寒さも本格的になった、十二月十日の午後三時。冷たく乾燥した風が吹きすさぶ中『魔法菓子店 ピロート』の喫茶スペースに、三人の年配女性が来店した。大ぶりのアクセサリーに、柄物の服。手にはおしゃれな杖とカート。齢八十は超えていると思われる皺はあれど、顔にははつらつとした笑顔が浮かんでいる。
 彼女たちは大きなクリスマスツリーの横を通り過ぎ、いつもの席に座る。三人は『今日のおすすめセット』を頼んだ。日替わりのケーキとドリンクが付いた、スタンダードなものだ。
「あおちゃん、今日のお茶はなにかの」
「わしゃほうじ茶がええなも」
「こりゃ、あおちゃん、いい加減髪の毛切りなされ。なんならワシが切ったろうか」
 パティシエ――天竺蒼衣は、三人の質問に微笑を浮かべる。
「ヨキさん、今日はセカンドフラッシュのダージリンです。コトさん、ほうじ茶なら加賀の棒茶はいかがです? あと、キクさんのカットはご遠慮させて頂きます」
 最後の「遠慮」に若干の力を込め、蒼衣はよどみなく質問に答えた。ヨキとコトは「それでええわい」と返事をする。しかしキクは、
「ありゃ、久しぶりにモードにおっしゃれ~にしたろうと思ったんじゃがの」
 と、すっとぼけて答えた。とっさに蒼衣はコック帽に触れる。確かにキクの言うとおり、髪の毛は伸ばしっぱなしだ。魔法効果で伸びるのが早いのでこまめに切らねばと思ってはいるが、ひとに髪を触られるのは、どうも苦手だった。
「パンチパーマは勘弁してください。キクさんはいつものジンジャーエールでいいですか?」
「それでええ。あの辛くて強~いのがいいんじゃあ」
「かしこまりました」
 いつものようにやりとりを終えると、蒼衣はカウンターに戻った。ドリンク類を作るためのスペースには八代がいる。彼は蒼衣のオーダーを聞くことなく、紅茶と加賀棒茶用のポット、冷えたジンジャーエールの瓶を用意していた。
「準備が早いね」
 蒼衣もカウンター下から皿を出し、日替わりケーキであるチーズケーキをショーケースから取り出しはじめた。
「毎日同じだから、覚えちまった。しっかし、外は寒いってのに、ばーちゃんたちは相変わらず元気だなあ。あのちっさい体のどこにそんな元気があるんだよ」
「お元気なのはいいことだし、こうやって通ってくれる、いいお客様だよ。それに、八代は昔からお世話になってるんだから、もう少し敬意を持ったほうがいいんじゃないの」
 あきれた様子の八代を諭すように言う。しかし、蒼衣の言葉は逆効果だったようで、八代は深いため息をついた。
「おまえ、キクばーさんにパンチパーマにされても同じこと言える? あのばーさんたち、どーでもいいことばっかり話しかけて、蒼衣の仕事を止めるからいけない」
 彼女たちは、ピロートが開店したときからの常連客だ。商店街にある店のおかみさんたちで、ヨキは八百屋、コトは文房具、キクは美容院である。現在、三人とも店は子どもに譲っており、今は悠々自適な老後だと豪語している。
「見かねて俺が話に入ると『八っちゃんの話はもう飽きたからいらん、仕事せえ』なんて言いやがって。誰がケーキ作ると思ってんだ」
 商店街で過ごした八代にとって、三人は祖母のような存在だ。三人は「八っちゃんのことは、自分の孫くらいよーく知ってる」とよく話してくるし、実のところ、八代も言うほど嫌ってはいない。
 祖父母とは疎遠、近所との付き合いも希薄な核家族で育った蒼衣は、三人と八代の気安そうな関係性が少しうらやましかった。
「パンチパーマはいやだけどさ。三人ともずっと商売をやってたから、お話するのがお好きなんでしょう。それに僕、話しかけられやすいというか、まあ、都合のいい顔というか」
「だからいつも道を聞かれたり、宗教の勧誘にひっかかったりして時間を取られるんだろ」
 八代の指摘が正しくて、蒼衣はウッとうめき声を出す。
「でも、人当たりがいいのは蒼衣の長所だと俺は思うよ。変なクレーマーにつけ込まれるのが玉にきずだけど。あと、客が多すぎるとパニックになるのも、短所だな」
