「水着なんて持ってないのに」
断る言葉が逆効果だったと気づいたのは、ショッピングモールの衣料品売り場に連れて行かれた後だった。いつの間にかラッシュガードなる上着とシンプルな短パンのような水着が八代の手にある。
八月下旬の月曜日、夕方。僕と八代の店「魔法菓子店 ピロート」の開店を約二週間前に控えた日。今日予定されていた作業を早めに切り上げ、八代の運転する車で向かったのは、名古屋市の港近くにある大型商業施設付属のプールだった。
夜でもプールが開いてるのかと驚いたが、どうやら最近は「ナイトプール」なる夜の営業があるらしい。
「水着持ってないなら用意しないとな。もらったチケットが四人分なんだよ。しかも今月中。開店準備で忙しいからこそ、今日はあえて……遊ぶ! 息抜きだと思ってくれたまえ、パティシエくん」
八代は会社員時代から、仕事とプライベートの切り替えが上手い、と聞いてはいたが、実際に一緒に仕事をするとよくわかる。どうしてもだらだらと仕事をしたがる自分には新鮮な視点だ。でなければ、寝る間も惜しんでお菓子を作り続けかねないし、要らぬ心配をしすぎて無駄なことをしていると思う。
適度に休憩を促してくれたり、開店までに必要な分量ができたことを教えてくれたり。必要な手続きや書類のことを気にかけてくれたり。
開店準備が慌ただしいのに疲れがたまっていないのは、きっと彼のこうした配慮もある。
そういった理由もあって出かけることになったのだが、水着を持ってない僕の分を調達するために、プールに行く前に店に寄ったのだった。
「一番手頃なのを選んだから財布は心配するな」
「そういう問題じゃなくて。その、プールって感じじゃないでしょう、僕」
それでも行き渋ったのは、プールはもとより、自分自身が娯楽施設ではしゃげるような性格をしていないからだ。それに、誘うなら親戚か、もっと親しい友だち――恵美ちゃんの、保育園の知り合い――がいるだろう。そう言うと八代は、
「他所のお子さん一人預かるよりは、勝手知ったる成人男性の面倒見るほうがよっぽど楽だ。喉が渇いたら自分でお茶も飲めるし、飛び込むでもないし、走り回らないし」
と、それ以外の答えはありません、と言わんばかりの答えを返してきた。
……五歳児と比べられるのも情けない気がするが、提供主がそう言うならと、これ以上言い訳を並べるのは止めた。
どこを見ても人、人。人いきれとはまさにこのこと。
煌々と明かりに照らされるプールを見て、人の多さと賑やかさに息を呑んだ。
「僕はなにをすれば」
戸惑っていると、あおちゃんこっち! とかわいらしい水着を着た恵美ちゃんが僕の手を引いた。「付き合ってもらっていいか」と言う八代に快諾の返事をし、導かれるままに歩き出す。
慣れないサンダルのせいでおぼつかない足取りの男と、五歳の女の子の組み合わせは奇特に見えるのか、道行く人が若干訝しげな表情だ。いたたまれなさを感じながらも、恵美ちゃんが子供用プールに入ってしまえば、あとは似非監視員をすればいいだけだった。
子供用プールで手を付いた恵美ちゃんは、
「あおちゃん、見て、ワニさん泳ぎできた」
と、保育園で覚えた泳ぎを自慢してくれた。
すごいとほめれば、小さなワニ恵美ちゃんはニコニコ笑う。一緒にやろう、と促されたがやんわりとお断りする。このプールで大人が寝転ぶには邪魔だろう。あおちゃんはパパよりちょっとおっきいもんね、とあきらめてくれたものの、たぶん君のパパでもできないと思うよ、とは言えなかった。
人が少なくなったときを見計らい、手をつないでバタ足の練習をしたり、仰向けになってラッコのまねをしたり。特にラッコのまねはツボに入ったらしく、何度もせがまれた。正直、同じことのくりかえしなので、飽きてきてしまうのだが、預かった以上はいい加減なことはできないと、辛抱強く付き合っていた……つもりだったのだが。
少し、疲れたな。そう思って恵美ちゃんから目を離した一瞬だった。「きゃあ」という声が聞こえて、慌てて振り返る。
「今、この子、足が滑って転びそうになって。倒れてはないから大丈夫だと思うけど」
同い年くらいの男性が、恵美ちゃんの背を支えていた。すわ不審者か、と思ったが、言葉の意味と姿勢から、逆に助けてもらったのだと理解して、血の気が引く。
「すいません! 一瞬、目を離してしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ~。お嬢ちゃん、助けるためとはいえ、いきなり体を触ってごめんね」
では僕はこれでと男性は言い残し、自分の子どもらしい男の子の所へ行ってしまった。
「ごめんね恵美ちゃん、僕が見てなかったから。痛いところ、ない? 大丈夫?」
恵美ちゃんは転んでない、大丈夫と言うが、直接見ていない僕は気が気でない。しかし、いくら親しいとはいえ、女の子の体をそうジロジロ見られず戸惑っていると、八代が良子さんと共に現れた。焦る僕は「スライダーに乗ろうぜ」と誘ってくる彼を制し、先ほどの転倒のことを話した。
八代は良子さんと一緒に恵美ちゃんの体を確認したあと「大丈夫だと思う」と僕に言った。
「頭をぶつけてなけりゃ、そんなに心配しなくても。怪我もしてないし」
「でも、僕がいたのに……申し訳ない」
未だオロオロする僕の肩を八代が叩く。
「大丈夫だって。親だって四六時中監視できないから、気にすんな気にすんな」
