雨が降っていた。
静かな朝だった。
本当に、静かな朝だった。
目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
こんな日に見る天井は特別に暗い。。
私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックのケースを手に取る。
あれ、いつもの音がしない。
私は軽いケースの蓋を開け、口の上でひっくり返す。そこでようやく、このケースの中に何も入っていないことに気が付いた。
「……空じゃん」
ここ数年、この行動がルーティンと化してしまってからは一度も切らしたことが無かったのに。こんな陰鬱な朝にそれが初めて起こるなんてついてない。どうして昨日買っておかなかったんだろう。もう今はそんな疑問も睡魔に飲まれる。
あぁ、二度寝なんて久しぶりだ。
ここ一週間。同居人がそれを許してくれなかった。
今日は彼女の声もしないし、キッチンから香ばしい匂いも漂ってこない……。
「……莉緒ちゃん?」
ふと、目を瞑りながら彼女の名前を呼んでみる。
返事はない。まだ寝ているのだろうか。彼女も熟睡できているならそれはそれでいいことだ。ここ最近、あまり上手く眠れてないようだったし。
再び意識を手放そうとすると、フラッシュバックするようにとある光景が浮かぶ。
『ほら。手首も腕も傷一つないでしょ?』
「――っ!」
あれは、夢?
昨日はいつもの悪い夢に目を覚まして。そしたら彼女がキッチンにいて。
一瞬で全身に寒気が走った。
慌ててベッドから飛び降り、ソファーを覗く。
そこに藍原莉緒はいなかった。
「莉緒……ちゃん?」
首を回すが彼女の姿は視界に映らない。廊下に飛び出して風呂とトイレの扉を開く。電気は消えたままで人影はない。
「どこ行ったの……」
そんなに広い部屋じゃない。彼女がこの部屋にいないことはすぐに分かった。だから余計に不安に駆られ、正常な思考ができなくなる。
「莉緒ちゃん?」
もう一度、声を上げてみる。
「莉緒ちゃん?」
頭は真白だ。
焦っているのが分かる。
焦っている。
焦る。
どこへ行った?
もしかして。
「――っ」
慌ててベランダに出ようとするが、そこにはきちんと鍵が閉まっていて胸をなでおろす。
それなのに何故か鍵を開けて私はベランダに出てみる。
人影はない。
風に煽られた雨水が私を濡らす。風は勢いが強く、壁面はおろかガラス戸にも雨粒を叩きつけている。開けたままの扉を通り越し、ビチャビチャと音を立てて室内のフローリングにも水が飛び散った。
「莉緒……」
静かな朝だった。
空は灰色。雨音はもう聞こえていない。
なぜ視界に色がないんだろう。まるで古い映画を見ているようだ。
なぜ私の息の音しか聞こえないんだろう。これは夢の中なのか。
「どうして」
チカチカと視界が揺れる。
私の部屋が捻じれていく。
ここは。あたしの部屋?
私は部屋の真ん中で膝をつく。
ここはどこ?
数年間過ごした部屋の筈なのに、ここが自分の部屋だという確証が持てない。
こんな物、買ったっけ?
ここにはある筈の無い物が私の部屋に重なって見える。
ここはどこ?
あたしはいつから地元に帰った?
ここは、あたしが高校生の頃に通っていたあの部屋。
……違う。
ここは私が社会人になってから借りた部屋。
外を見る。
そこにはもう雨空はない。
明るい光が部屋にさし込む。
床に飛び散った筈の雨粒はどこにも見えない。
あたしの視界には綺麗な朝焼けが広がっていた。
あたしはこの朝焼けを知っている。
『まーちゃん』
「――っ!」
声が聞こえた。
懐かしい声。
『まーちゃん――――』
辺りを見回す。
声の主はどこにもいない。
「どこ?」
『――――』
「どこにいるの?」
『――――』
再び空を見上げると鉛色の空。
景色が白く煙るほど強い雨が降っている。
違う。あの日はこんな雨の朝じゃなかった。
あたしが知っているのはもっと綺麗な朝。
藍色に染まった美しい空。
「行かないで……」
あたしは虚空に手を伸ばす。
そこには何もない?
