彼と出会って初めての秋のことだった。ふたりで一緒に帰り道を歩いているときに、風に乗ってどこからか甘い花の香りがしてきた。夢みたいな香り、と思ったのを覚えている。
『すっごくいいにおいだね』と言ったら、『じゃあ、探しにいこうよ』と千秋が今と同じように私の手を引っ張って、ずんずんと歩き出した。
香りのもとを探して、鼻をくんくんさせながら歩き回り、その木を見つけた。
密に繁るつやつやした濃い緑の葉と、それを覆い隠すほどの、鮮やかなオレンジ色をした無数の小さな小さな花たち。顔を近づけて嗅いでみると、心がじんわり溶け出しそうな甘い甘い、それでいてどこか爽やかな香りがした。
『こんないいにおいの花があるなんて!』
『光夏、ちょっとだけ分けてもらえないか聞いてみよう』
千秋がその家のチャイムを鳴らし、出てきたおばあさんにお願いしてくれた。おばあさんは『金木犀って名前だよ』と教えてくれて、好きなだけ持っていっていいからね、と言って包み紙を渡してくれた。
千秋は深々と頭を下げると、ひとつひとつ丁寧に摘み取った花をふんわりと紙で包み、私のカーディガンのポケットに入れてくれた。
『これできっと今日は怖い夢を見ないよ』
『ありがとう』
その前の日に、お化けに追いかけられる夢を見てすごく怖かったと話した私の言葉を、彼は覚えていてくれたのだ。その晩は、金木犀の花を並べたガラス皿を枕元に置き、胸いっぱいに香りを吸い込んでから眠った。怖い夢は見なかった。
報告すると彼は自分のことのように喜んでくれて、それからは毎日、帰り道にふたりで金木犀の香りを嗅ぎに行った。
秋が終わり、花が全て落ちてしまってしばらくしたころ、千秋が突然家に訪ねてきた。そして、小さな紙袋を私に差し出した。
『これ、光夏に、あげる』
男の子からなにかをもらったことなんてなかった私は、心底びっくりした。
『プレゼント。開けてみて』
包みの中から、貝殻ほどの大きさの白いケースが出てきた。蓋を開けると、淡く黄色みを帯びた半透明のクリームが入っていた。
『……なあに? これ』
『使い方、教えてあげる』
珍しく満面の笑みを浮かべた千秋が、人差し指でクリームをほんの少しだけすくいとり、私の手首の内側にそっとなじませてくれた。
途端に、甘い香りがふわっと広がって私の全身を包んだ。
『金木犀の花の香りの、練り香水っていうんだって』
『ええー! すごい!! ありがとう!!』
『これがあれば、光夏は秋じゃなくても怖い夢を見なくて済むかな』
優しい言葉と微笑みに、胸が苦しくなった。すごくすごく嬉しかった。
あの練り香水は、結局もったいなくてほとんど使えなくて、今も机の中の宝箱にしまってある。
『すっごくいいにおいだね』と言ったら、『じゃあ、探しにいこうよ』と千秋が今と同じように私の手を引っ張って、ずんずんと歩き出した。
香りのもとを探して、鼻をくんくんさせながら歩き回り、その木を見つけた。
密に繁るつやつやした濃い緑の葉と、それを覆い隠すほどの、鮮やかなオレンジ色をした無数の小さな小さな花たち。顔を近づけて嗅いでみると、心がじんわり溶け出しそうな甘い甘い、それでいてどこか爽やかな香りがした。
『こんないいにおいの花があるなんて!』
『光夏、ちょっとだけ分けてもらえないか聞いてみよう』
千秋がその家のチャイムを鳴らし、出てきたおばあさんにお願いしてくれた。おばあさんは『金木犀って名前だよ』と教えてくれて、好きなだけ持っていっていいからね、と言って包み紙を渡してくれた。
千秋は深々と頭を下げると、ひとつひとつ丁寧に摘み取った花をふんわりと紙で包み、私のカーディガンのポケットに入れてくれた。
『これできっと今日は怖い夢を見ないよ』
『ありがとう』
その前の日に、お化けに追いかけられる夢を見てすごく怖かったと話した私の言葉を、彼は覚えていてくれたのだ。その晩は、金木犀の花を並べたガラス皿を枕元に置き、胸いっぱいに香りを吸い込んでから眠った。怖い夢は見なかった。
報告すると彼は自分のことのように喜んでくれて、それからは毎日、帰り道にふたりで金木犀の香りを嗅ぎに行った。
秋が終わり、花が全て落ちてしまってしばらくしたころ、千秋が突然家に訪ねてきた。そして、小さな紙袋を私に差し出した。
『これ、光夏に、あげる』
男の子からなにかをもらったことなんてなかった私は、心底びっくりした。
『プレゼント。開けてみて』
包みの中から、貝殻ほどの大きさの白いケースが出てきた。蓋を開けると、淡く黄色みを帯びた半透明のクリームが入っていた。
『……なあに? これ』
『使い方、教えてあげる』
珍しく満面の笑みを浮かべた千秋が、人差し指でクリームをほんの少しだけすくいとり、私の手首の内側にそっとなじませてくれた。
途端に、甘い香りがふわっと広がって私の全身を包んだ。
『金木犀の花の香りの、練り香水っていうんだって』
『ええー! すごい!! ありがとう!!』
『これがあれば、光夏は秋じゃなくても怖い夢を見なくて済むかな』
優しい言葉と微笑みに、胸が苦しくなった。すごくすごく嬉しかった。
あの練り香水は、結局もったいなくてほとんど使えなくて、今も机の中の宝箱にしまってある。



