を機にこっちに越してきた時だって、そんな感覚は覚えなかった気がする。数週間だけ付き合った彼氏と別れた時も、大学を卒業して友達と離れた時も、寂しさを自覚したことは無かった。
「なんでだろ」
そんなの簡単なことで。ここ数日がとても。
「楽しかったんだなぁ……」
始めは咄嗟の判断だった。彼女の手を離したら泡になって消えてしまいそうで、見知らぬ少女の自殺を止める為の行動だった。
今でも彼女を知れたとは思えないし、恐らく半分も莉緒は素を出してくれていない。それでも、彼女は初日よりも多く笑うようになった。
それにここ数日で、手を放しても彼女はすぐに消えてしまう訳ではないと思えるまでには理解が進んだ。数日前の私だったら家から出る彼女を追いかけていただろうし、見失ったら必死で捜索していただろう。それをこんな悠長に帰宅を待つ選択肢を取れるようになったのは大きな進歩。
そして、恐らく彼女よりも変わったのは私。
毎日ただ歯車のように回り続け、無感情に生きていた私がこんなに感情を表に出している。
自分の変化になんて大抵気が付かないものだけど、それが分かってしまう程に、私は変わった。彼女に変えられてしまった。
これじゃあ、どっちが手を差し伸べているのか分からない。
もしかすると、莉緒は神がこんな私に見かねて差し向けた天使なのかも。
そんな冗談を浮かべてしまうくらいには、確かに彼女に救われていた。
「……依存、しちゃうな」
壁にかかったカレンダーを見る。
今日が終われば八月。もう夏休みの三分の一が終わる。
包丁を置いて軽く手を洗い、タオルで両手を包みながらカレンダーに近づく。ぺらりと一枚捲ってみると、八月の二十六のマスに赤いペンで丸が付けられていた。
「ずっと前に書いたんだっけ」
印の下には始業式と書かれている。きっと莉緒と出会う前の私が書いた文字。
休みが終わって仕事が始まる。そんな辛い日だったけれど、今ではそれ以上に心が痛む。
その日が来たら彼女ともお別れ。この奇妙な同居生活も終わる。
「夏休みがずっと続けばいいのに」
蝉の音に乗せて放つ言葉は、正しく子供の頃に願った言葉と同じ響きだった。
私は手に持った七月に力を入れ、カレンダーから切り離す。
紙が破ける心地よい音に乗せて、玄関でいつもの声が響いた。
「ただいまです!」
声色は明るく、私の罪悪感は払拭される。
「どこ行ってたの?」
「色々です。散歩しながら色々と考えてきました」
「なにを?」
「毎日を輝かせる方法!」
玄関の暗がりからリビングに足を進める彼女の顔が夕日に照らされて光った。額に汗を浮かべる彼女は、また意味の掴みづらい言葉を放つ。
「輝かせる……?」
そして夏に咲くひまわりのように大輪の笑顔を見せながら、昨日私が莉緒に放った言葉を繰り返した。
「明日からは、楽しいことを沢山しましょう!」
私は面食らったように立ち竦む。やはり、まだ彼女の思考が読めない。ただ、彼女の言葉に頷かない訳がなかった。
「うん。楽しい夏休みにしよう」
彼女と過ごす生活は本当に楽しい。
彼女の為だなんて思いながら昨日発した言葉は、もしかすると私自身が彼女に言って欲しかった言葉なのかもしれない。
自分の事なんて、分からないものだ。
多分、私は私自身を理解していない。そういう風に、人間はできている。
それは彼女自身もそう。
だから私は彼女を見る。藍原莉緒が私を救っているように。私も彼女を救える。
これはそういう生活だ。
莉緒は玄関から上がると真先にベランダの鍵を開ける。
そして勢いよく扉を開けると、エアコンの効いた部屋に熱い空気が流れ込む。
「ねぇ、麻里さん。知ってますか?」
莉緒は部屋の中にいる私に振り返りながら、ベランダで空を指差す。
「午前中に雨が降って。午後にはカラっと晴れて」
莉緒は笑う。
「そんな日には、空が良く染まるんです」
彼女が背負うのは橙の空。
それはあの橋の上の光景を彷彿とさせる。
とても、美しい景色だった。
「ねぇ、麻里さん。夕日が綺麗ですね」
夏の花は満面に笑った。
「……ごめん」
台風は過ぎ、明け方まで降っていた雨は止み、空は青々と眩しい。
それは私達の心情も同じで、今まで無意識に保っていた微妙な距離感は消え始め、幾分か距離の縮まった関係が形成されつつあった。
喧嘩をした訳でもないが、雨降って、というところだろうか。ただ距離の詰まった途端、莉緒の言葉が心なしか強くなったのが今抱える小さな問題。
「それはまぁ、忘れてた私も悪いですよ。昨日の夜は浮かれて、明日は何をしようかなんて考えてた私もいました。でも、当の本人が忘れていたのは話が別じゃないですか?」