本物が何かも分からない。
周囲を見回す。
周囲を見回す。
周囲を見回す。
本棚。机。ソファ。ぬいぐるみ。
あれ、ぬいぐるみなんていつ買ったっけ。
茶色いクマのぬいぐるみに手を伸ばすと、それはホログラムのようにあたしの腕をすり抜け、消えていく。
その代わりにあたしの手に触れたのは、あたしの部屋に転がり込んできた少女の荷物だった。
「……莉緒」
瞬間、激しい雨音が鼓膜を揺らした。
その衝撃に平手打ちされたかのようにあたしは目を覚ます。
視界に広がるのは紛れもなく今のあたしの部屋。
今いなくなったのは、藍原莉緒。
莉緒。
どこに行ったの。
莉緒。
消えないで。
莉緒。
おいていかないで。
あたしは座り込んだ状態から、慌てて立ち上がり走り出す。
足を何かにぶつけ、鈍い音がしたが痛覚は働いていなかった。
ドアの鍵は開いていて、ドアノブに手を掛けるとすんなり外側に開く。
あたしは靴も履かず、寝間着のまま外に飛び出した。
行かないで。
行かないで。
置いて行かないで。
夏なのに肌寒い。
そんな朝がやはりあの日を思い出させる。
ラムネは食べていない。
手首に巻いた重さもない。
ここ数年必ず続けてきたルーティンが無いあたしは、あの日のあたしと同じだった。
歩幅が変わっていることに違和感を覚た時、あたしの足は縺れコンクリートに体を打ち付けていた。
おかしい。あたしの身体ってこんなに大きかったっけ。数ミリの身体の違いが気持ち悪い。まるで一回り大きな自分の皮を被っているみたいだ。
体を起こそうと地面に手をつき、顔を上げる。急に視界の半分が黒く染まり、あたしは悲鳴を上げる。
髪……。あぁ、髪か。そういえば伸ばしていたっけ。
あたしはふらふらと立ち上がり、階段を目指す。
一人にしないで。
あたしを一人にしないで。
前に進むことだけを考え、階段を見る。
見下ろした先の踊り場。六階と五階の狭間に、莉緒はいた。
「あ、麻里さ――っ」
「莉緒!」
あたしは転がるように階段を駆け下り、彼女の腕を掴み思いっきり引き寄せると、肩を命一杯に抱きしめる。
彼女の手から何かの袋が落ち、グシャと歪な音が鳴った。
「何――?! ちょっ、麻里さん?」
「駄目。駄目……。駄目だから」
彼女の体を下方向に引き、膝を付かせる。そんな彼女をあたしは上から抱きしめる。
これで、飛び降りたりしない。
手すりにすら手は届かせない。
「行かないで……」
「は?」
「置いて行かないで。……ずっと。ここにいて」
莉緒はあたしの手を振り払おうと身を捩る。逃がしたりなんてしない。ここで手を離したらあたしは一生後悔する。
「――――――――」
莉緒が何かを言っている。あたしの耳元で何かを言っている。
だがすべては雨音に掻き消されて、消えていく。
もう、何も言わないで。
全て受け入れるから。
あなたの悩みを分かってあげられるから。
一緒に考えていけるから。
だってあたしはこんなに大人になった。
大人になったんだよ。
強く強く抱きしめると、次第に音も光も、頭の中の声さえも消えてなくなった。
「……ん」
目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
こんな日に見る天井は特別に暗く感じる。
私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックの……って、少し前に同じ行動を取った気がする。
頭を横に倒すと額から白い何かが転がり落ちた。
「あ、麻里さん。起きました?」
「……私」
意識が朦朧とする。視界もゆらゆらと揺れている。
「麻里さんすごい熱ですよ。今おかゆ作ってるんでそれ食べて寝た方がいいです」
「え……」
言われてみれば目頭が熱い。顔に手を当ててみると夏のアスファルトの様だった。
身じろぐと脛に鈍い痛みが走る。
どこかでぶつけた? いつ?
悪い夢を見た気がする。彼女が部屋からいなくなって必死に探す夢。
とても嫌な夢だった。いつもの悪夢と混ざったモノクロで残酷な夢。あの夢の結末はどうなったんだっけ。
キッチンから何かが沸騰する音と、ほんのり甘い匂いが漂う。
目を瞑ってその幸せを胸いっぱいに吸い込むと意識はするりと抜け落ちた。
『君、ここを辞めるの?』
『……誰ですか?』
『別に誰だっていいじゃない。僕は君が辞める訳を知りたいんだ』
『なんで他人に喋らなきゃ……』
『だって君、中三だよね。この時期に辞めるなんて変だなって』
『なんであたしの学年……気持ち悪』
『酷いなぁ』
ヘラヘラと笑う男はあたしの隣に立つ。
数年通っていた塾の廊下は初めて来たときよりも狭く感じた。
塾を辞める手続きの為に廊下で待たされて数分。隣に立った知らない男に声を掛けられて数秒。あたしは隣の男から逃げるわけにもいかず、二メートル程隣から向けられる視線を無視し続ける。
こんなやつ、同級生にいたっけ。見たことないな。新人かな。
『あ、僕? 僕は高一だから君は僕の顔を知らないかも』
なにそれ、気持ち悪い。あたしのことを一方的に知ってるってこと?
ちらりと視線を向けて声の主を見る。身長はあたしより十センチ大きいくらい。体は細く、なよっとした印象。真面目な髪型もその印象に拍車を掛けていた。
『君、僕と同じ目をしてるから気になってたんだ。受験前にそんな目をしてる人はここにはいないから、珍しくて』
『……目?』
『うん。よく言われるんだ。目が死んでるって。君は鏡で見る僕の目と同じ目をしてる』
失礼な人。声を掛けておいて目が死んでるなんて最低な口説き文句だ。
『ごめんね。気を悪くさせたなら謝るよ。僕は本当に君がここを辞める理由が知りたいだけなんだ』
それでも尚しつこく食い下がる男を無視しておくのも頭にきて、不機嫌な声で返答を投げ捨てる。
『なんかもう。どうでもよくなって』
『へぇ……』
どうしても知りたいと言うから教えてやったのに、当の男は曖昧な相槌を返してくるだけ。流石にイライラしてくる。
『用は済んだ?』
『もう一つだけ』
『は?』
『僕も先生を待ってるんだよ。だからそれまでにもう一つ』
男と目を合わせないように職員室の扉を見ていたあたしの目の前に男は立つ。視界の中央に入った男の目は、彼が自称するように光を写していなかった。
『君は何のためにここに通ってたの?』
なにを聞かれても答える気は無かったけど、その質問だけは別だった。あたしがここ数カ月抱えていた鬱憤を晴らすのに丁度よかった。誰にも言えない愚痴を吐き出せるなら、知らないこいつでもいいかと思ってしまったんだ。
『……母親の為だった。でも』
『でも?』
