それからは慌ただしく忙しい毎日が過ぎていった。休みである火曜日も短い時間ではあるが仕込みを続け、クリスマスに向けて万全の体制を整える。
 店先にも、二十二日から四日間は喫茶を休止する張り紙をした。おばあさんたちは休止を残念がったが、すぐに気を取り直して、連日蒼衣にクリスマス商品の質問攻めをすることで楽しんでいるようだった。
 定休日である二十一日の火曜日、蒼衣は厨房で仕込みの大詰めを行っていた。
 ブッシュドノエルのピストレ――前もって作っておいたブッシュドノエルの冷凍ムース(中身は、太陽オレンジのコンポート、マスカルポーネムース、ビスキュイ、ビターチョコレートのムース)の表面に、霧吹きでコーティングのチョコレートを吹きかける作業のことだ――をしていた蒼衣に、八代が声をかけた。
「蒼衣、どのくらいで終わりそうだ?」
「あと三本ピストレしたら区切りがつくよ」
「それが終わったら昼飯行こうぜ。久しぶりにいつものところ」
 普段の休憩は店番もあるために別々で取ることが多いが、店を閉めていても仕事をしている今日のような日は、一緒にご飯を取ることが多い。
「ああ“きんとうん”? いいよ」
 ピストレが終わり、私服に着替えた蒼衣は、八代の運転する車で店まで向かった。住宅街を通り抜け、大きい道に出る。家電量販店や大型スーパーなど、新興の店がたちならぶ中にある『はやい・やすい・うまいの中華料理きんとうん』と書かれたレトロな看板のある店に入る。平日のお昼時ということもあって、地元で働く人たちで賑わっている。
「あら、八っちゃん久しぶり。蒼衣くんもいるじゃない」
 ウォーターポット片手に八代に話しかけたのは、六十代くらいの女性だった。いらっしゃいませ! と快活に叫んだ彼女は、店の女将・西セン子だ。
「今日は定休日だけど仕込みがあってね。福利厚生ですよ、ふくりこーせー」
「こんな中華料理屋で福利厚生なんて安上がり過ぎよ。蒼衣くん大丈夫? ケチ店長にこき使われてない?」
「いえいえ、そんなことは」
 ないです、と言う前に、セン子は突然蒼衣の顔をのぞき込むと、短く「やだっ」と叫んだ。
「蒼衣くん、綺麗な顔にクマができちゃってるじゃない! ちょっと八っちゃんどういうこと!?」
 今度は八代にぐいぐいと近づく。蒼衣が慌てて「大丈夫だよ、セン子さん」と告げるが、セン子は聞く耳持たぬといった風情で八代をにらむ。しかし、まったく気にしていないようだ。
「この席にしようぜ~」
 セン子の横をひょいとすり抜け、八代は空いていたボックス席に滑り込んだ。
「もう、八っちゃんたら!」
 そう言いながらも、セン子はよく通る声で「二名様ご来店でーす!」と叫んだ。厨房にいるだろう料理人とホールの店員たちが「いらっしゃ~い!」と威勢良く返す。落ち着いた雰囲気とはほど遠い、明るく賑やかな雰囲気に、蒼衣は少しだけ肩をすくめて席に座った。


「うわあ、大盛りだ」
 蒼衣の目の前に置かれたのは、大盛りの野菜炒め、こんもりと山盛りにされたご飯、焦げ目がついて美味しそうな餃子と唐揚げと春巻き、そして、あたたかな湯気の立ちのぼるコーンと卵のスープに、杏仁豆腐。
「セン子さん、いくらなんでも盛りすぎじゃね?」
「っていうか、僕、野菜炒めとご飯しか頼んでなかったんだけど」
「俺の台湾ラーメンには、なにもついてない。うっ、セン子さんひどい」
 あのあと、セン子は嵐のように注文を取りにきて、嵐のように料理を置いていった。 手書きの伝票を見ると「蒼衣くんスペシャル(ハート)」と大きく書かれており、その下に小さく「タイワンラー」と雑に書かれている。それを見た八代と蒼衣は、苦笑する以外になかった。
