この時間ならほとんどの生徒は帰っているだろうから悪目立ちせずに済むだろう、と思っていたけれど、近づくにつれて照明がついているのが見えてげんなりした。
 こんな時間までなにをしてるんだか、と呆れつつ教室の前まで来たとき、中でどっと馬鹿笑いが上がった。息が止まる。島野たちの声だった。
 最悪だ。よりにもよって、なんでやつらが。部活はどうした? サボりか?
 苛立ちで心の中に暴言の嵐が吹きすさぶ。
 でも、ここまで来て引き返したりしたら、あまりにも情けない。あいつらなんか、どうでもいい。私には関係ない。
 ふうっと息を吐いて気合いを入れると、私はずかずかと教室に足を踏み入れた。顔を上げておこうと思ったのに、気がつくと視線を落としてしまっている。どうしても上げられない。
 悔しさに歯噛みしながら自分の席に辿り着き、机の中から数学の問題集を取り出した。
 島野たちが後ろでぎゃははと笑い転げている。なんとなく、私のことを指差して笑っている気がした。息が苦しくなる。
 教材の整理をしているふりをして、ちらりと目を上げた。背後の様子を窺う。予想に反して、誰も私を見ていなかった。
 ほっとする反面、徹底的な無視にどうしても心が波立つ。表面上は私に全く視線を向けず、でもその裏で私を嘲笑していることは分かりきっていた。私は鞄に荷物を詰め込んで、静かに教室を出た。最後の最後まで、誰ひとり私を見もしなかった。
 廊下をゆっくりと歩きながら、考える。
 ここまで完全な無視を浴びせられると、私は本当に空気か幽霊なんじゃないかと思えてくる。自分は存在している、と信じ込んでいるだけで、本当は私はいないんじゃないか、と。
 自分が確かに存在しているという証拠は、他人と目が合ったり、会話をしたりする中にしかないのかもしれない。だから、周りから無視されると、もはやどうやって存在の確証を得ればいいのか分からない。ひとりだけ違う次元に生きているような、なんとも言えない不思議な感覚に陥る。
 でも今は、前とは少しだけ違う。千秋たちがいるからだ。
 学校では誰とも話さないのが普通だった状況から、少なくとも放課後には三人と視線を合わせ、言葉を交わす生活に変わった。だから今は、彼らと過ごす時間だけは、私は生きているのだという実感をもてる。でも。
 生徒玄関に着き、靴箱のかげにしゃがみこんだ。膝を抱く腕の中に顔をうずめ、ゆっくりと息をする。吸っても吸ってもなんだか苦しい。
 千秋たちと裏庭で過ごす穏やかな放課後を手に入れたことで、逆に教室での時間が苦しくてたまらなくなるのはどうしてだろう。光があると影が濃くなるのと同じ原理だろうか。ずっと闇の中にいれば、それが自分にとって普通の状態だから、暗いとも思わない。でも、そこに光が射すことで、自分のいる場所が真っ暗闇だと気づいてしまうのだ。だから苦しく、虚しくなる。
 身体を縮め、腕にぐっと顔を押しつけて、呼吸が落ち着くのをひたすら待つ。まるで繭の中に閉じこもる幼虫のような気分だった。