『裏切られた』
男の目にガンを飛ばしながら、ガムでも吐き捨てるように言葉を喉から出すと、男は静かに笑った。
『じゃあ、僕と同じだ』
その笑みは体育の授業でペアを見つけられなかった生徒が、視界の端に一人で歩く人間を見つけた時の様な。そんな救いの光を見つけた時の笑みのような気がして、とても気持ち悪かった。
『僕は鈴鹿佳晴。良ければ、友達になってくれないかな?』
『嫌だよ。気持ち悪い……』
それが彼との出会いだった。
通っていた塾は三カ月ごとに月謝を払っていたから、先生に辞めると伝えた後も一カ月近くは足を運ぶ羽目になった。一刻も早く辞めたいと思うのに、勿体ないが先行してしまうのを考えると貧乏が脳に染み付いてしまっているのかもしれない。
そして気持ち悪いことに、あたしが教室と玄関を繋ぐ廊下を歩くたびに、この男は待ち構えていたかのように自習室から顔を出し、あたしに声を掛けた。
『君、今日が最後でしょ?』
『……は?』
『今日月末だしさ。さっきも先生と話してたの見たから』
『うるさいストーカーがいなくなって済々する』
『寂しいなぁ』
『全然』
始めは真面目に無視を決め込んでいたあたしも、懲りずに声を掛けてくる男に投げる文句と苛立ちが募り、出会って二週間もすればあたしはこの男にきつい言葉を吐くようになっていた。
『高校受験はどうするの? このタイミングで辞めたら大変じゃない?』
『えり好みしなければどこだって入れる』
中学三年生の冬。学校の友達は大抵が受験勉強に精を入れ、初めての受験戦争に備える中、あたしはその目前で立ち止まっていた。マラソンで皆がラストスパートをかける中で立ち止まるあたしに、皆驚きの顔を見せるけど、正直ゴールまで走る気力はどこにも残っていなかった。
こんな人間を一般に「グレる」と表現するのだろうか。去年までは我ながら良い生徒だったと思う。学力だって校内で上位一割には留まっていたし、部活だってそこそこ頑張ってきた。先生からも信頼され将来を期待されていた、と思う。そんな人間が家庭の事情なんていう有り触れたものでこうなってしまうんだ。呆れられて当然かもしれない。
荒んで周囲に合わせられなくなったあたしの周囲からは徐々に人が減っていった。友達も減り、教師からの言葉も減り、そして家で母親と話すことも減った。そんな中ここで意気揚々と話しかけてくるこの男は感情の良い捌け口だった。
『あんたこそ、なんで毎日こんな勉強してんの? 受験も終わったんだしこんなとこ来なくてもいいでしょ』
『……まぁ、僕にはこれしかないからね』
ヘラヘラと笑う男に溜息をつき、あたしは廊下を進む。
『もう帰るの?』
『いや、駅前のゲーセンにでも行こうかなって』
『もう十時過ぎるよ? 危ない』
『今日はちょっと家に帰れない事情があんの』
頭にチラつくその事情にイライラしながらあたしは靴を取り出す。
ここも今日で最後。この男とももう会うことは無い。なのに。
『じゃあ、うち来る?』
『……は?』
この男はまるで駅前の女に掛けるようなセリフをあたしに投げかける。
『いや、別に変な意味とかじゃなくてね。君にとって僕の部屋は逃げ込むには丁度いいと思うよ』
『意味わかんないし』
『だから言ったじゃん。分かるんだ。君の気持ち。だって君は僕と同じ目をしてる』
またも軽い笑みを浮かべる男にあたしは警戒心を抱かなかった。
男の家なんかに足を運んだらレイプされるんじゃないか。なんて年相応の思考を巡らせるけれど、すぐにその考えは消えてなくなってしまった。目の前の男からは性欲なんて俗世じみたものは一切感じない。上っ面を取り繕って清潔感を醸し出そうとする男が浮かべる汚い笑顔とは根本的に違う。まるで、煩悩を全て捨ててしまったような、仏のような顔をしていた。
だからあたしはこの男の提案を受け入れる。
『その、君って呼び方やめてくんない? ある人を思い出してイライラする』
『じゃあ何て呼べばいいの?』
『麻里』
『上の名前は?』
『嫌いだから教えない』
『変な人だね』
『あんたもね』
あたしに強い言葉を投げられて嬉しそうに男は笑う。そういう性癖なのかな。ますますキモい。
『じゃあ、まーちゃんだ』
『は?』
『名前で呼ぶのって恥ずかしいからさ。だからまーちゃん』
『こっちが恥ずかしいからやめろ』
男はあたしの言葉にまた笑った。
『なにこれ……』
男の家を案内され、あたしは口を開けたまま固まる。
『知らなかったの?』
『知ってるわけないでしょ』
『結構有名だと思ってたけど』
案内されたのは駅から徒歩一分以内にあるマンションの一室。一家族が住むには小さい部屋。ただ高校生が一人で住むには大きすぎる部屋
『一人暮らしをしている高校生なんて珍しいからさ。良く噂になるんだ』
『親は?』
『ちゃんと生きてるよ。僕が一人暮らししたいって言ったら借りてくれたんだ』
『ボンボンじゃん』
『残念ながらね』
室内にはほとんど物がない。ベッドと机と本棚。カーペットもなく床は剥き出し。引っ越したばかりと言われても頷いてしまう程に生活感が無い。
『まぁ座ってよ。眠気覚ましの珈琲しかないけど、飲む?』
あたしが頷くとこれまた生活感の無い冷蔵庫の中から缶珈琲が二本、机の上に置かれる。
『この季節に冷たいのって』
『眠気覚ましだからね』
『おもてなしって言葉を知らないの』
『ごめんて。これでも友達を部屋に入れるのは初めてだから緊張してるんだ』
『これだったらマックで徹夜した方がマシ』
『そう言わずにさ。……それよりもびっくりしたよ。僕の噂を知らない人と話すのはこんなに楽なんだね』
『今からそれも全部聞くけど?』
『まーちゃんならきっと、聞き終わった後でも何も変わらずに接してくれると思うよ』
『だからその呼び方』
男。佳晴は缶珈琲のプルタブに指を掛けながら、ゆっくりと自己紹介を始める。
『みんな知ってるんだ。僕の家が金を持ってるって。一人暮らしなんてしてるくらいだから、言われても仕方ないのは分かってるけど。有る事無い事、正直うんざり』
『金があるんだから、仕方ないでしょ。その分良い暮らしをしてる。うらやましいくらい』
『そうだね。みんなそう言う。でもね。金は人をおかしくするんだよ』
そうして佳晴はあたしに様々なことを話していく。
家は隣町にあって父親はどうもお偉い外科医だという事。噂の通り家にはかなりの金があって裕福な暮らしをしていること。高校はこの近くにある日本でも有数の進学校に通っていること。そして母親の狂気じみた学習支援の事。
『ごめんね。こんな話』
また彼は軽い笑顔を張り付ける。薄い皮を一枚剥げばきっと笑顔なんてどこにもないんだろう。その証拠に彼の目は深く死んでいる。
