少し前、ふらりと一人で実家を訪れた。共働きの上、家事も育児もほぼ私が負担し、睡眠不足の毎日に追われ、身も心もクタクタになっていた。休日出勤もない週末なのだから、家でのんびり過ごせばいいものを、どうしてか貴重な時間を使って顔を出しにいったんだ。
 駅を降りて直ぐ、小さな個人スーパーに寄った。買う物は、決まっている。食パンに卵に牛乳。それから、バターだ。片手にぶら下がるスーパーの袋をゆらゆらと揺らしながら、中に収まるものが潰れてしまわないように自然と気をつけていた。
 今住んでいるところから実家へは、半日もあれば行って帰って来られる距離だった。それでも日常の忙しさにまいっていた私は、普段ならその半日を惜しんで顔を出すことは殆どなかった。
「ただいまー」
 軽いけれどカラカラと音を鳴らし、人が来た事がすぐにわかる入り口には、色が煤けてきている藍色の暖簾がかかっている。
「いらっしゃいっ」
 軽快で元気な母の声に迎えられて暖簾の向こうへ顔を出すと、驚いたあとに優しく目を細めた。
「あらっ、おかえり」
「うん」
 久しぶりすぎて、なんだかうまく笑えない。
 うちの実家は、食堂をしている。休みは月に三日か四日で、それが多いのか少ないのか幼い頃はよくわからなかった。働くようになった今では、それがどれほど貴重な休日なのかよく理解できる。
 両親にとっての休日は家から出ることなどなく、平日私が小学校へ行っている時間、のんびりと過ごすのが常となっていた。
 それでも、夏休みや冬休みには、普段にはない程の長い休みを取っていた。この日の為に日々休まず働いていたんだ、とでも言うくらいで。確か、十日くらいはあったように記憶している。普段の休みを考えれば、それでも少ないんじゃないかと今では思うから、両親は随分と毎日頑張って働いていたようだ。
 今の私とどちらが忙しいのだろう。
 比べるのもおかしな話だけれど、疲れた身体と思考では、どう考えても私の方への傾きが重かった。
 食堂の奥にある調理場には父がいて、ランチ前のまだゆるい時間帯のうちにと、のんびりタバコをふかしていた。料理人がタバコなんて、今でもやめたらいいのにと思うけれど、今更やめられるはずもないこともわかっている。
 タバコを吸うことのない私は、疲れるとお酒やベッドが恋しくなる。休日になれば、なかなかベッドから出られないし。前日には、これでもかって言うくらいお酒を飲むこともある。
 父のタバコが私でいうお酒とベッドの役割を果たしているだろうことはわかるから、料理の味がわからなくなるだとか、体に悪いとか、そんなことを並べ立てる事だけが正しいとは思わない。
「ただいま」
 声をかけると、煙を吐き出しながら「おう」なんて、それほど気の無い声で父が応えてきた。けれど、煙を吐き出したあとの頬の緩み具合を見た私は、充分に満足して奥へ行く。
 調理場の奥には住まいがあり、入ってすぐがリビングになっていた。さらに奥へ行けば、小さな台所もある。今では父と母しか使っていないダイニングテーブルの上は、半分ほどが物で埋まっていて雑然としていた。そこには、今でも動くのかどうなのかわからないけれど、幼い頃私が毎日使っていたトースターも、布巾が掛けられ置かれていた。
「懐かしい」
 持っていたスーパーの袋をダイニングテーブルに置いて布巾を軽くめくってみれば、黄色かったトースターはあちこち汚れがついてくすんでいた。
「お前もお疲れだね」
 布巾を元に戻してから台所へ行き、冷蔵庫にある麦茶を出してコップに注ぐ。ここへ来るまで、飲み物を口にしていなかったせいかカラカラだ。注いだ麦茶を一気に飲み干し、喉の渇きを癒した。
 一息つき、空のコップを持ったままくるりと体を回転させて向きを変える。シンクの上に備え付けられている棚を見上げれば、懐かしさに目尻が下がった。
「よかった。まだ、あった」
 トーストとお揃いなのか、同じ黄色いボディの器具を見れば自然と口角が上がった。
 背の低い母のために、不器用な父が昔造った木製の踏み台は、長年かけて調理場から入ってきてしまう空気に含まれた油で、濃い茶色になりテカっている。私の身長はそれほど低いわけではないけれど、棚にある目当てのものには微妙に手が届かず、そのテカる踏み台に乗った。
 棚から下ろしたのは、懐かしい思い出の詰まる黄色いホットプレートだ。箱の埃を払い、中から取り出してコンセントにつなぐ。プレートがじんわりと熱を持って来るのを確認して、一旦電源を切った。