スライダー行こうぜ~、といつもの調子の八代に、僕のほうが釈然としない気持ちを抱く。だけど、恵美ちゃんも普段どおりの様子なので、とりあえずは納得する方向で自分の気持ちをなだめた。
「でも八代、スライダーは身長が足らないんじゃ」
恵美ちゃんはまだ五歳。遊べない遊具があるのはよくあることなのでそこを気にしていたのだが、八代は「うんにゃ」と首を横に振る。
「乗るのはお前と俺」
「僕!?」
聞けば、恵美ちゃんは前々から良子さんと一緒に泡のプールで遊びたいと言っていたらしい。いつの間にかプールを出て良子さんと去って行く恵美ちゃんは「いってらっしゃーい」と僕に向かって手を振った。
「ハブられたかわいそうなパパに付き合ってくれよ、早く行こうぜー」
楽しげな八代に肩を組まれて、半ば引っ張られる形で連れて行かれた。
「……存外高いところから滑るんだね」
スライダーに乗るための階段を登り切ると、プール全体が見下ろせるくらいの高さだと気づいて、思わず足がすくむ。
「あれ、苦手だっけ」
「いや、その」
嫌だと突っぱねるほどではないが、普段しないことへの不安はすぐに抱く癖はある。どうなるかわからないことにはネガティブなイメージを持ちやすい。スライダーは「地上に戻る」というのは分かっていても、外から見るだけではわからないあの曲がったところや、ざあざあと大きな水の音、なによりも、地上から何メートル離れているのか考えたくないくらいに高いので、恐怖心が勝る。
だが、後ろに待っている人が居ることに気づいて、慌ててライフジャケットを着込む。大人二人は余裕で入れる大きな浮き輪(で、良いのだろうか)に乗ると、一気に滑っていった。勢いよく滑り落ち、曲がりくねるため、右に左に体が大きくゆれる。落ちていく感覚への恐怖と緊張で「ひぃ」とか「ああ~」という、逆に気の抜けた声が出る。
それに比べ、僕の向かい側に座る八代はギャーギャーと楽しそうな声を上げている。その余裕はどこから出てくるのか、彼の根性の太さを若干うらやましく思いつつも、それもすぐに曲がる衝撃で吹き飛んでしまった。
「うう……」
「ぐったりしてんなあ、蒼衣」
プールサイドにある休憩用テーブルにつっぷした僕に、八代が飲み物を差し出してくれた。しかし出てくるのは、ははは、と力ない笑いのみ。
結果、スライダーを滑り終えた僕は、軽い乗り物酔いを起こしてしまった。
「スライダー……予想以上にびっくりしちゃって。あんなに大きくて、勢いがあるんだねえ。こう、公園の滑り台のようなものかと」
「今年リニューアルしたらしいぞ。やあ、やあ、面白かった。こっそり蒼衣の反応も見てたんだけど顔が引きつってて美形が台無しだったのが申し訳ないけど面白くて」
「……楽しそうだねえ、八代」
「そりゃあ、あんなの小さな子どもがいたら乗れやしないからな」
もう一回乗ってもいい? と楽しそうに聞いてきたから、いたずら心が動いて「行くなら君一人で」と返した。すると八代は「ならやめとくわ」と少し残念そうな顔をした。その顔は、まるで初めて出会ったときの――高校生のときのそれに似ていて、途端に郷愁が襲った。
ごめんね、と詫びを言った後、あまりにも胸が一杯になった感情に、蓋ができなくなった。
「こんな遊びを、また君とできるとは思わなかった」
口元が綻び、嬉しさがつい滲む。……その直後に、いつこの関係が終わるのかと、恐怖が襲う。さっきのスライダーなんて比じゃないくらいの、先の見えない、曖昧模糊とした不安。
本来なら、とうに切れてしまう縁だったはずだ。
部屋に引きこもっていたときに。あるいは、長野に行ったときに。あるいは、八代が結婚したときに。あるいは、子どもを授かったときに。
ライフステージが変われば、付き合う人間も変わる。就職や家庭を持つことはもっともたる例だ。それはつねづね良子さんが愚痴をこぼしていて(彼女には、僕にとっての八代のような存在の友人がいる)出産と育児の負担が大きい女性のほうが顕著なようだが、男性だってそれはある。
八代は、結婚して良子さんの「夫」になり、恵美ちゃんの「父」になってしまった。……しまった、と表現してしまう自分の浅慮も情けないが、実際、彼は端から見ていても立派な夫で父なのだから仕方がない。
キャリアウーマンの妻と共に家庭を回し、子どもの面倒もよく見る。イクメンというと本人は反論するので言わないが(彼曰く「イクメン」とか言う以前に俺は「父親」だから、育児するのは当然のこと、となんのことはない調子で言うのだ)亭主関白そのものだった自分の父親と比べると、雲泥の差がある。
その上で、彼は会社員という立場を捨てて、店を作った。まだ小学校にも上がっていない子どもを抱えて、よく良子さんがOKしたものだと思う。しかし彼女は「やーくんの決めたことだから」と涼しい顔で言う。
あまりにも、あまりにもできすぎた友人。それは、高校を卒業して同じ環境に居られなくなった頃から抱えている不安。
先に大人になっていく八代と、いつまでも自分のことすらままならない自分。
自分に出来ることは、おいしいと言ってもらえるお菓子を作ること。ただそれだけだ。
そんな人生を「店」という形で八代と共に過ごすことができることになって、尊く、幸せではあるのに。
そう、ひとたび離れてしまえば、いつもは奥底で眠る魔物が鼻を鳴らすのが聞こえてくる。
