「なあ蒼衣『う』のつくお菓子って知ってるか?」
 六月の中頃。梅雨が始まりうっとうしい気候の最中である。雨が降ると、若干お客の足が遠のく。それは普通の菓子店だけでなく、この「魔法菓子店 ピロート」もまた同じである。
 厨房に顔を出した八代の言葉を理解するのに、蒼衣はほんの数秒の時間を要した。
「……『う』?」
「そう。土用の丑の日の」
 ああ、と蒼衣は来月のカレンダーを見やる。月末近くに「丑の日」の表記があるのが見えた。
「うちは鰻《うなぎ》は焼かない……ちょっと待って、あのパイは真似しちゃいけないでしょう」
 とっさに浮かんだのは静岡県某所にある全国的に有名なお菓子メーカーの某パイだ。
 パイ生地を丸めて薄く切り、表面に砂糖をまぶして焼いたいわゆる「パルミエ」的なお菓子に、某所名産と言われる鰻の粉を入れた土産菓子――「夜のお菓子」として有名なアレである。
「いや、アレはアレで美味いがお前に作れとは言わないよ。いやさ、土用の丑は一説によると、なにも鰻じゃなくて、頭に「う」の付く食べ物を食べればいいらしいんだよ。昨今の鰻に関する諸問題もあるし……」
 そこから八代は鰻がそもそも絶滅危惧の存在であることや、仄暗いビジネスの話をかいつまんで語った。蒼衣も食品業界の端くれにいるので、昨今の鰻の売り方については、業種違いとはいえど懐疑的な感情を持ってはいる。
 それは個人の思想なので一旦置いておくとして、ピロートで「土用の丑の日」とはこれ如何に、である。
 経営面はすべて八代に任せてあるとはいえ、自身も店頭に立つ。だから、売り上げの数字が芳しくないのは知っている。
 なんとなく、八代の言いたいことは見えてきた。
「要するに、流行りに乗っておこうってことですかね、敏腕店長さん?」
「察しがいいねえ、さすがうちのパティシエくん。ちょっとだけでもいいんで、限定ものに乗っかってみようかと。タピオカに乗り遅れた今、あえて鰻! あえて土用の丑の日!」
 へっへっへ、とわざとらしくもみ手をする様子に蒼衣は苦笑する。売り上げの落ちる夏に、菓子屋があれこれ策を練って商売をしようとするのはごくごく自然な流れではあるが「丑の日」はさすがにこじつけが過ぎるのでは、とも思う。
「夏バテ防止にお菓子食べる人、いるのかなあ」
 旬のものを使えばあるいは、とはいうものの「桃」「スイカ」「メロン」……なじみ深いものの名前を浮かべても「う」の字はない。
「良いアイディアだと思ったんだけどな」
 うの付くもの~、と頭を抱えだした八代と蒼衣。そのとき、来客を告げるベルが鳴った。八代は店頭に戻ったが、蒼衣は一人「う」の付くものを考えていた。


「あおちゃん、悩みごとかね」
 昼、喫茶に訪れた常連のヨキ・コト・キクが、給仕に来た蒼衣の表情を見て言った。
「浮かない表情しとるぞ。あおちゃんは『ないーぶ』だからのー。どうせまた八っちゃんがなにかめんどくさいことでも言ったんじゃろ」
「まったくボンクラだがや。ほれ、髪でも切ったら気分もさっぱりと……」
 小さな手をワキワキと動かし、蒼衣の髪を狙うキクに、蒼衣は「勘弁してください!」と悲鳴にも似た反応を返したあと、はあ、と小さくため息を吐いた。
「おばあさんたちにはバレバレなんですね」
 心配させてごめんなさいと小さく頭を下げれば「あおちゃんがわかりやすすぎるんじゃ」と鋭い言葉が飛んできて、思わず肩をすくめる。
 実は、と土用の丑のことを話すと「商売がめついのう、八ちゃんは」「鰻は専門のお店でおいしいのを食べるのがええ」「そもそもあのタレを食べとるようなもんじゃ」とどんどん話は逸れていく。
「それにしても『う』のお菓子か~」
 三人も同じように「う」の言葉に頭を悩ませる様子を見せた後、コトが「『う』といえば」とヨキのほうに顔を向けた。
「この前は梅をありがとうよ。今年のもよい塩梅でしたわ。梅だけに」
「うんうん。色も香りもよかったでよ。おいしい梅干しになるだろうよ」
 ヨキは商店街にある八百屋の元女将である。今は子どもに店を譲ってはいるものの、今でも顔見知りに野菜や果物を売ることもあるようだ。
「手仕込みの梅干し、いいですねえ」
「昔っから八っちゃんとこにもよーけ持っていっとるでよ」
 蒼衣の母はそういったことをしない人だったし、祖父母とは疎遠であるため、ほんの少しの羨望が胸によぎった。学生時代、八代の実家で初めて「手作り梅干し」を食べたが、顔がきゅっと締まるような酸っぱさは新鮮だった。
「僕も食べたことあります。あれ、おばあちゃんたちの作った梅干しだったんですね」
 おいしかったです、と言えば、三人の顔がニコニコと笑顔で染まる。
「あおちゃんも欲しいかね。去年のがあるでよ。一瓶でもなんぼでも持って行っていいぞ」
「アカンてコトさん、あおちゃん一人暮らしじゃろ。可愛らしい小さな箱にちょちょっと詰めてやりゃあいい」
「うちら三人のちょっとずつあげりゃあいいじゃろ」
 和気藹々と話す三人に、本当に少しで良いので、と遠慮がちに言いながら、なるほど「う」めかあ、と思いをはせる。
「梅シロップもあるでよ。ほら。八っちゃんは酒がダメだから昔からシロップじゃ」
「シロップ……」
 キクの言葉に、はっと蒼衣は気づいた。「そっか「う」……これだ」
 一人で合点する蒼衣に、三人の老婆ははてと首をかしげた。
「ありがとう、皆さん! おかげで『土用の丑』ができそうです」
 困っている自分を助けてくれるおばあさん達に感謝しつつ、蒼衣は足取りも軽く厨房へ戻った。

