そう自分に言い聞かせていたときだった。靴箱が見えてきたあたりで、ふいに、かすかな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 何度も嗅いだことのある、懐かしい香りだ。内心で首を傾げているうちに、それは徐々に濃度を増し、私は確信した。
「金木犀……」
 思わず呟いて足を止める。少し視線を上げて、周囲を見回した。まだ金木犀の季節ではない。花は咲いていないはずだ。じゃあ、どこからこの香りはやってくるんだろう。
 甘い花の香りはそこら中に漂っているような感じがして、どこでなにが香っているのかは全く分からなかった。
 そのとき、突然、息をのむような音が聞こえてきた。私は反射的に目を上げる。
 視線の先に現れたのは、見慣れた、でも見慣れない顔。
「ひ、な……?」
 かすれた声で私を呼んだのは、千秋だった。
 長い前髪の奥から、少し見開かれた切れ長の瞳が、じっと私を見つめている。昔と変わらない、すっきりと澄みきって、透明で、ひどく静かな眼差し。
 全てを、心の奥底までも見透かしてしまいそうなまっすぐな視線に、胸を抉られそうな気がした。
 瞬間、走って逃げ出したくなるのを、私は必死に堪えた。ここで不自然な動きをしたら彼に不審に思われるかもしれない、そして探られたりしたら……という危惧が、かろうじて私の足を床に貼りつけてくれた。
 微動だにせず、言葉もなく彼を見ていると、その薄い唇がゆっくりと開いた。
「……光夏」
 できれば会話など交わさずに、軽く会釈でもしてさっさと擦れ違ってしまおうと思っていたのに。こんなふうに名前を呼ばれてしまったら、無視することなんてできない。
「……千秋。偶然だね」
 できる限りの平静を装い、普通の声、普通の声、と自分に言い聞かせながら、小さく言った。
 答えてから、そういえば学校で声を出したのはいつぶりだろう、と思う。たぶん、一学期の最後あたりで、世界史の授業中に当てられて、先生の質問に答えて以来だ。二学期になってからは、一度も指名されてされていないはずだ。
 うまく声が出ていただろうか。千秋が不自然に思うような声じゃなかっただろうか。ちゃんと、“高校生活をなんの問題もなく順調に送っている生徒の声”だっただろうか。
 そんな焦燥が、逆に私の重い口を押し開いた。
「……珍しいね、千秋がこっちにいるなんて」