いつか「一緒」はなくなるぞ。お前とあいつの世界は違うぞ、と。
子どもを持つ親の苦労や気持ちを、子どもの居ないお前が分かるか、と。
現にさっきだって、安全に気を配れなかったじゃないか、と。
「……おいおい、そういう台詞は、あと四十年後くらいに言ってくれよ」
「四十年……って、七十代でスライダーは無理があるでしょう。そういう意味じゃなくて君はもう、僕とは違って――」
言葉を続けようとしたとき、良子さんと恵美ちゃんが向かってくるのが見えた。恵美ちゃんの足取りが重い。おそらく、もう眠いのだろう。時計を見れば、二十時を過ぎていて、今帰らないと明日に響く時間だった。
ご飯は、と聞くと、ここに来る前に屋台のご飯を食べたと良子さんが言う。眠い、と目を何度もこすり、眠気を訴える恵美ちゃんが、パパと呼ぶ。八代がすぐに席を立った。
「眠いよな。シャワーでいいから、髪の毛洗えるか? もう少しだ。パパが抱っこするからな」
手慣れた様子で恵美ちゃんを抱きかかえ、注意深く様子を観察する八代の横顔は、すっかり「父親」の顔が板に付いている。
今この瞬間、至らない自分と目の前の世界がぱっきり割れたような感覚が襲う。「ほうら、ごらん」と、僕の隣で魔物が囁く。
帰るよ、という良子さんの声で我に返る。すっかりぐずった恵美ちゃんを抱えた八代の後ろをついて行き、プールを去ることになった。
着替えと退場を大慌てで済ませ、ぐずり放題の恵美ちゃんをなんとかジュニアシートに乗せた後、車で帰路に向かった。
着替えさせるときに盛大に暴れた(と、良子さんが言っていた)恵美ちゃんと、その対応に疲れた良子さんは、後部座席でそれぞれ寝息を立て始めた。
車内で起きているのは、スライダーでの疲労もずいぶん和らぎ、すっかり普段通りに戻った助手席の僕と、運転担当の八代だけだ。
「二人とも、寝ちゃったみたいだから……ラジオ、ボリューム下げていいかな」
申し出ると、頼む、と言われたのでカーステレオの音量を小さくした。
「ありがとな。その代わり、俺が寝ないようになんか話してくれ」
「ええー」
「まだウチまで三十分あるだろ。助手席に乗った者の宿命だぞ。ドライバーの相手をしたまえ」
「安全第一でしょうが」
「居眠り運転よりマシだ」
急かされたので、まずは今日誘ってくれた礼を述べ、プールでの恵美ちゃんの様子を話した。
「お前に自慢したいってずーっと言ってたから、うれしかったろうなあ。ああでも、何度もラッコやったのはしんどかったよな、すまんかったわ」
我が事のようにはにかむ八代の顔は、やはり「父親」のもので。……それはきっと、僕がこの先、手にすることはおそらくないであろう「大人」の顔だ。
八代の顔を眺め続けるわけにもいかず、かといってなにを言えるわけでもなく、顔を背ける。窓から流れていく夜景を眺めていると「蒼衣」と名前を呼ばれた。
「俺はさ、俺がどうあろうと、たぶんお前と楽しくスライダー乗ろうぜって言うと思うぞ」
「……八代?」
「変わんないんだよ。大人になっても。結婚しても……子どもがいても」
あ、と声が出た。そう、八代は僕が密かに気にしていたことに、気がついていたのだ。
「そりゃあ、子どもがいるから行く場所も遊ぶ場所も変わっちまったのは事実だけども。でも、人の親になったからって、自分の友だちと遊ぶことができなくなる道理はないだろう。今日だって、恵美はヨッシーが見ててくれたし。逆に、お前が恵美と遊んでくれてたから、俺とヨッシーがスライダーでいちゃいちゃできたし」
「でも、家族の団らんを、邪魔してるんじゃ。それに、今日は恵美ちゃんを」
「そう思ってたら、最初から誘ってない。もうちょっと信じてくれよ、蒼衣。この年でひとの縁をつなぎ続けるのは、簡単なことじゃないんだから」
真剣な声音から一変し「おじさんも苦労してるのよ~?」と冗談めかした言葉が飛んできた。
「そう、だね……ごめん」
それぞれに人生があり、繋がる縁もあれば、離れてしまう縁もある。繋がり方が、自分の思っているものと違う相手もいる。世界が違ってしまうことを嘆くこともある。
僕にとっての、八代との出逢いや師匠、魔法菓子との出逢い。最初の店でのことと、五村シェフとの別れ。そして、新しい店のこと。
「僕は、怖いんだと思う。自分と違う、しっかりした君と一緒にいるのが」
そう。僕は、世界が違う……「同じ」でないのが、本当は不安なのだ。
他者と違うから、一緒にいられない。今のところ、特定のパートナーと関係を築くことも、家庭を作って子どもを育てることもしないし、他人の安全にも気を配れない。気分が落ち込んだとき、うまく切り替えできない……世間でいう「普通の大人」になれない自分は、いつか「世界」から忘れ去られる――子どもじみたその強迫概念は、やはり魔物の形をしていて、治める術を忘れている。
「蒼衣は、違うのが怖いのか」
「怖い、んだと思う。他人と自分が違う、っていうのはわかってるつもり……だったんだけど。違う、ってわかっちゃうと、疎外感があるというか。遠い存在に感じるというか。今日も恵美ちゃんを危ない目に合わせちゃって。それに気づけなくて。ごめん、ほんと、なんでこんな」
声が震える。情けない姿を見られるのはこの十年近くの間に二度や三度じゃないのだけれど、それでも本来なら、他人には見せない類の感情だろう。だから自分はだめなのだ、と自己嫌悪に陥いりそうになったときだった。「あのさ」と、八代の落ち着いた声が降ってきた。