「ま、とりあえず食べるか。いただきまーす」
「いただきます。八代、揚げ物とか食べていいよ、あと、野菜炒めも半分あげる。ご飯も半分あげるよ」
 そう言いながら、蒼衣は野菜炒めと揚げ物の乗った皿を真ん中に置いた。
「この時期はあんまり、食べられないからさ。それに、目のクマも。やっぱり寝付きが悪くて、あんまり寝られないんだ」
 セン子に遠慮して、小さな声で告げる。
 それを聞いた八代は「やっぱりな」と言葉をこぼす。八代の顔には、労りと痛ましさが同時に浮かんでいる。蒼衣はまた小さな声で「ごめん」と言った。
 冬になると、蒼衣は食事がおろそかになる。食べよう、という気にならないのだ。しかし仕事は忙しいので、体を動かすエネルギーのためには食べないといけない。だから、パンをほんのひとかけらだとか、コンビニのサラダを一つだけだとか、最悪、野菜ジュース一パックで食事を終えてしまうこともある。
 そして睡眠も、頭の中に過去のいろいろが浮かんできて、寝るのが難しい。寝られたとしても、目覚めの悪い夢で目を覚ますことが多くなる。
 ピロートの仕事量は蒼衣のキャパシティを基本としているため、倒れることはまずない、と本人は思っている。
 しかし、聡い知人には見透かされているらしい。蒼衣の中には申し訳なく思う気持ちがあった。
「謝ることじゃない。気にすんな」 
「ありがとう。さ、冷めないうちに食べよう」
「そうしよう、そうしよう。ああ、台湾ラーメン辛っ! 美味っ!」
 ずるずるずる、と美味しそうにラーメンをすする八代を見ながら、蒼衣はくすりと笑う。
「セン子さんは気さくで明るくて、いい人なんだけどね。いつも心配させちゃうから、それが心苦しいや」
「あのお節介おばさんは本当に蒼衣がお気に入りだからな。バイトしてた俺よりも、たまに飯食いにきた蒼衣に優しいなんてさあ」
 八代は高校から大学を卒業するまで、『きんとうん』でバイトをしていた。学生時代、蒼衣も八代に誘われて何度も来たことがある。つまり、三人は一〇年以上の付き合いになる。
「僕がここの野菜炒め美味しいって言ったら、それ以来ずっとこうしてサービスしてくれる。覚えててくれてるんだね」
 もやしにニラに、鮮やかなにんじん、キクラゲ、ネギ、そして豚肉が少し。店自慢の鶏ガラスープと焦がし醤油で味付けされたシンプルな炒め物。口に運べば、しゃきしゃきとしたもやしの食感と、火を通しすぎない野菜の甘みが広がる。ちょっと濃いめの味付けが、疲れた体に染み渡るようだった。
「美味しいねえ」
「うむ」
 ひさびさの味をかみしめている内に、蒼衣の脳裏に、昔の出来事が浮かんだ。
「そういえば、八代、この野菜炒めを作ってくれたことあったよね。お店の味そっくりでさ、びっくりした」
「あんときのことか。俺も覚えてる。だって、おまえが、」
 そこまで言って、八代は口をつぐんだ。蒼衣も八代も意識的に避けている時期――八年前のことを口に出そうとしたからだった。
「あのとき、全然ご飯食べられなくて。でも、あれがきっかけで、またご飯食べられるようになったんだ。僕がダメになったとき、助けてくれるのはいつも八代だなって思って。昔っからそう。学生のときも、あのときも、お店をやろうって言ってくれたのも。そして今も。こうしてご飯食べられるところに連れてきてくれた。ありがとう。だから僕、クリスマスがんばるよ」