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「……マカロン?」
 七月の中旬である。夏を感じさせる晴れの日の午後、蒼衣は八代に一つのマカロンを差し出した。
「新作ですかパティシエくん」
「前に言ってただろ『う』の付くお菓子」
「う……? いや、マカロンは『マ』だろ」
 赤と緑のグラデーションが綺麗なマカロンの表面は思わず触りたくなるようなマットな質感。パリ式マカロンの特徴、周りを縁取るピエは小さなレースのように愛らしく仕上がっている。
 マカロンは焼成前の生地状態と乾燥が命なので、湿気の多いこの季節に作るのは本来向いていないのだが、一口サイズで食べられるお菓子にしたかった為、ベストな気候の日を選んで作ったのだった。
「あの、今回は魔法効果を事前に言っておきたいんですが」
 八代から魔法菓子の試食の際は「驚きを感じたいから極力魔法効果は伝えないでくれ」と言われているが、今回は少し不安だった。もちろん、体に影響が大きく出るようなものを作った覚えはないが、驚きが大きすぎるのでは……と不安を覚えたのだ。 しかし、八代は指を振り「待ちたまえパティシエくん」と自信たっぷりに言った。
「魔法効果は慣れっこだよ」
「いや、あの……」
「さあさあどんとこいだよパティシエくん」
 自信満々の笑みでさあ、と手を差し出されれば、ぐだぐだと説明をするのも野暮だと思えてきた。観念して「どうぞ」と促す。八代がマカロンを手に取った。サク、とかじる小さな音が聞こえてくる。
「――?!?!?!」
 すると、八代の目と口が一気に文字通り「顔から」消えた。
 喩えるなら、顔をしかめたような……目をきゅっと瞑り、口元が引き締まるそれが、漫画やアニメのように極端になりすぎた結果、目と口が「消えた」ように見える。
 八代からは、困惑・驚きが混ざった「とにかくパニック」なる気持ちが伝わってくる。
 そばに居る蒼衣は「驚くよね、ごめんねえ」と小さく謝る。
 んはっ! と八代が大きく息を吐くと当時に顔の表情は戻っていた。
 その間、ほんの三秒である。
「前が、目が、見えねえ!! あとめちゃくちゃ酸っぱいんですけど!! あっでも後味甘くて美味い……でも酸っぱい!!」
「だから説明をと」
「なっ……いや……説明なしでって言ったのは俺だし……だがしかし……」
 むう、と半ば納得のいかない顔ではある。だが怒ってはいないのが、東八代という男の美点である。
「驚くでしょ『酸い梅』の味は」
 先月、おばあさんたちとの話からヒントを得てから、蒼衣は梅を食材にしてお菓子を作ろうと考えた。魔力含有食材狩人の夫を持つ師に相談したところ「良いものがある」と薦められたのが酸い梅である。
「酸っぱ過ぎて、顔の筋肉の収縮が過剰になるんだよ。すぐに効果が消えるようにしてあるけど……驚くよね」
 ははは、と笑う。すると「パーティシエくーん」と八代がマカロン片手ににじり寄ってきた。
「君も驚きをシェアしたまえよ」
「はひ?」
 考える間もなく、口にマカロンが突っ込まれる。反射的に噛むと、中心に仕込んだ赤い梅ジャムの刺激的な酸っぱさと、その周りに挟むようにしたまろやかな青梅シロップ入りバタークリームの味が広がる……が。
「――?!?!?!」
 顔全体が急にラップでぎゅうぎゅう巻きにされたような感覚に襲われる。目も口もなくなってしまったような感じのあと、急に緩むものだから「ふはっ」と息が出る。
「前が見えない! 酸っぱい!」
 マカロン生地のサクサク感を味わう余裕もないままに、ただただ涙目になった蒼衣を見て、八代がケラケラ笑うのが見えた。


 その後「暑い夏にすっきりリセット! 「う」めの『ショック・マカロン』で夏を乗り切ろう」のPOPで売り出され(刺激が強いので、弱めの効果の「やさしいバージョン」も作った)仕事で疲れた社会人に大受けだったとかそうでないとか。