「……他人と違う、ってのが、俺にとっては面白いことで。だからこそ離れがたい、っていう感情になる、みたいな……?」
「面白い?」
「面白い! 今日みたいにスライダー乗ってヒイヒイ言ってる蒼衣は面白いし、他人から聞く子どもの話は新鮮だし、こうやって話をするのも、なかなか趣があって面白い。あと、恵美のことはホントに気にするな。助けてもらってラッキーだったな、くらいに思っとけ。あんまり抱え込むなよ。そうやって責任追いすぎるのもしんどいぞ。子どもといりゃあ、金玉ヒュッってなるようなことたくさんあるんだし、そんなことでおまえをいちいち責めたりしないよ。むしろ、きちんと教えてくれてありがとな。恵美を大切に思ってるってこと、ちゃーんと伝わってる」
だからさ、と八代は朗らかに言う。
「俺とおまえは確かに違うけど、以上の理由から、俺がおまえから離れる気はないんだよな、残念ながら。観念したまえ、心の友よ。言ってしまえば、君とは公私共々、一蓮托生の運命なのだよ」
ふふん、と鼻を鳴らしそうな勢いでまくし立てられる。あっけにとられてしまい、返す言葉が見つからない自分を見て、八代は「なんだなんだ、俺なりのプロポーズだぞ」と冗談めかして追い打ちをかけてきた。
「ちょ、ちょっと待って。君、なに言って!」
プロポーズ、運命、と言う言葉が頭の中をぐわんぐわんとかけめぐる。もちろん、本来の意味で使っている訳ではないのは、重々承知だ。それでも、自分に向けられた信頼のそれが気恥ずかしく、同時にうれしくてこそばゆい。
「なにって、店の借金がわんさか残ってるからなあ。まさに一蓮托生! 共に白髪が生えるまで! 凄腕パティシエくんがたくさんお菓子を売ってくれないとウチはつぶれてしまうし一家が路頭に迷う! かわいそうな俺の嫁と娘!」
「脅さないでくれ~、売れるかどうかも不安なんだぞ、僕は」
「自信持てよ、大丈夫だって。おまえのお菓子は世界一だから! まああれだよ、もろとも地獄へ行こうぜってことで」
「借金地獄ってこと?」
「そうとも言う!」
僕が発端のジメジメした雰囲気など一瞬で吹き飛ばす八代には、手も足も出ない。
ああもう、この際地獄だろうがなんだろうが構わない。君と一緒にいられるなら、どこにでも付き合うよ。
:::
「やー、今日も溶けそうな暑さだ。生ケーキの売り上げたるや悲惨で俺の心が溶けそうだ」
八代が、厨房と店内をつなぐドアに寄りかかりながらぼやく。
「上旬の売り上げが良すぎたんだよ」
苦笑しながら答えてあげると「来月の一周年で巻き返してやる」と早くも立ち直っていた。
八月も下旬、ピロートの初めての夏が終わりにさしかかっている。
百貨店出店の影響で一時的に店は賑わったものの、連日の暑さは外に出る気を失わせるのか、客足は少ない。
「げえっ、この暑さの中迎えに行かねばならないのか。オーブンの前にでも行って暑さに慣れておこうか……いやしんどいよなそれ……」
「暑いからやめたほうがいいよ」
あと数時間後に迫った恵美ちゃんのお迎えのことを思い出したのか、八代は再びげんなりした顔になった。
ケーキの温度管理もあるので店内は比較的涼しいのだけれど、それはそれで外との温度差が激しいので、八代の気持ちもわからないものではない。
かくいう僕も、金のミニフィナンシェの仕込みのためにオーブンの近くにいる。むわりとした熱気は冷房を効かせていてもどうにもならなくて、じんわり汗がにじむ。
「あ~、こうなると海かプールが恋しい……あ、今年もそういやもらってたっけ、チケット」
「チケット?」
繰り返すと、八代はなにかを思いついた表情になり「いいこと思いついた」と楽しげな様子になる。
「プールのな。そして今年も四人だ。どうだパティシエくん、来週月曜の夜の予定は?」
人付き合いの少ない自分に、予定なぞ滅多にない。
「空いてます、けど」
「じゃあ決まりだな。去年買った水着は……片付けた中にあったか……?」
「……ごめん、自信ない」
「来週までに見つけておくこと!」
上機嫌になった八代は「じゃあ来週月曜は少し早めに店閉めようぜ。なあに告知しておけば大丈夫だ」と、早速告知文をパソコンで作りだした。
去年みたいに、行くのを渋る気持ちはない。向けられた言葉を素直に受け取って、一緒にいられる時間を楽しめばいいってわかっているから。
「一蓮托生の運命、だからねえ」
小さな声でつぶやけば、八代が振り向く。
「なんか言ったか?」
「内緒だよ」
「なんだい水くさい」
「そのうちにね」
「俺に隠しごととは、やるなイケメンパティシエ。涼しい顔しやがって」
「イケメンは余計だよ」
この一年、いろいろあった。弱音も醜いところもまた見せてしまったけれど、それでも君は変わらずそばに居てくれる。
一年前からずっと君から受け取っていた気持ちを、やっと自分の言葉で返せそうだ。
――今日のフィナンシェ、おいしく焼けるといいな。
焦がしバターにバニラシュガー、蜂蜜に卵白、そして魔法の金粉を少し。とろりとしたフィナンシェ生地を絞り袋に入れて、シリコン型に流し込んでいく。
――彼に、きちんと気持ちを伝えるためにもね。
心の中だけで語りかけながら、生地の入った型をオーブンに入れ、蓋を閉めた。