『無理に笑わなくてもいい。その顔、気持ち悪いし』
『ほら。まーちゃんは普通に接してくれる』
『印象は変わった』
『やっぱり。まーちゃんは優しい。僕の見立て通りだ』
あたしを何も知らない彼があたしを褒めることに居心地の悪さを感じる。だから仕返しとばかりに、どんどんと彼のテリトリーに土足で入り込んでいく。
『母親にはどんなことをされたの?』
『聞きたい?』
『興味はある』
『そっか。でも別に面白い話はないよ』
『面白さを期待してないから』
『……勉強するときはいつも僕の後ろで見張っていて、覚えが悪かったり勉強の進みが悪いと怒鳴り始めるんだ。それがエスカレートしていくと手も出る』
『……』
『とりあえず僕を拘束して勉強勉強勉強。それ以外のことは片っ端から禁止。普段は良い人なんだけどね。自分の思い通りに成長しないと怒りだすんだ』
まるで育成ゲーム。あたしもやったことがある。特定のステータスを上げる為に同じモンスターを何度も何度も繰り返し倒し続ける。段々とそれが作業になっていって、上手く完成しなければ時間の無駄だったと割り切って捨てる。
彼が話す内容から考えられるのは、そんな作業を子供でやっている毒親。
『そしていつも言うんだ。ママを将来幸せにしてね。って』
『……反抗しないの?』
『昔はしてたかもね。でも、もうその気力もなくなった。最後の反抗として母親から逃げて一人暮らしを始めた癖に、毎日勉強ばかりしてるんだ。おかしいよね。もう僕の頭は勉強しかできない頭になってるんだよ』
『バカみたい』
『はじめて言われた』
話から逃げるように珈琲を口につける。真黒の缶に入っているその液体は、まだあたしの舌には美味しく感じない。ただ少しでも大人に近づきたくてそれを一気に喉に流し込んだ。
『まーちゃんが抱えてる物は今は聞かない。でも、好きな時に僕を捌け口にしていい』
『一生そんな機会訪れないから大丈夫』
『僕は僕を増やしたくないんだよ。……こんなの、間違ってる』
『そんな善意であたしに声を掛けたの?』
『それ半分、僕自身が救われるの半分』
『そう』
『だからまーちゃんはいつでもここに逃げてきていい。辛ければいつでも』
『……気持ち悪い』
そうだねと笑う彼の目は、あたしよりも暗く深い。その目を見ているとどこか落ち着く様な、そんな気さえしていた。
その日から結局、あたしはこの男の部屋に足を運ぶようになった。
二週に一回が週に一回になり、それが週二回になり。反抗期の中学生が家に帰るのを少しでも遅らせようと、学校に居座るのと同じように、あたしはこの部屋を居場所にした。
流石にこの部屋で朝を迎えることは無かったものの、いずれここで夜を明かすことになることは容易に想像ができた。それほどに居心地が良かった。
似たような人間と一緒にいることはとても楽で、深く呼吸ができる。気が付けばあたしの事情も彼に話してしまっていた。それでも、お互いの事情を知りながら口を出すことは無く、無干渉のままただそこに二人で居る。それにどこか温かさを感じた。
『まーちゃんは結局高校どうするの?』
『適当な所に入る。これでも今まで勉強してきた分があるからある程度の所には入れるし』
『それでいいの?』
『うん。別に目標もないし』
『そう』
担任にも同じことを言われた。目標が無くてもより良い高校を目指せとも言われた。勿体ないとも言われた。その言葉で担任もあたしの中では敵になった。
『なんでいい高校に行くんだろ』
『いい大学に行くためじゃない?』
『なんでいい大学に行くの?』
『いい所に就職する為じゃない?』
『つまんない』
『そうだね』
走ってきた道を立ち止まるあたしと、敷かれたレールの上を走り続ける彼。対極の二人だけれど確かに似ていた。
『まーちゃんはさ、夢とかないの?』
『……ないな』
『考えたこともない?』
『前までは公務員とかになるんだと思ってた。安定した職について、安定した生活をして、お母さんを養って』
前までは。
『でも、その目標もいらなくなっちゃったから』
『そう』
この男はあたしの意見を否定しない。無感情な相槌だけを入れてくれる。それがとても心地よかった。だから人間相手に話さない悩みもここでならするりと喉を通って出てくる。生気のない彼を壁か何かだと思っているのかもしれない。
『僕はね。夢があるんだ』
だからそんな彼が自分の夢を持っていると言い放った時には驚いた。
いつもは暗い沼の底を写しているような彼の目が一瞬だけ光を宿す。
『僕にはもう分からなくなっちゃったけど、まーちゃんと話していて少し理解はできた。僕が過ごしてきた勉強漬けの生活はやっぱりおかしい。でも今更僕の過去は変えられない。だから、少しでも僕のような人間を減らしたい』
『大層な夢。政治家にでもなるの?』
『ううん。もっと身近な存在だよ。空高くから見下ろしたって蟻の実態は分からない』
おかしな言い回しを使う。勉強し過ぎるとこんな捻くれた比喩を使うようになるのか。こうはなりたくない。
『僕はね。教師になりたいんだ』
あたしが見た鈴鹿佳晴の顔の中で、その瞬間が一番生き生きとした色だった。
静かな朝だった。
本当に、静かな朝だった。
目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
こんな日に見る天井は特別に暗い。。
私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックのケースを手に取る。
あれ、いつもの音がしない。
私は軽いケースの蓋を開け、口の上でひっくり返す。そこでようやく、このケースの中に何も入っていないことに気が付いた。
「……空じゃん」
ここ数年、この行動がルーティンと化してしまってからは一度も切らしたことが無かったのに。こんな陰鬱な朝にそれが初めて起こるなんてついてない。どうして昨日買っておかなかったんだろう。もう今はそんな疑問も睡魔に飲まれる。
あぁ、二度寝なんて久しぶりだ。
ここ一週間。同居人がそれを許してくれなかった。
今日は彼女の声もしないし、キッチンから香ばしい匂いも漂ってこない……。
「……莉緒ちゃん?」
ふと、目を瞑りながら彼女の名前を呼んでみる。
返事はない。まだ寝ているのだろうか。彼女も熟睡できているならそれはそれでいいことだ。ここ最近、あまり上手く眠れてないようだったし。
再び意識を手放そうとすると、フラッシュバックするようにとある光景が浮かぶ。
『ほら。手首も腕も傷一つないでしょ?』
「――っ!」
あれは、夢?