「別に忘れてたわけじゃ」
「ほら、さっさと授業に戻ってください」
「反論くらいさせてよ」
私はキッチンでその場に不釣り合いな教科書を広げる。目線の先にはローテーブルにノートを広げた生徒。こと、三年藍原莉緒。
「じゃあ、問二の開設から入ります……」
「先生。声が小さいでーす」
「部屋でそんなに声張れないでしょ!」
「じゃあ外で発声練習からやります?」
「なんでそんなに体育会系の発想なの……」
大学の時入っていたサークルを思い出しながら私は溜息をつく。社会に出てから三年目の人間にそのテンションは辛い。
「ていうか、もうやめない? 莉緒相手じゃ練習にならないよ」
「私じゃ役不足ってことですか?」
「まぁ、それもあるよね」
「馬鹿にしてます?」
「まぁ、多少は」
やる気のない私に頬を膨らませる自称生徒は、手に持っていたノートを投げ出すようにして床に転がった。
昨日あんなことを言ってみたものの、今日は七月三十一日。月の終わりという事は明日からは八月がやってくるわけで、八月の頭には私の教員採用試験があるわけで。
二次試験の内容は集団討論と模擬授業。そして個人面談。正直何を対策すればいいのか分からないし、分かったとしても対策するモチベーションがない。集団討論は適当に議題について意見を述べて周囲との協調性を見せればいいし、模擬授業なんてどうせ数分だ。毎日実践を行っている身としては欠伸が出る。問題なのは面接だけど、それはまぁ、もう今更どうにもならない訳で。
だから今日は彼女のしたい事でもしようかなんて思いながら朝ご飯を食べていたのに、莉緒は私の試験の日程が明日だと知るや否や前日くらい対策しろと騒いだ。
「買い物でも行こうよ。莉緒もそろそろどっかに買い物行きたいでしょ?」
「麻里さんの試験の方が優先ですー」
「莉緒がそんなに気にするもんじゃないって。受かる時は受かるし、落ちる時は落ちるんだから」
「麻里さんそれでもう三回も落ちてるんですよね? そろそろ危機感を持った方がいいですよ」
「そんなこと言われてもなぁ」
私は教卓に見立てたシンクの上で教科書を閉じ、莉緒の横でソファに寝転ぶ。
「ちょっと、授業中ですよ?」
莉緒は床に転がったまま天井を見上げている。そんな体勢の奴に授業の続行を促されたくない。
「そんな真面目なセリフは莉緒には似合わないよ」
「……もう。だって、私のせいで麻里さんが試験に落ちたら、私、合わせる顔無いじゃないですか。無理やり家に押し入って、迷惑はかけたくないんです」
「心配性だなぁ」
ソファに寝転がったまま腕を伸ばすと丁度莉緒の頭に触れることが出来そうで、髪を撫でまわしてやろうと狙いを定める。莉緒はそれに気が付いたのか、触られることを嫌う猫のようにそそくさと距離を取り、私のことを上目遣いで睨む。
「やっぱり麻里さん、おかしいです」
「そう?」
「だって普通だったら教員免許って必死になって取るものじゃないんですか? いわばそこがゴールで、そこからがスタートじゃないですか」
「一生勉強、なんて言うくらいだし」
「でも、麻里さんはどこか既にゴールしている雰囲気があるじゃないですか」
「あぁ……そう?」
「あぁって」
何度も試験に落ちている理由は意欲の欠如だと理解はしていた。教師としてこれから生きていくモチベーションは高くなく、貫きたい信念も多くない。別に子供が好きなわけでもなければ、勉強を人に教えることに楽しさを見出してもいない。
もし適正職業を決めてくれるシステムがあるとしても、私に高校教師という職業は絶対に当て嵌まらないだろう。
でも、私はここにいなければならない。
たった一つだけ理由がある。
「元々私、高校教師になりたい訳じゃなかったからさ」
「成り行きで先生になったってことですか?」
「ううん。違う」
これは人に話してもしょうがないこと。親にだって話したことは無いし、面接で口に出せるわけはない。でも、目の前の少女になら話してもいいかなと思える。
「これはね。ある人の夢なの」
これは彼の夢。
私が代わりに叶えた、ある男の夢。
あの頃、なにも持っていなかった私に唯一残された道しるべ。私は前に進むためにそのレールに乗るしかなかった。だってその道以外は全て暗闇で、どっちが前かすら分からなかったんだから。
「偶々ね。私がある人の夢を引き受けることになって。そして偶々私はその夢を叶えることができた。それだけの話だよ」
莉緒は私の言葉を聞き眉を顰める。
「もう叶えちゃったんだ。だから正直、ここから先に意味はないんだよ。教師を続ける必要もない」