断る言葉が逆効果だったと気づいたのは、ショッピングモールの衣料品売り場に連れて行かれた後だった。いつの間にかラッシュガードなる上着とシンプルな短パンのような水着が八代の手にある。
八月下旬の月曜日、夕方。僕と八代の店「魔法菓子店 ピロート」の開店を約二週間前に控えた日。今日予定されていた作業を早めに切り上げ、八代の運転する車で向かったのは、名古屋市の港近くにある大型商業施設付属のプールだった。
夜でもプールが開いてるのかと驚いたが、どうやら最近は「ナイトプール」なる夜の営業があるらしい。
「水着持ってないなら用意しないとな。もらったチケットが四人分なんだよ。しかも今月中。開店準備で忙しいからこそ、今日はあえて……遊ぶ! 息抜きだと思ってくれたまえ、パティシエくん」
八代は会社員時代から、仕事とプライベートの切り替えが上手い、と聞いてはいたが、実際に一緒に仕事をするとよくわかる。どうしてもだらだらと仕事をしたがる自分には新鮮な視点だ。でなければ、寝る間も惜しんでお菓子を作り続けかねないし、要らぬ心配をしすぎて無駄なことをしていると思う。
適度に休憩を促してくれたり、開店までに必要な分量ができたことを教えてくれたり。必要な手続きや書類のことを気にかけてくれたり。
開店準備が慌ただしいのに疲れがたまっていないのは、きっと彼のこうした配慮もある。
そういった理由もあって出かけることになったのだが、水着を持ってない僕の分を調達するために、プールに行く前に店に寄ったのだった。
「一番手頃なのを選んだから財布は心配するな」
「そういう問題じゃなくて。その、プールって感じじゃないでしょう、僕」
それでも行き渋ったのは、プールはもとより、自分自身が娯楽施設ではしゃげるような性格をしていないからだ。それに、誘うなら親戚か、もっと親しい友だち――恵美ちゃんの、保育園の知り合い――がいるだろう。そう言うと八代は、
「他所のお子さん一人預かるよりは、勝手知ったる成人男性の面倒見るほうがよっぽど楽だ。喉が渇いたら自分でお茶も飲めるし、飛び込むでもないし、走り回らないし」
と、それ以外の答えはありません、と言わんばかりの答えを返してきた。
……五歳児と比べられるのも情けない気がするが、提供主がそう言うならと、これ以上言い訳を並べるのは止めた。
どこを見ても人、人。人いきれとはまさにこのこと。
煌々と明かりに照らされるプールを見て、人の多さと賑やかさに息を呑んだ。
「僕はなにをすれば」
戸惑っていると、あおちゃんこっち! とかわいらしい水着を着た恵美ちゃんが僕の手を引いた。「付き合ってもらっていいか」と言う八代に快諾の返事をし、導かれるままに歩き出す。
慣れないサンダルのせいでおぼつかない足取りの男と、五歳の女の子の組み合わせは奇特に見えるのか、道行く人が若干訝しげな表情だ。いたたまれなさを感じながらも、恵美ちゃんが子供用プールに入ってしまえば、あとは似非監視員をすればいいだけだった。
子供用プールで手を付いた恵美ちゃんは、
「あおちゃん、見て、ワニさん泳ぎできた」
と、保育園で覚えた泳ぎを自慢してくれた。
すごいとほめれば、小さなワニ恵美ちゃんはニコニコ笑う。一緒にやろう、と促されたがやんわりとお断りする。このプールで大人が寝転ぶには邪魔だろう。あおちゃんはパパよりちょっとおっきいもんね、とあきらめてくれたものの、たぶん君のパパでもできないと思うよ、とは言えなかった。
人が少なくなったときを見計らい、手をつないでバタ足の練習をしたり、仰向けになってラッコのまねをしたり。特にラッコのまねはツボに入ったらしく、何度もせがまれた。正直、同じことのくりかえしなので、飽きてきてしまうのだが、預かった以上はいい加減なことはできないと、辛抱強く付き合っていた……つもりだったのだが。
少し、疲れたな。そう思って恵美ちゃんから目を離した一瞬だった。「きゃあ」という声が聞こえて、慌てて振り返る。
「今、この子、足が滑って転びそうになって。倒れてはないから大丈夫だと思うけど」
同い年くらいの男性が、恵美ちゃんの背を支えていた。すわ不審者か、と思ったが、言葉の意味と姿勢から、逆に助けてもらったのだと理解して、血の気が引く。
「すいません! 一瞬、目を離してしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ~。お嬢ちゃん、助けるためとはいえ、いきなり体を触ってごめんね」
では僕はこれでと男性は言い残し、自分の子どもらしい男の子の所へ行ってしまった。
「ごめんね恵美ちゃん、僕が見てなかったから。痛いところ、ない? 大丈夫?」
恵美ちゃんは転んでない、大丈夫と言うが、直接見ていない僕は気が気でない。しかし、いくら親しいとはいえ、女の子の体をそうジロジロ見られず戸惑っていると、八代が良子さんと共に現れた。焦る僕は「スライダーに乗ろうぜ」と誘ってくる彼を制し、先ほどの転倒のことを話した。
八代は良子さんと一緒に恵美ちゃんの体を確認したあと「大丈夫だと思う」と僕に言った。
「頭をぶつけてなけりゃ、そんなに心配しなくても。怪我もしてないし」
「でも、僕がいたのに……申し訳ない」
未だオロオロする僕の肩を八代が叩く。
「大丈夫だって。親だって四六時中監視できないから、気にすんな気にすんな」