昨日はいつもの悪い夢に目を覚まして。そしたら彼女がキッチンにいて。
一瞬で全身に寒気が走った。
慌ててベッドから飛び降り、ソファーを覗く。
そこに藍原莉緒はいなかった。
「莉緒……ちゃん?」
首を回すが彼女の姿は視界に映らない。廊下に飛び出して風呂とトイレの扉を開く。電気は消えたままで人影はない。
「どこ行ったの……」
そんなに広い部屋じゃない。彼女がこの部屋にいないことはすぐに分かった。だから余計に不安に駆られ、正常な思考ができなくなる。
「莉緒ちゃん?」
もう一度、声を上げてみる。
「莉緒ちゃん?」
頭は真白だ。
焦っているのが分かる。
焦っている。
焦る。
どこへ行った?
もしかして。
「――っ」
慌ててベランダに出ようとするが、そこにはきちんと鍵が閉まっていて胸をなでおろす。
それなのに何故か鍵を開けて私はベランダに出てみる。
人影はない。
風に煽られた雨水が私を濡らす。風は勢いが強く、壁面はおろかガラス戸にも雨粒を叩きつけている。開けたままの扉を通り越し、ビチャビチャと音を立てて室内のフローリングにも水が飛び散った。
「莉緒……」
静かな朝だった。
空は灰色。雨音はもう聞こえていない。
なぜ視界に色がないんだろう。まるで古い映画を見ているようだ。
なぜ私の息の音しか聞こえないんだろう。これは夢の中なのか。
「どうして」
チカチカと視界が揺れる。
私の部屋が捻じれていく。
ここは。あたしの部屋?
私は部屋の真ん中で膝をつく。
ここはどこ?
数年間過ごした部屋の筈なのに、ここが自分の部屋だという確証が持てない。
こんな物、買ったっけ?
ここにはある筈の無い物が私の部屋に重なって見える。
ここはどこ?
あたしはいつから地元に帰った?
ここは、あたしが高校生の頃に通っていたあの部屋。
……違う。
ここは私が社会人になってから借りた部屋。
外を見る。
そこにはもう雨空はない。
明るい光が部屋にさし込む。
床に飛び散った筈の雨粒はどこにも見えない。
あたしの視界には綺麗な朝焼けが広がっていた。
あたしはこの朝焼けを知っている。
『まーちゃん』
「――っ!」
声が聞こえた。
懐かしい声。
『まーちゃん――――』
辺りを見回す。
声の主はどこにもいない。
「どこ?」
『――――』
「どこにいるの?」
『――――』
再び空を見上げると鉛色の空。
景色が白く煙るほど強い雨が降っている。
違う。あの日はこんな雨の朝じゃなかった。
あたしが知っているのはもっと綺麗な朝。
藍色に染まった美しい空。
「行かないで……」
あたしは虚空に手を伸ばす。
そこには何もない?