「……なんですか、それ」
「でも、私、主体性無いからさ。何でもいいんだ。だからこのまま教師でいいかって」
莉緒の言葉の端は僅かに震えていて、それはまるで初日の私を見ているようだった。
人間、自分の理解が及ばない範囲には恐怖を覚えるしかない。
「ごめん。忘れて。つまらない話だから」
「本当に、つまらないじゃないですか……」
「……ストレートに言われると流石に傷つくよ?」
ただの過去話のつもりだった。だから私は飄々と、まるで莉緒が死の話を口にするように軽い口調で声にする。だって私もこの話は何度も何度も考えて、飲み込んできた物語だったから。だからこの話に関して私の感覚は麻痺していて、口に出す際に感情は追いついてこない。
でも、それを聞いた莉緒は違った。
勢いよく私に近づき、手を握られる。驚いて顔を上げると、莉緒の目は動揺の色をしていた。
「そんなの、つまらない……。だって、麻里さんの人生ですよね。今の話じゃ、まるで別の誰かの代役じゃないですか」
莉緒の声は芯から震え、次第に握られた手にも震えが伝わってくる。
それを見て私は嬉しく思った。
こんなにも私のことを思ってくれる人がいるなんて驚いた。
「莉緒は優しいね」
「だって、明らかにおかしいじゃないですか。そんなの生きてる意味――」
こんなにも私の目を見てくれる人がいたんだ。
そんなことに、驚いた。
「私は良いんだよ。ずっと、私はこうして生きてきたんだから」
長瀬麻里という人生はとうの昔に断線した。
だから、私にはもう、目的地はない。
途切れた私のレールの近くに、運よく廃線があったからそこに移っただけだ。
元から夢なんてなかった。だから誰の夢でも別に良かった。
前に進むための光であるなら、なんだってよかった。
「やっぱり、おかしいです」
「本当だね。莉緒に何も言えないや。自分でも分かってた筈なんだけどね。何もない人間だって」
ただ自分で人生を終わりにするのは怖いから、自然と燃料が切れるのを待っている。
意義もなく意味もなく。
ただ消耗しながら、消えていくのを待っている。
「そんなこと言わないでください」
教師になるのが夢だと言っていた。
だから私が代わりに教師になった。
正直私には非常勤講師も正規の教員も違いが分からない。
生徒の前に立って、様々なことを教えて。たまに彼の受け売りを話して。
いつしか私はここまで来ていた。
「だから莉緒の言う通り。もう私はゴールしてるとも言えるのかもね」
肩をすくめて笑って見せる。おどけたつもりだったのに、なぜか莉緒は顔を歪めた。
「じゃあ、麻里さんは何を目標に生きてるんですか?」
そんな莉緒から投げかけられたのはここ数日必死に考えた問。
彼女と対話する為に秘かに考えていた命題。
模範解答なんかないけど、きっと私の答えは世間一般からするとズレているんだろう。
「考えたんだけどね。答えが出ないんだよ。どうやっても出ない。だから私の答えは簡単なんだろうなって。……死にたくないんだ」
とても簡単な答え。
昨日の莉緒を抱きしめた時、辿り着いた。
異常なほど死に怯える彼女を見て、私もそうなのだと思った。
だから、私達は似ている。
そして。
対極にいる。
「……」
莉緒は何も言ってくれない。
「死にたくないから、生きている。自明の理って感じだけど」
もう一度、今度は自分に言い聞かせるように呟いてみる。その言葉には意味などなく空っぽで。何もない私には丁度いい回答だった。
「なんですか、それ。……意味わかりませんよ。急に先生みたいなこと言わないでください」
「自明の理? 覚えといたほうがいいよ? 何かと便利だし。証明す――」
「そんなこと言ってるんじゃないんです!」
悲鳴の様だった。莉緒の声が世界全ての音を掻き消してしまったかのように、真白な静寂が響く。ピリピリと痺れるように耳が痛み、少し考えてようやく莉緒が叫んだことを知った。
彼女が感情を剥き出しにしたのは十日も一緒にいて初めてのことじゃないだろうか。自分がその悲鳴の対象であることなど忘れ、莉緒が感情を露わにしたことに喜びを感じた。
いつも常に面を被っているような彼女の素を見ることができて、心が躍る。
「ごめんなさい。ちょっと、外に出てきます」
そして彼女は静かにこの部屋から出ていった。
とても綺麗な夕暮れだった。
窓の外は橙に染まっていて、明日の準備を終えた私はキッチンで料理の真似事をしてみたり。
莉緒はまだ帰ってこない。心配はあったけれど、どちらかと言えば罪悪感の方が大きかった。まるで叱られた後の子供みたい。彼女が感情を高ぶらせた訳はいまいち理解できないけれど、彼女が返ってきた時に機嫌を取れるようにこうして包丁を握っている。思考回路が小学生だ。