スライダー行こうぜ~、といつもの調子の八代に、僕のほうが釈然としない気持ちを抱く。だけど、恵美ちゃんも普段どおりの様子なので、とりあえずは納得する方向で自分の気持ちをなだめた。
「でも八代、スライダーは身長が足らないんじゃ」
恵美ちゃんはまだ五歳。遊べない遊具があるのはよくあることなのでそこを気にしていたのだが、八代は「うんにゃ」と首を横に振る。
「乗るのはお前と俺」
「僕!?」
聞けば、恵美ちゃんは前々から良子さんと一緒に泡のプールで遊びたいと言っていたらしい。いつの間にかプールを出て良子さんと去って行く恵美ちゃんは「いってらっしゃーい」と僕に向かって手を振った。
「ハブられたかわいそうなパパに付き合ってくれよ、早く行こうぜー」
楽しげな八代に肩を組まれて、半ば引っ張られる形で連れて行かれた。
「……存外高いところから滑るんだね」
スライダーに乗るための階段を登り切ると、プール全体が見下ろせるくらいの高さだと気づいて、思わず足がすくむ。
「あれ、苦手だっけ」
「いや、その」
嫌だと突っぱねるほどではないが、普段しないことへの不安はすぐに抱く癖はある。どうなるかわからないことにはネガティブなイメージを持ちやすい。スライダーは「地上に戻る」というのは分かっていても、外から見るだけではわからないあの曲がったところや、ざあざあと大きな水の音、なによりも、地上から何メートル離れているのか考えたくないくらいに高いので、恐怖心が勝る。
だが、後ろに待っている人が居ることに気づいて、慌ててライフジャケットを着込む。大人二人は余裕で入れる大きな浮き輪(で、良いのだろうか)に乗ると、一気に滑っていった。勢いよく滑り落ち、曲がりくねるため、右に左に体が大きくゆれる。落ちていく感覚への恐怖と緊張で「ひぃ」とか「ああ~」という、逆に気の抜けた声が出る。
それに比べ、僕の向かい側に座る八代はギャーギャーと楽しそうな声を上げている。その余裕はどこから出てくるのか、彼の根性の太さを若干うらやましく思いつつも、それもすぐに曲がる衝撃で吹き飛んでしまった。
「うう……」
「ぐったりしてんなあ、蒼衣」
プールサイドにある休憩用テーブルにつっぷした僕に、八代が飲み物を差し出してくれた。しかし出てくるのは、ははは、と力ない笑いのみ。
結果、スライダーを滑り終えた僕は、軽い乗り物酔いを起こしてしまった。
「スライダー……予想以上にびっくりしちゃって。あんなに大きくて、勢いがあるんだねえ。こう、公園の滑り台のようなものかと」
「今年リニューアルしたらしいぞ。やあ、やあ、面白かった。こっそり蒼衣の反応も見てたんだけど顔が引きつってて美形が台無しだったのが申し訳ないけど面白くて」
「……楽しそうだねえ、八代」
「そりゃあ、あんなの小さな子どもがいたら乗れやしないからな」
もう一回乗ってもいい? と楽しそうに聞いてきたから、いたずら心が動いて「行くなら君一人で」と返した。すると八代は「ならやめとくわ」と少し残念そうな顔をした。その顔は、まるで初めて出会ったときの――高校生のときのそれに似ていて、途端に郷愁が襲った。
ごめんね、と詫びを言った後、あまりにも胸が一杯になった感情に、蓋ができなくなった。
「こんな遊びを、また君とできるとは思わなかった」
口元が綻び、嬉しさがつい滲む。……その直後に、いつこの関係が終わるのかと、恐怖が襲う。さっきのスライダーなんて比じゃないくらいの、先の見えない、曖昧模糊とした不安。
本来なら、とうに切れてしまう縁だったはずだ。
部屋に引きこもっていたときに。あるいは、長野に行ったときに。あるいは、八代が結婚したときに。あるいは、子どもを授かったときに。
ライフステージが変われば、付き合う人間も変わる。就職や家庭を持つことはもっともたる例だ。それはつねづね良子さんが愚痴をこぼしていて(彼女には、僕にとっての八代のような存在の友人がいる)出産と育児の負担が大きい女性のほうが顕著なようだが、男性だってそれはある。
八代は、結婚して良子さんの「夫」になり、恵美ちゃんの「父」になってしまった。……しまった、と表現してしまう自分の浅慮も情けないが、実際、彼は端から見ていても立派な夫で父なのだから仕方がない。
キャリアウーマンの妻と共に家庭を回し、子どもの面倒もよく見る。イクメンというと本人は反論するので言わないが(彼曰く「イクメン」とか言う以前に俺は「父親」だから、育児するのは当然のこと、となんのことはない調子で言うのだ)亭主関白そのものだった自分の父親と比べると、雲泥の差がある。
その上で、彼は会社員という立場を捨てて、店を作った。まだ小学校にも上がっていない子どもを抱えて、よく良子さんがOKしたものだと思う。しかし彼女は「やーくんの決めたことだから」と涼しい顔で言う。
あまりにも、あまりにもできすぎた友人。それは、高校を卒業して同じ環境に居られなくなった頃から抱えている不安。
先に大人になっていく八代と、いつまでも自分のことすらままならない自分。
自分に出来ることは、おいしいと言ってもらえるお菓子を作ること。ただそれだけだ。
そんな人生を「店」という形で八代と共に過ごすことができることになって、尊く、幸せではあるのに。
そう、ひとたび離れてしまえば、いつもは奥底で眠る魔物が鼻を鳴らすのが聞こえてくる。
いつか「一緒」はなくなるぞ。お前とあいつの世界は違うぞ、と。