本物が何かも分からない。
周囲を見回す。
周囲を見回す。
周囲を見回す。
本棚。机。ソファ。ぬいぐるみ。
あれ、ぬいぐるみなんていつ買ったっけ。
茶色いクマのぬいぐるみに手を伸ばすと、それはホログラムのようにあたしの腕をすり抜け、消えていく。
その代わりにあたしの手に触れたのは、あたしの部屋に転がり込んできた少女の荷物だった。
「……莉緒」
瞬間、激しい雨音が鼓膜を揺らした。
その衝撃に平手打ちされたかのようにあたしは目を覚ます。
視界に広がるのは紛れもなく今のあたしの部屋。
今いなくなったのは、藍原莉緒。
莉緒。
どこに行ったの。
莉緒。
消えないで。
莉緒。
おいていかないで。
あたしは座り込んだ状態から、慌てて立ち上がり走り出す。
足を何かにぶつけ、鈍い音がしたが痛覚は働いていなかった。
ドアの鍵は開いていて、ドアノブに手を掛けるとすんなり外側に開く。
あたしは靴も履かず、寝間着のまま外に飛び出した。
行かないで。
行かないで。
置いて行かないで。
夏なのに肌寒い。
そんな朝がやはりあの日を思い出させる。
ラムネは食べていない。
手首に巻いた重さもない。
ここ数年必ず続けてきたルーティンが無いあたしは、あの日のあたしと同じだった。
歩幅が変わっていることに違和感を覚た時、あたしの足は縺れコンクリートに体を打ち付けていた。
おかしい。あたしの身体ってこんなに大きかったっけ。数ミリの身体の違いが気持ち悪い。まるで一回り大きな自分の皮を被っているみたいだ。
体を起こそうと地面に手をつき、顔を上げる。急に視界の半分が黒く染まり、あたしは悲鳴を上げる。
髪……。あぁ、髪か。そういえば伸ばしていたっけ。
あたしはふらふらと立ち上がり、階段を目指す。
一人にしないで。
あたしを一人にしないで。
前に進むことだけを考え、階段を見る。
見下ろした先の踊り場。六階と五階の狭間に、莉緒はいた。
「あ、麻里さ――っ」
「莉緒!」
あたしは転がるように階段を駆け下り、彼女の腕を掴み思いっきり引き寄せると、肩を命一杯に抱きしめる。
彼女の手から何かの袋が落ち、グシャと歪な音が鳴った。
「何――?! ちょっ、麻里さん?」
「駄目。駄目……。駄目だから」
彼女の体を下方向に引き、膝を付かせる。そんな彼女をあたしは上から抱きしめる。
これで、飛び降りたりしない。
手すりにすら手は届かせない。
「行かないで……」
「は?」
「置いて行かないで。……ずっと。ここにいて」
莉緒はあたしの手を振り払おうと身を捩る。逃がしたりなんてしない。ここで手を離したらあたしは一生後悔する。
「――――――――」
莉緒が何かを言っている。あたしの耳元で何かを言っている。
だがすべては雨音に掻き消されて、消えていく。
もう、何も言わないで。
全て受け入れるから。
あなたの悩みを分かってあげられるから。
一緒に考えていけるから。
だってあたしはこんなに大人になった。
大人になったんだよ。
強く強く抱きしめると、次第に音も光も、頭の中の声さえも消えてなくなった。
「……ん」
目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
こんな日に見る天井は特別に暗く感じる。
私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックの……って、少し前に同じ行動を取った気がする。
頭を横に倒すと額から白い何かが転がり落ちた。
「あ、麻里さん。起きました?」
「……私」
意識が朦朧とする。視界もゆらゆらと揺れている。
「麻里さんすごい熱ですよ。今おかゆ作ってるんでそれ食べて寝た方がいいです」
「え……」
言われてみれば目頭が熱い。顔に手を当ててみると夏のアスファルトの様だった。
身じろぐと脛に鈍い痛みが走る。
どこかでぶつけた? いつ?
悪い夢を見た気がする。彼女が部屋からいなくなって必死に探す夢。
とても嫌な夢だった。いつもの悪夢と混ざったモノクロで残酷な夢。あの夢の結末はどうなったんだっけ。
キッチンから何かが沸騰する音と、ほんのり甘い匂いが漂う。
目を瞑ってその幸せを胸いっぱいに吸い込むと意識はするりと抜け落ちた。
『君、ここを辞めるの?』
『……誰ですか?』
『別に誰だっていいじゃない。僕は君が辞める訳を知りたいんだ』
『なんで他人に喋らなきゃ……』
『だって君、中三だよね。この時期に辞めるなんて変だなって』
『なんであたしの学年……気持ち悪』
『酷いなぁ』
ヘラヘラと笑う男はあたしの隣に立つ。
数年通っていた塾の廊下は初めて来たときよりも狭く感じた。
塾を辞める手続きの為に廊下で待たされて数分。隣に立った知らない男に声を掛けられて数秒。あたしは隣の男から逃げるわけにもいかず、二メートル程隣から向けられる視線を無視し続ける。
こんなやつ、同級生にいたっけ。見たことないな。新人かな。
『あ、僕? 僕は高一だから君は僕の顔を知らないかも』
なにそれ、気持ち悪い。あたしのことを一方的に知ってるってこと?
ちらりと視線を向けて声の主を見る。身長はあたしより十センチ大きいくらい。体は細く、なよっとした印象。真面目な髪型もその印象に拍車を掛けていた。
『君、僕と同じ目をしてるから気になってたんだ。受験前にそんな目をしてる人はここにはいないから、珍しくて』
『……目?』
『うん。よく言われるんだ。目が死んでるって。君は鏡で見る僕の目と同じ目をしてる』
失礼な人。声を掛けておいて目が死んでるなんて最低な口説き文句だ。
『ごめんね。気を悪くさせたなら謝るよ。僕は本当に君がここを辞める理由が知りたいだけなんだ』
それでも尚しつこく食い下がる男を無視しておくのも頭にきて、不機嫌な声で返答を投げ捨てる。
『なんかもう。どうでもよくなって』
『へぇ……』
どうしても知りたいと言うから教えてやったのに、当の男は曖昧な相槌を返してくるだけ。流石にイライラしてくる。
『用は済んだ?』
『もう一つだけ』
『は?』
『僕も先生を待ってるんだよ。だからそれまでにもう一つ』