 八代の言うとおり、クレーム処理は蒼衣の苦手なことである。昔から、怒鳴られたそれだけでも萎縮してしまう。しかし、ありがたいことにピロートの客層は穏やかなひとが多く、今のところ目立つトラブルはない。そしてもう一つ、蒼衣は一度にたくさんのお客がくると、混乱してしまうという癖もあった。
「もうちょっと冷静になれればいいんだけど。どうしても、ひとが多くなるとどこからお声かけしていいのか、優先順位がわからなくなっちゃって」
「まあ、うちみたいな小さな店ならそこまで困らないとは思うから、あんまり気負うなよ。あ、お茶ができたから俺が持ってくわ。蒼衣は厨房入って仕込み続けてて。クリスマス前のお菓子屋はすっげー忙しいもんなの、ってばーちゃんたちには言っとくから」
「助かるよ」
 八代の言葉に、蒼衣はありがたくうなずいた。かまってくれる三人の相手もしたいが、今の蒼衣は一年で一番忙しい。
 クリスマス。それは、お菓子屋での一大イベント。ピロートにとっては、初めてのクリスマスである。
 厨房に戻り、今日一日の作業予定の書かれたホワイトボードを確認する。
 クリスマスケーキの土台となるジェノワーズ焼成、火イチゴのコンポート作業、ブッシュドノエルムースの仕込みに、組み合わせ作業。加えて、通常商品の仕込みもある。
 ホワイトボードの横に張られた、クリスマスケーキの予約数は、けっして多くはない。しかし、ピロートのパティシエは蒼衣一人である。今年は初年度。蒼衣にも八代にも負担がかかりすぎない数で予約は締め切った。
 それを見ながら、蒼衣はクリスマス時期の労働環境に考えを巡らせる。
 パティシエというのは、見た目こそ華やかな世界だが、労働環境は『ホワイト』とはほど遠い世界だ。
 クリスマスが近くなれば定休日も出勤するし、毎日残業は当たり前。極めつけは、クリスマスイブ前日だ。夜中、延々とクリームをナッペし、デコレーションし続ける。意識はもうろうとし、ほんの数十分の仮眠すら一瞬に思える。壊れやすいケーキの箱の山を崩した瞬間、生きた心地がしなかった経験も少なからずある。
 そして、毎年どこかの店で、疲労や寝不足から、誰か一人は自動車事故を起こすのだ。
 蒼衣は重いため息をつく。思い出しても自分が辛くなるだけだ。
 クリスマスの時期には、いい思い出がない。そのせいか、食欲も落ちるし、疲れも取れにくい。
 しかし今年からは違う。八代は蒼衣の不調の原因を知っている。キャパシティを理解し、予約の数も少なめにしてくれた。そして、クリスマス前後の三日間、通常商品を休止することを提案してくれた。
「自分たちが倒れないことが大事」
 計画を立てるとき、八代は蒼衣に念を押した。売り上げや店も大事だったが、いの一番に働く人間を心配してくれたことがうれしかった。
 蒼衣はそっと厨房のドアを開けて、イートインの様子をうかがった。
「なんじゃ八っちゃんかいな。あおちゃんはどうしたあおちゃんは」
「八っちゃんの顔なんぞ見飽きたわい」
「八っちゃんよう、そのむさ苦しい頭をどうにかしたろうか。ほれ、丸坊主がええ。バリカンの腕は落ちとらん」
「あのねえ、ばあちゃん、クリスマス前で、蒼衣はめっちゃくっちゃ忙しいの。俺だってばあちゃんたちの顔見飽きたわ! 髪はこの前切ってきたばっかだぞ。キクばーちゃんが髪の毛いじりたいだけじゃねえか! とりあえずケーキ食え!」
 なんだかんだ言いながらも楽しげな雰囲気に、蒼衣はくすりと笑いながら扉を閉めた。
「頑張らなくっちゃね」
 自分を鼓舞するようにつぶやき、蒼衣はボウルを手にした。


 それから数時間経った、夕方。困惑した顔の八代が厨房に顔を出した。
「蒼衣、今手ぇ空くか?」
「いいよ、どうしたの」
「いや、実はちょっと、お客さんが来ていて。一緒に話を聞いてくれないか」
 八代には珍しく、歯にものが引っかかったような言いかただ。蒼衣は首をかしげながら、厨房を後にした。