子どもを持つ親の苦労や気持ちを、子どもの居ないお前が分かるか、と。
現にさっきだって、安全に気を配れなかったじゃないか、と。
「……おいおい、そういう台詞は、あと四十年後くらいに言ってくれよ」
「四十年……って、七十代でスライダーは無理があるでしょう。そういう意味じゃなくて君はもう、僕とは違って――」
言葉を続けようとしたとき、良子さんと恵美ちゃんが向かってくるのが見えた。恵美ちゃんの足取りが重い。おそらく、もう眠いのだろう。時計を見れば、二十時を過ぎていて、今帰らないと明日に響く時間だった。
ご飯は、と聞くと、ここに来る前に屋台のご飯を食べたと良子さんが言う。眠い、と目を何度もこすり、眠気を訴える恵美ちゃんが、パパと呼ぶ。八代がすぐに席を立った。
「眠いよな。シャワーでいいから、髪の毛洗えるか? もう少しだ。パパが抱っこするからな」
手慣れた様子で恵美ちゃんを抱きかかえ、注意深く様子を観察する八代の横顔は、すっかり「父親」の顔が板に付いている。
今この瞬間、至らない自分と目の前の世界がぱっきり割れたような感覚が襲う。「ほうら、ごらん」と、僕の隣で魔物が囁く。
帰るよ、という良子さんの声で我に返る。すっかりぐずった恵美ちゃんを抱えた八代の後ろをついて行き、プールを去ることになった。
着替えと退場を大慌てで済ませ、ぐずり放題の恵美ちゃんをなんとかジュニアシートに乗せた後、車で帰路に向かった。
着替えさせるときに盛大に暴れた(と、良子さんが言っていた)恵美ちゃんと、その対応に疲れた良子さんは、後部座席でそれぞれ寝息を立て始めた。
車内で起きているのは、スライダーでの疲労もずいぶん和らぎ、すっかり普段通りに戻った助手席の僕と、運転担当の八代だけだ。
「二人とも、寝ちゃったみたいだから……ラジオ、ボリューム下げていいかな」
申し出ると、頼む、と言われたのでカーステレオの音量を小さくした。
「ありがとな。その代わり、俺が寝ないようになんか話してくれ」
「ええー」
「まだウチまで三十分あるだろ。助手席に乗った者の宿命だぞ。ドライバーの相手をしたまえ」
「安全第一でしょうが」
「居眠り運転よりマシだ」
急かされたので、まずは今日誘ってくれた礼を述べ、プールでの恵美ちゃんの様子を話した。
「お前に自慢したいってずーっと言ってたから、うれしかったろうなあ。ああでも、何度もラッコやったのはしんどかったよな、すまんかったわ」
我が事のようにはにかむ八代の顔は、やはり「父親」のもので。……それはきっと、僕がこの先、手にすることはおそらくないであろう「大人」の顔だ。
八代の顔を眺め続けるわけにもいかず、かといってなにを言えるわけでもなく、顔を背ける。窓から流れていく夜景を眺めていると「蒼衣」と名前を呼ばれた。
「俺はさ、俺がどうあろうと、たぶんお前と楽しくスライダー乗ろうぜって言うと思うぞ」
「……八代?」
「変わんないんだよ。大人になっても。結婚しても……子どもがいても」
あ、と声が出た。そう、八代は僕が密かに気にしていたことに、気がついていたのだ。
「そりゃあ、子どもがいるから行く場所も遊ぶ場所も変わっちまったのは事実だけども。でも、人の親になったからって、自分の友だちと遊ぶことができなくなる道理はないだろう。今日だって、恵美はヨッシーが見ててくれたし。逆に、お前が恵美と遊んでくれてたから、俺とヨッシーがスライダーでいちゃいちゃできたし」
「でも、家族の団らんを、邪魔してるんじゃ。それに、今日は恵美ちゃんを」
「そう思ってたら、最初から誘ってない。もうちょっと信じてくれよ、蒼衣。この年でひとの縁をつなぎ続けるのは、簡単なことじゃないんだから」
真剣な声音から一変し「おじさんも苦労してるのよ~?」と冗談めかした言葉が飛んできた。
「そう、だね……ごめん」
それぞれに人生があり、繋がる縁もあれば、離れてしまう縁もある。繋がり方が、自分の思っているものと違う相手もいる。世界が違ってしまうことを嘆くこともある。
僕にとっての、八代との出逢いや師匠、魔法菓子との出逢い。最初の店でのことと、五村シェフとの別れ。そして、新しい店のこと。
「僕は、怖いんだと思う。自分と違う、しっかりした君と一緒にいるのが」
そう。僕は、世界が違う……「同じ」でないのが、本当は不安なのだ。
他者と違うから、一緒にいられない。今のところ、特定のパートナーと関係を築くことも、家庭を作って子どもを育てることもしないし、他人の安全にも気を配れない。気分が落ち込んだとき、うまく切り替えできない……世間でいう「普通の大人」になれない自分は、いつか「世界」から忘れ去られる――子どもじみたその強迫概念は、やはり魔物の形をしていて、治める術を忘れている。
「蒼衣は、違うのが怖いのか」
「怖い、んだと思う。他人と自分が違う、っていうのはわかってるつもり……だったんだけど。違う、ってわかっちゃうと、疎外感があるというか。遠い存在に感じるというか。今日も恵美ちゃんを危ない目に合わせちゃって。それに気づけなくて。ごめん、ほんと、なんでこんな」
声が震える。情けない姿を見られるのはこの十年近くの間に二度や三度じゃないのだけれど、それでも本来なら、他人には見せない類の感情だろう。だから自分はだめなのだ、と自己嫌悪に陥いりそうになったときだった。「あのさ」と、八代の落ち着いた声が降ってきた。