男と目を合わせないように職員室の扉を見ていたあたしの目の前に男は立つ。視界の中央に入った男の目は、彼が自称するように光を写していなかった。
『君は何のためにここに通ってたの?』
なにを聞かれても答える気は無かったけど、その質問だけは別だった。あたしがここ数カ月抱えていた鬱憤を晴らすのに丁度よかった。誰にも言えない愚痴を吐き出せるなら、知らないこいつでもいいかと思ってしまったんだ。
『……母親の為だった。でも』
『でも?』
『裏切られた』
男の目にガンを飛ばしながら、ガムでも吐き捨てるように言葉を喉から出すと、男は静かに笑った。
『じゃあ、僕と同じだ』
その笑みは体育の授業でペアを見つけられなかった生徒が、視界の端に一人で歩く人間を見つけた時の様な。そんな救いの光を見つけた時の笑みのような気がして、とても気持ち悪かった。
『僕は鈴鹿佳晴。良ければ、友達になってくれないかな?』
『嫌だよ。気持ち悪い……』
それが彼との出会いだった。
通っていた塾は三カ月ごとに月謝を払っていたから、先生に辞めると伝えた後も一カ月近くは足を運ぶ羽目になった。一刻も早く辞めたいと思うのに、勿体ないが先行してしまうのを考えると貧乏が脳に染み付いてしまっているのかもしれない。
そして気持ち悪いことに、あたしが教室と玄関を繋ぐ廊下を歩くたびに、この男は待ち構えていたかのように自習室から顔を出し、あたしに声を掛けた。
『君、今日が最後でしょ?』
『……は?』
『今日月末だしさ。さっきも先生と話してたの見たから』
『うるさいストーカーがいなくなって済々する』
『寂しいなぁ』
『全然』
始めは真面目に無視を決め込んでいたあたしも、懲りずに声を掛けてくる男に投げる文句と苛立ちが募り、出会って二週間もすればあたしはこの男にきつい言葉を吐くようになっていた。
『高校受験はどうするの? このタイミングで辞めたら大変じゃない?』
『えり好みしなければどこだって入れる』
中学三年生の冬。学校の友達は大抵が受験勉強に精を入れ、初めての受験戦争に備える中、あたしはその目前で立ち止まっていた。マラソンで皆がラストスパートをかける中で立ち止まるあたしに、皆驚きの顔を見せるけど、正直ゴールまで走る気力はどこにも残っていなかった。
こんな人間を一般に「グレる」と表現するのだろうか。去年までは我ながら良い生徒だったと思う。学力だって校内で上位一割には留まっていたし、部活だってそこそこ頑張ってきた。先生からも信頼され将来を期待されていた、と思う。そんな人間が家庭の事情なんていう有り触れたものでこうなってしまうんだ。呆れられて当然かもしれない。
荒んで周囲に合わせられなくなったあたしの周囲からは徐々に人が減っていった。友達も減り、教師からの言葉も減り、そして家で母親と話すことも減った。そんな中ここで意気揚々と話しかけてくるこの男は感情の良い捌け口だった。
『あんたこそ、なんで毎日こんな勉強してんの? 受験も終わったんだしこんなとこ来なくてもいいでしょ』
『……まぁ、僕にはこれしかないからね』
ヘラヘラと笑う男に溜息をつき、あたしは廊下を進む。
『もう帰るの?』
『いや、駅前のゲーセンにでも行こうかなって』
『もう十時過ぎるよ? 危ない』
『今日はちょっと家に帰れない事情があんの』
頭にチラつくその事情にイライラしながらあたしは靴を取り出す。
ここも今日で最後。この男とももう会うことは無い。なのに。
『じゃあ、うち来る?』
『……は?』
この男はまるで駅前の女に掛けるようなセリフをあたしに投げかける。
『いや、別に変な意味とかじゃなくてね。君にとって僕の部屋は逃げ込むには丁度いいと思うよ』
『意味わかんないし』
『だから言ったじゃん。分かるんだ。君の気持ち。だって君は僕と同じ目をしてる』
またも軽い笑みを浮かべる男にあたしは警戒心を抱かなかった。
男の家なんかに足を運んだらレイプされるんじゃないか。なんて年相応の思考を巡らせるけれど、すぐにその考えは消えてなくなってしまった。目の前の男からは性欲なんて俗世じみたものは一切感じない。上っ面を取り繕って清潔感を醸し出そうとする男が浮かべる汚い笑顔とは根本的に違う。まるで、煩悩を全て捨ててしまったような、仏のような顔をしていた。
だからあたしはこの男の提案を受け入れる。
『その、君って呼び方やめてくんない? ある人を思い出してイライラする』
『じゃあ何て呼べばいいの?』
『麻里』
『上の名前は?』
『嫌いだから教えない』
『変な人だね』
『あんたもね』
あたしに強い言葉を投げられて嬉しそうに男は笑う。そういう性癖なのかな。ますますキモい。
『じゃあ、まーちゃんだ』
『は?』
『名前で呼ぶのって恥ずかしいからさ。だからまーちゃん』
『こっちが恥ずかしいからやめろ』
男はあたしの言葉にまた笑った。
『なにこれ……』
男の家を案内され、あたしは口を開けたまま固まる。
『知らなかったの?』
『知ってるわけないでしょ』
『結構有名だと思ってたけど』
案内されたのは駅から徒歩一分以内にあるマンションの一室。一家族が住むには小さい部屋。ただ高校生が一人で住むには大きすぎる部屋
『一人暮らしをしている高校生なんて珍しいからさ。良く噂になるんだ』
『親は?』
『ちゃんと生きてるよ。僕が一人暮らししたいって言ったら借りてくれたんだ』
『ボンボンじゃん』
『残念ながらね』
室内にはほとんど物がない。ベッドと机と本棚。カーペットもなく床は剥き出し。引っ越したばかりと言われても頷いてしまう程に生活感が無い。
『まぁ座ってよ。眠気覚ましの珈琲しかないけど、飲む?』
あたしが頷くとこれまた生活感の無い冷蔵庫の中から缶珈琲が二本、机の上に置かれる。
『この季節に冷たいのって』
『眠気覚ましだからね』
『おもてなしって言葉を知らないの』
『ごめんて。これでも友達を部屋に入れるのは初めてだから緊張してるんだ』
『これだったらマックで徹夜した方がマシ』
『そう言わずにさ。……それよりもびっくりしたよ。僕の噂を知らない人と話すのはこんなに楽なんだね』
『今からそれも全部聞くけど?』