 ピロートが迎える初めてのクリスマスなんだからさ、と蒼衣は努めて明るく言った。 自分が必要とされている。それはどんな食事よりも睡眠よりも、蒼衣にとって生きる力のようなものだった。
 八代は蒼衣を見て、なにか言いたげな顔になる。しかしなにも言わないまま、ラーメンをすすった。
 

 二十四日、午前三時。
 蒼衣は店の外に出た。二時間ほどの仮眠から目が覚めたばかりだ。冷たい空気を頬に受け、ぼんやりとした目で空を見上げる。
 一番ケーキの出る二十四日分は、前日から作らないと間に合わない。大きな店ならともかく、ピロートのような小さな店では、ストックを置いておく場所も設備も少ないからだ。こればかりは、いくら事前に準備をしていても避けられない、ケーキ屋の宿命だ。
 空には冬の大三角形、オリオン座がよく見える。蒼衣にとっては印象深い冬の星だ。
 結局自分は、今でもこの星の下で生きている。九年間に一度はあきらめた菓子職人の道。そして、八年前には死んでいてもおかしくなかったはずの自分。八代や、出会った師匠のおかげで、こうして魔法菓子職人として生きている。
「あの師匠も、流石にクリスマスはがんばってるかなあ」
 めんどくさがりな自分の師匠を思い、苦笑する。お互い筆無精で連絡が途絶えがちになるので、落ち着いた季節に挨拶に行こう。
「さあ、僕は僕の仕事をしよう」
 終わらせないといけない仕上げはたくさんある。蒼衣は一息つき、厨房に戻っていった。

 
 二十四日、早朝。
「終わった」
 実感のこもった蒼衣のつぶやきが、ピロートの店内に響いた。
 暖房の切ってあるイートインスペースには、所狭しと置かれたケーキの箱。ショーケースにずらりと並べられたクリスマス専用のピースケーキ。普段は焼き菓子が並ぶ棚にも、予約分のケーキの箱が積まれている。そして、厨房の冷蔵庫にはわかば保育園用のトライフルが入っている。
 蒼衣と八代は眺め、感嘆を漏らす。
「いや、終わりの始まりだ」
 八代の顔には疲れと一緒に、自信のある表情が浮かんでいる。八代も蒼衣に付き合い、フルーツのカットや洗い物など、蒼衣が製造に専念できるようにサポートをしてくれていた。
「始まり、かぁ」
「今日を乗り越えれば、とりあえずなんとかなる! 蒼衣、がんばろうぜ」
 蒼衣は力強さにつられるように、うなずいた。

 ふたを開けてみれば、やはりクリスマスはクリスマス。開店して半年も経たないピロートでさえ、お客がつぎつぎとやってきた。開店一時間もすると、普段はめったに使われない向かい斜めの第二駐車場も満車になり、店内は混乱を極めた。
 そこで、予約受け渡しは蒼衣、当日分販売を八代と分けて接客することにした。蒼衣の得意とする丁寧な接客は、この殺人的忙しさの前では足かせになる。蒼衣よりも思い切りがよく、マルチタスクな仕事が得意な八代は、難なく接客をこなしていった。
 十四時過ぎ、奇跡的にお客が途切れた瞬間を見計らって、八代はわかば園にトライフルを配達するために店を抜けることになった。
「三十分で戻る。その間、店を頼む」
「わかった、車を任せてごめんよ」
 本当は、客さばきのうまい八代が店頭に残るほうが効率がいいのだが、蒼衣は車の運転がどうしてもできないからだ。
「気にすんな、じゃ、行ってくる」
 トライフルの入ったばんじゅうを乗せた車を見送り、蒼衣は急いで店に戻った。
 店に戻った瞬間から、立て続けに客が飛び込んできた。ワクワクしながらケーキを見るお客の目の前で、蒼衣は心で悲鳴を上げる。その間にも、ドアからはベルが鳴りっぱなしだ。
 それでもやるしかない、と自分に言い聞かせた。