 父方の実家は食堂の裏手にあって、祖父も祖母も少しばかり広い食堂の中を、配膳や出前などして同じように働いていた。だから、長期の休みともなると、母方の実家へ顔を出すのが通例になっていた。ただ、休み全てをそこへ使うわけではなく、親子水入らずの時間を過ごすこともあった。
 私は、その僅かな団欒がとても楽しみでならなかった。何故なら、その日の朝だけは、母がダイニングテーブルに黄色い色をした蓋つきのホットプレートを出してきて、甘くてバターたっぷりのふんわりとしたフレンチトーストを焼いてくれたからだ。
 父はその時間まだ夢の中で、私は母が作るフレンチトーストを楽しみに、ダイニングのテーブルに着くのだ。
 何の変哲も無いスーパーで売られている食パンは、いつもなら自分でマーガリンやバターを塗り、一人トーストして食べてから小学校へと行っていた。母と父は、私が学校へ行った後に起き出し、食堂の準備に取り掛かる。だから、朝食はいつも一人。
 疲れている母と父を起こさないように、私は幼いながらもなるべく物音を立てないようにしていた。トースターの焼きあがる時に鳴る、あのチンッ! と言う、なんともシンプルでいて飾りっ気のない音にさえ気遣って、鳴りそうになるその瞬間にギュッと勢いをつけてダイヤルを「切」の所までひねり、なるべく一瞬で音が消えるように気をつけていたくらいだ。
 そんなんだから、年に数回だけ訪れる、母と二人だけのフレンチトーストタイムは、幼い私にとって至福の時間だった。
 母は台所に立つのではなく、ダイニングテーブルの上でボールに卵を割り入れ、甘いのが好きな私のために砂糖を少し多めに入れると、リズミカルに卵を溶いていく。そこへ牛乳を入れれば、濃い黄色が柔らかなクリーム色へと変わっていく。混ざり合ったクリーム色の甘い液体の中へ、半分に切った食パンをひたひたに浸したあと、熱を持ったホットプレートにたっぷりのバターをひくんだ。すると、バターの塊はまるで踊るみたいにホットプレートの中をあちこち動き出し、じゅーっと声を出しながら自分の体を小さくしていき、とってもいい匂いをふりまいていく。そこへひたひたの食パンを置けば、甘く良い香りが部屋中に広がっていく。
「いい匂い」
 ホットプレートのパンと、焼いてくれている母の顔とを交互に見れば、休みで化粧っけのひとつもない母の顔が、食パンよりもずっと柔らかな笑みをふんわりとたたえていて、この瞬間がたまらなく幸せになり私の口角はグッと上がる。
 蓋をして少し蒸し焼きにした後、お気に入りのうさぎのイラストがついた私のお皿に母がフレンチトーストをのせてくれる。
「はい、どうぞ」
 今ではおしゃれな食べ物でもてはやされているフレンチトーストだけれど、その頃はそんなにおしゃれな食べものだなんて思いもしていなくて、ただただ、母が作ってくれる甘くてふんわりした牛乳とバターたっぷりのパンに夢中だった。
「美味しい」
 口いっぱいに頬張りながら私がそう言うたびに、母はとても嬉しそうで。その表情を見た私もまたさらに嬉しくなって、甘い香りが漂う部屋がまるでお菓子の家にでもなったように幸せな空間になっていった。

 ダイニングテーブルの椅子に座り、忙しくなりだした食堂の音を聞く。いらっしゃいと明るくあげる母の声。フライパンを軽快に父が振れば、食材の焼ける音も軽快だ。
「ずっと忙しかったんだよね。ありがとう」
 聞こえないとわかっていても、声に出してそう言ってから、母と同じ手順を追った。
 ホットプレートに再び電源を入れてから、来る時に買った食材をスーパーの袋から取り出す。
 まずは、食パンを半分に切る。ボールに卵を割り入れ、台所にある砂糖を拝借し少し多めに入れる。かき混ぜたところへ、牛乳を入れて更に混ぜる。甘い香りがしてきて、鼻腔をくすぐられる。温まったプレートへバターをひけば、ジュワーっと溶けて香りが広がった。そこへ、ひたひたに浸した食パンを並べて焼いていく。焼き目がついたところで裏返してから、蓋をして少し蒸し焼きに。
 少し待った後、あの頃と同じように頬杖をつき、焼けたかどうか小首を傾げて蓋を取る。
 いい頃合いかな?
 お皿を二つ用意して盛りつければ、あの頃の風景まで蘇って来るみたいで心が温まっていった。
 一切れ味見をしてみれば、うん、上出来だ。
 お皿にラップかけ、後片付けを済ませる。箱に戻したホットプレートを棚に上げ、満足げに腰に手を当て眺めた。
「よしっ。充電完了」
 ここへ来るまでの間に抱えていた日々の疲れは、いつの間にか和らいでいた。

「いくねー」
 調理場の父と、レジのそばにいる母へ声をかけた。
「もう行くの?」
「うん。あ、お昼作っておいたから食べて」
 少し寂しげでいて驚いた顔が、私の心をキュッとせつなくさせる。
「また来るから」
 笑顔を見せると、母も笑う。
「気をつけてね」
 母の声に送り出された私は、またいつもの忙しい日常へと戻る。

 週末の朝。いつもなら疲れてなかなかベッドから抜け出せない私だけれど、今日の朝は違った。
 今私はあの頃の母と同じように、ホットプレートと娘を前にして、朝日差し込むダイニングでフレンチトーストを焼いている。
 頬杖をつき、まだかなぁ。と私の顔とホットプレートを交互に見る娘を眺めながら、この至福の時に頬を緩めていた。
 嬉しそうな娘の笑顔に、毎日の疲れを忘れていくようだ。
 あの頃の母も、幼い私を見ながらこんな風に感じていたのだろう。
「お父さん、起こさなくていいの?」
 娘が夫の事を気にしている。
「焼きあがったら、二人で起こしにいこうか」
「うんっ」
 娘の弾むような声と笑顔が堪らなく愛おしい。ぎゅっと引き寄せ抱きしめれば、どうしたの? そういうように娘が私の顔を見る。
「楽しいね」
 笑顔で返すと、娘はまた弾むように頷いた。
 それは、おしゃれなプレートに乗ってはちみつが掛けられているわけでも、粉砂糖がふりかけられているわけでもない。とてもシンプルで、だけどとても美味しい母の味。
 部屋中に広がるフレンチトーストの甘い香りが、私たちに笑顔をくれる――――。