トン、トン、とぎこちない音が部屋に響く。
「静か……」
久しぶりに部屋に広がる静寂に震える。エアコンの設定温度はそこまで低くない。この震えは肌寒さというよりも。
「……寂しいんだ」
独り言を口にするのだって久しぶりだ。いつもならすぐに「なんですか?」と声が返ってくるのに、今は窓の外で鳴る蝉の音しか耳に返ってこない。
寂しさなんて感じるのはいつぶりだろうか。
大学進学を機にこっちに越してきた時だって、そんな感覚は覚えなかった気がする。数週間だけ付き合った彼氏と別れた時も、大学を卒業して友達と離れた時も、寂しさを自覚したことは無かった。
「なんでだろ」
そんなの簡単なことで。ここ数日がとても。
「楽しかったんだなぁ……」
始めは咄嗟の判断だった。彼女の手を離したら泡になって消えてしまいそうで、見知らぬ少女の自殺を止める為の行動だった。
今でも彼女を知れたとは思えないし、恐らく半分も莉緒は素を出してくれていない。それでも、彼女は初日よりも多く笑うようになった。
それにここ数日で、手を放しても彼女はすぐに消えてしまう訳ではないと思えるまでには理解が進んだ。数日前の私だったら家から出る彼女を追いかけていただろうし、見失ったら必死で捜索していただろう。それをこんな悠長に帰宅を待つ選択肢を取れるようになったのは大きな進歩。
そして、恐らく彼女よりも変わったのは私。
毎日ただ歯車のように回り続け、無感情に生きていた私がこんなに感情を表に出している。
自分の変化になんて大抵気が付かないものだけど、それが分かってしまう程に、私は変わった。彼女に変えられてしまった。
これじゃあ、どっちが手を差し伸べているのか分からない。
もしかすると、莉緒は神がこんな私に見かねて差し向けた天使なのかも。
そんな冗談を浮かべてしまうくらいには、確かに彼女に救われていた。
「……依存、しちゃうな」
壁にかかったカレンダーを見る。
今日が終われば八月。もう夏休みの三分の一が終わる。
包丁を置いて軽く手を洗い、タオルで両手を包みながらカレンダーに近づく。ぺらりと一枚捲ってみると、八月の二十六のマスに赤いペンで丸が付けられていた。
「ずっと前に書いたんだっけ」
印の下には始業式と書かれている。きっと莉緒と出会う前の私が書いた文字。
休みが終わって仕事が始まる。そんな辛い日だったけれど、今ではそれ以上に心が痛む。
その日が来たら彼女ともお別れ。この奇妙な同居生活も終わる。
「夏休みがずっと続けばいいのに」
蝉の音に乗せて放つ言葉は、正しく子供の頃に願った言葉と同じ響きだった。
私は手に持った七月に力を入れ、カレンダーから切り離す。
紙が破ける心地よい音に乗せて、玄関でいつもの声が響いた。
「ただいまです!」
声色は明るく、私の罪悪感は払拭される。
「どこ行ってたの?」
「色々です。散歩しながら色々と考えてきました」
「なにを?」
「毎日を輝かせる方法!」
玄関の暗がりからリビングに足を進める彼女の顔が夕日に照らされて光った。額に汗を浮かべる彼女は、また意味の掴みづらい言葉を放つ。
「輝かせる……?」
そして夏に咲くひまわりのように大輪の笑顔を見せながら、昨日私が莉緒に放った言葉を繰り返した。
「明日からは、楽しいことを沢山しましょう!」
私は面食らったように立ち竦む。やはり、まだ彼女の思考が読めない。ただ、彼女の言葉に頷かない訳がなかった。
「うん。楽しい夏休みにしよう」
彼女と過ごす生活は本当に楽しい。
彼女の為だなんて思いながら昨日発した言葉は、もしかすると私自身が彼女に言って欲しかった言葉なのかもしれない。
自分の事なんて、分からないものだ。
多分、私は私自身を理解していない。そういう風に、人間はできている。
それは彼女自身もそう。
だから私は彼女を見る。藍原莉緒が私を救っているように。私も彼女を救える。
これはそういう生活だ。
莉緒は玄関から上がると真先にベランダの鍵を開ける。
そして勢いよく扉を開けると、エアコンの効いた部屋に熱い空気が流れ込む。
「ねぇ、麻里さん。知ってますか?」
莉緒は部屋の中にいる私に振り返りながら、ベランダで空を指差す。
「午前中に雨が降って。午後にはカラっと晴れて」
莉緒は笑う。
「そんな日には、空が良く染まるんです」
彼女が背負うのは橙の空。
それはあの橋の上の光景を彷彿とさせる。
とても、美しい景色だった。
「ねぇ、麻里さん。夕日が綺麗ですね」
夏の花は満面に笑った。