「……他人と違う、ってのが、俺にとっては面白いことで。だからこそ離れがたい、っていう感情になる、みたいな……?」
「面白い?」
「面白い! 今日みたいにスライダー乗ってヒイヒイ言ってる蒼衣は面白いし、他人から聞く子どもの話は新鮮だし、こうやって話をするのも、なかなか趣があって面白い。あと、恵美のことはホントに気にするな。助けてもらってラッキーだったな、くらいに思っとけ。あんまり抱え込むなよ。そうやって責任追いすぎるのもしんどいぞ。子どもといりゃあ、金玉ヒュッってなるようなことたくさんあるんだし、そんなことでおまえをいちいち責めたりしないよ。むしろ、きちんと教えてくれてありがとな。恵美を大切に思ってるってこと、ちゃーんと伝わってる」
だからさ、と八代は朗らかに言う。
「俺とおまえは確かに違うけど、以上の理由から、俺がおまえから離れる気はないんだよな、残念ながら。観念したまえ、心の友よ。言ってしまえば、君とは公私共々、一蓮托生の運命なのだよ」
ふふん、と鼻を鳴らしそうな勢いでまくし立てられる。あっけにとられてしまい、返す言葉が見つからない自分を見て、八代は「なんだなんだ、俺なりのプロポーズだぞ」と冗談めかして追い打ちをかけてきた。
「ちょ、ちょっと待って。君、なに言って!」
プロポーズ、運命、と言う言葉が頭の中をぐわんぐわんとかけめぐる。もちろん、本来の意味で使っている訳ではないのは、重々承知だ。それでも、自分に向けられた信頼のそれが気恥ずかしく、同時にうれしくてこそばゆい。
「なにって、店の借金がわんさか残ってるからなあ。まさに一蓮托生! 共に白髪が生えるまで! 凄腕パティシエくんがたくさんお菓子を売ってくれないとウチはつぶれてしまうし一家が路頭に迷う! かわいそうな俺の嫁と娘!」
「脅さないでくれ~、売れるかどうかも不安なんだぞ、僕は」
「自信持てよ、大丈夫だって。おまえのお菓子は世界一だから! まああれだよ、もろとも地獄へ行こうぜってことで」
「借金地獄ってこと?」
「そうとも言う!」
僕が発端のジメジメした雰囲気など一瞬で吹き飛ばす八代には、手も足も出ない。
ああもう、この際地獄だろうがなんだろうが構わない。君と一緒にいられるなら、どこにでも付き合うよ。
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「やー、今日も溶けそうな暑さだ。生ケーキの売り上げたるや悲惨で俺の心が溶けそうだ」
八代が、厨房と店内をつなぐドアに寄りかかりながらぼやく。
「上旬の売り上げが良すぎたんだよ」
苦笑しながら答えてあげると「来月の一周年で巻き返してやる」と早くも立ち直っていた。
八月も下旬、ピロートの初めての夏が終わりにさしかかっている。
百貨店出店の影響で一時的に店は賑わったものの、連日の暑さは外に出る気を失わせるのか、客足は少ない。
「げえっ、この暑さの中迎えに行かねばならないのか。オーブンの前にでも行って暑さに慣れておこうか……いやしんどいよなそれ……」
「暑いからやめたほうがいいよ」
あと数時間後に迫った恵美ちゃんのお迎えのことを思い出したのか、八代は再びげんなりした顔になった。
ケーキの温度管理もあるので店内は比較的涼しいのだけれど、それはそれで外との温度差が激しいので、八代の気持ちもわからないものではない。
かくいう僕も、金のミニフィナンシェの仕込みのためにオーブンの近くにいる。むわりとした熱気は冷房を効かせていてもどうにもならなくて、じんわり汗がにじむ。
「あ~、こうなると海かプールが恋しい……あ、今年もそういやもらってたっけ、チケット」
「チケット?」
繰り返すと、八代はなにかを思いついた表情になり「いいこと思いついた」と楽しげな様子になる。
「プールのな。そして今年も四人だ。どうだパティシエくん、来週月曜の夜の予定は?」
人付き合いの少ない自分に、予定なぞ滅多にない。
「空いてます、けど」
「じゃあ決まりだな。去年買った水着は……片付けた中にあったか……?」
「……ごめん、自信ない」
「来週までに見つけておくこと!」
上機嫌になった八代は「じゃあ来週月曜は少し早めに店閉めようぜ。なあに告知しておけば大丈夫だ」と、早速告知文をパソコンで作りだした。
去年みたいに、行くのを渋る気持ちはない。向けられた言葉を素直に受け取って、一緒にいられる時間を楽しめばいいってわかっているから。
「一蓮托生の運命、だからねえ」
小さな声でつぶやけば、八代が振り向く。
「なんか言ったか?」
「内緒だよ」
「なんだい水くさい」
「そのうちにね」
「俺に隠しごととは、やるなイケメンパティシエ。涼しい顔しやがって」
「イケメンは余計だよ」
この一年、いろいろあった。弱音も醜いところもまた見せてしまったけれど、それでも君は変わらずそばに居てくれる。
一年前からずっと君から受け取っていた気持ちを、やっと自分の言葉で返せそうだ。
――今日のフィナンシェ、おいしく焼けるといいな。
焦がしバターにバニラシュガー、蜂蜜に卵白、そして魔法の金粉を少し。とろりとしたフィナンシェ生地を絞り袋に入れて、シリコン型に流し込んでいく。
――彼に、きちんと気持ちを伝えるためにもね。
心の中だけで語りかけながら、生地の入った型をオーブンに入れ、蓋を閉めた。