『まーちゃんならきっと、聞き終わった後でも何も変わらずに接してくれると思うよ』
『だからその呼び方』
男。佳晴は缶珈琲のプルタブに指を掛けながら、ゆっくりと自己紹介を始める。
『みんな知ってるんだ。僕の家が金を持ってるって。一人暮らしなんてしてるくらいだから、言われても仕方ないのは分かってるけど。有る事無い事、正直うんざり』
『金があるんだから、仕方ないでしょ。その分良い暮らしをしてる。うらやましいくらい』
『そうだね。みんなそう言う。でもね。金は人をおかしくするんだよ』
そうして佳晴はあたしに様々なことを話していく。
家は隣町にあって父親はどうもお偉い外科医だという事。噂の通り家にはかなりの金があって裕福な暮らしをしていること。高校はこの近くにある日本でも有数の進学校に通っていること。そして母親の狂気じみた学習支援の事。
『ごめんね。こんな話』
また彼は軽い笑顔を張り付ける。薄い皮を一枚剥げばきっと笑顔なんてどこにもないんだろう。その証拠に彼の目は深く死んでいる。
『無理に笑わなくてもいい。その顔、気持ち悪いし』
『ほら。まーちゃんは普通に接してくれる』
『印象は変わった』
『やっぱり。まーちゃんは優しい。僕の見立て通りだ』
あたしを何も知らない彼があたしを褒めることに居心地の悪さを感じる。だから仕返しとばかりに、どんどんと彼のテリトリーに土足で入り込んでいく。
『母親にはどんなことをされたの?』
『聞きたい?』
『興味はある』
『そっか。でも別に面白い話はないよ』
『面白さを期待してないから』
『……勉強するときはいつも僕の後ろで見張っていて、覚えが悪かったり勉強の進みが悪いと怒鳴り始めるんだ。それがエスカレートしていくと手も出る』
『……』
『とりあえず僕を拘束して勉強勉強勉強。それ以外のことは片っ端から禁止。普段は良い人なんだけどね。自分の思い通りに成長しないと怒りだすんだ』
まるで育成ゲーム。あたしもやったことがある。特定のステータスを上げる為に同じモンスターを何度も何度も繰り返し倒し続ける。段々とそれが作業になっていって、上手く完成しなければ時間の無駄だったと割り切って捨てる。
彼が話す内容から考えられるのは、そんな作業を子供でやっている毒親。
『そしていつも言うんだ。ママを将来幸せにしてね。って』
『……反抗しないの?』
『昔はしてたかもね。でも、もうその気力もなくなった。最後の反抗として母親から逃げて一人暮らしを始めた癖に、毎日勉強ばかりしてるんだ。おかしいよね。もう僕の頭は勉強しかできない頭になってるんだよ』
『バカみたい』
『はじめて言われた』
話から逃げるように珈琲を口につける。真黒の缶に入っているその液体は、まだあたしの舌には美味しく感じない。ただ少しでも大人に近づきたくてそれを一気に喉に流し込んだ。
『まーちゃんが抱えてる物は今は聞かない。でも、好きな時に僕を捌け口にしていい』
『一生そんな機会訪れないから大丈夫』
『僕は僕を増やしたくないんだよ。……こんなの、間違ってる』
『そんな善意であたしに声を掛けたの?』
『それ半分、僕自身が救われるの半分』
『そう』
『だからまーちゃんはいつでもここに逃げてきていい。辛ければいつでも』
『……気持ち悪い』
そうだねと笑う彼の目は、あたしよりも暗く深い。その目を見ているとどこか落ち着く様な、そんな気さえしていた。
その日から結局、あたしはこの男の部屋に足を運ぶようになった。
二週に一回が週に一回になり、それが週二回になり。反抗期の中学生が家に帰るのを少しでも遅らせようと、学校に居座るのと同じように、あたしはこの部屋を居場所にした。
流石にこの部屋で朝を迎えることは無かったものの、いずれここで夜を明かすことになることは容易に想像ができた。それほどに居心地が良かった。
似たような人間と一緒にいることはとても楽で、深く呼吸ができる。気が付けばあたしの事情も彼に話してしまっていた。それでも、お互いの事情を知りながら口を出すことは無く、無干渉のままただそこに二人で居る。それにどこか温かさを感じた。
『まーちゃんは結局高校どうするの?』
『適当な所に入る。これでも今まで勉強してきた分があるからある程度の所には入れるし』
『それでいいの?』
『うん。別に目標もないし』
『そう』
担任にも同じことを言われた。目標が無くてもより良い高校を目指せとも言われた。勿体ないとも言われた。その言葉で担任もあたしの中では敵になった。
『なんでいい高校に行くんだろ』
『いい大学に行くためじゃない?』
『なんでいい大学に行くの?』
『いい所に就職する為じゃない?』
『つまんない』
『そうだね』
走ってきた道を立ち止まるあたしと、敷かれたレールの上を走り続ける彼。対極の二人だけれど確かに似ていた。
『まーちゃんはさ、夢とかないの?』
『……ないな』
『考えたこともない?』
『前までは公務員とかになるんだと思ってた。安定した職について、安定した生活をして、お母さんを養って』
前までは。
『でも、その目標もいらなくなっちゃったから』
『そう』
この男はあたしの意見を否定しない。無感情な相槌だけを入れてくれる。それがとても心地よかった。だから人間相手に話さない悩みもここでならするりと喉を通って出てくる。生気のない彼を壁か何かだと思っているのかもしれない。
『僕はね。夢があるんだ』
だからそんな彼が自分の夢を持っていると言い放った時には驚いた。
いつもは暗い沼の底を写しているような彼の目が一瞬だけ光を宿す。
『僕にはもう分からなくなっちゃったけど、まーちゃんと話していて少し理解はできた。僕が過ごしてきた勉強漬けの生活はやっぱりおかしい。でも今更僕の過去は変えられない。だから、少しでも僕のような人間を減らしたい』
『大層な夢。政治家にでもなるの?』
『ううん。もっと身近な存在だよ。空高くから見下ろしたって蟻の実態は分からない』
おかしな言い回しを使う。勉強し過ぎるとこんな捻くれた比喩を使うようになるのか。こうはなりたくない。
『僕はね。教師になりたいんだ』
あたしが見た鈴鹿佳晴の顔の中で、その瞬間が一番生き生きとした色だった。