ピロートよりもまぶしい百貨店の照明の下。シャンパングラス風の容器に入った青色のゼリーが輝く。
 青と紫のグラデーションが美しいゼリーの上には、青い氷琥珀が流氷のように乗せられている。
 氷琥珀の乗ったゼリー……百貨店出店限定の商品『ドラフト・グラス』をメインに、店で人気の『ボイスマジック・ロッカー』『お好みプリン』そしてスペシャリテである『プラネタリウム』がショーケースの中に並ぶ。
 開店の時間を迎えると、お客がどっと押し寄せてきた。あっという間に催事場が賑やかになり、やがてピロートの前にも、一人、二人と、足を止める客が増え始めた。


「上の氷のような砂糖菓子は、食べると一時的に体が冷えて、涼しくなります。下のゼリーはスプーンを入れると、色が変化します。近くにあるイートインコーナーで、すぐにお召し上がりいただけますよ」
「おもしろそう、買います!」
 限定品である『ドラフト・グラス』は、見た目も魔法効果も涼やかなこともあって、飛ぶように売れていく。予想を上回る需要に、蒼衣は紗枝や他の従業員に応援を頼み、店と南武の往復を何度もすることになったくらいだ。
 会期中、お店の常連さんたちも顔を出してくれた。
 高校生の信子は、夏休みということもあって友だちをたくさん連れて遊びに来てくれた。相変わらず彼女たちは賑やかで、ちょうどよく他のお客への「呼び水」になってくれた。
 ヨキ・コト・キクのおばあちゃんたちも「店に八っちゃんしかおらんでつまらん」とぼやきつつ、イートインコーナーで『ドラフト・グラス』を食べていった。
 紗絵は休みの日に、夫の壮太と娘の梨々子を連れて、お客としてケーキを買ってくれた。
 いつもシュークリームを買う常連の女性が「会社のみんなに差し入れする」と言って、大量に『ドラフト・グラス』を買ってくれた。
 まるでクリスマスのときのような忙しさだが、蒼衣は不思議と辛さを感じることはなかった。お客が集中してしまったときも、自分が必要以上に慌てなければ、案外スムーズに接客できるということにも気づけた。
 そして、百貨店で初めて出会うお客から、いろんな声が聞けた。
 SNSで知ってはいたが、なかなかお店まで行けなかったひと。
 人生で初めて魔法菓子を見て感激したひと。
 魔法菓子は美味しくないというイメージに囚われていたのに、後から満面の笑みで「美味しいよ!」と伝えにきてくれたひと。
 お店ではわからなかった、新しいお客の反応は、蒼衣にとって新鮮でうれしいものだった。
 それは、目の前にパルフェのブースがあることなど、すっかり忘れてしまうほどで。
 お祭り騒ぎのような六日間は、あっという間に過ぎていった。


 最終日、ピロートのショーケースは空で終了を迎えた。
「よっしゃあ、廃棄ナシ!」
 片付けのために駆けつけた八代と一緒に、思わずハイタッチする。てきぱきと片付けていると、咲希が現れた。手には、レシートのようなものを持っている。
「速報だから正確じゃないけど、ピロートさん、催事の中でもよく売れてる。ホント、お疲れ様でした」
「咲希もお疲れ様。本当にありがとう、催事に声をかけてくれて」
 なんだかんだ言いながらも、咲希は蒼衣が参加を決めた後は、店の紹介文やレイアウト、お客さまの傾向など、さまざまな面でサポートしてくれたのだった。
 それらも含めた感謝の言葉に、咲希はなぜか、戸惑ったような顔になった。
「……正直、兄さんがメインで接客するって聞いて、不安だった。クレームを覚悟してたくらい。でも、ふたを開けてみたら、お客様からの評判がとても良かった。私もブースの様子を見たけど、兄さんの様子や顔つき、前と違って憑きものが落ちたみたいで、その……」
 口ごもる咲希の横で、八代が「なるほど」と、妙に納得した様子で手を叩いた。
「もしかして、初めてお兄ちゃんのことをカッコイイって思っちゃったわけ?」
 八代の言葉に、咲希の顔が一気に紅潮した。
「そ、そういうのじゃなくて! ちゃんと仕事してるんだなって! お得意様がね、笑顔が素敵な店員さんが、とかいうのよ。おまけに、従業員の間でもピロートの手伝いをさせろっていう人が続出して。女性社員なんて、キャーキャーうるさいんだから。まさか、あの兄さんがあんな風に笑うんだって知らなかったっていうか、その――」
「いいんだ、僕だって驚いてる。君の知ってる僕は、大人のくせに引きこもりでなにもできない、情けない兄貴だっただろうから」
 なにも言えなくなっている咲希を見て、蒼衣は微笑む。
「今度の休みには、実家に少しだけ顔出すよ」
 逃げていても変わらないとわかった今、少しだけでも、家族と向き合うのも悪くない、と思えた。
 自分が辛くないと思う範囲で、いろんなひとと縁を結んでいくのは、悪くないことだろうから。
「……無理、しないでいいから。お父さんもお母さんも相変わらずだし」
「珍しいね、咲希が優しいこと言うなんて」
 にこり、と笑って見せる。咲希はわざとらしく顔を背けた。
「勘違いしないで、私はめんどくさくなるのが嫌なだけ。でも、帰ってくるなら、美味しいケーキ、お土産に持ってきなさいよ、兄さん」
 いつも通りなのに、どこか前よりもやわらかい雰囲気の咲希が久しぶりにかわいく思えて、蒼衣は「いいよ」と気持ちよく答えた。

 
 店に持ち帰るものをすべて車に乗せ、がらんとした催事場で最後の確認をした後のことだった。
 向かいのパルフェに立つ、五村と目が合った。
「お疲れ様でした」
 自然と労いの言葉が蒼衣から出てきた。五村の鋭い眼光も、今となっては怖く感じない。心は穏やかそのものだった。
「パルフェの新作、とても美味しかったです。講習会のときよりも、改良されたんですね。夏にぴったりのケーキでした」
 休憩時間、蒼衣はパルフェのブースで夏の新作『タルトレット・ソレイユ』を買い求めていた。
「僕は、あなたのお菓子が好きです。たとえ僕が魔法菓子職人でも、それは一〇年前から変わりません。勉強させていただきました、ありがとうございます」
 頭を下げる。この九年の間、心の奥底でくすぶり続けていた想いは、すべて言葉に込めた。
 今は、認めてもらいたいという気持ちよりも、素直に好きだという気持ちを伝えたいと思った。
 五村は蒼衣をまっすぐ見つめる。やがてフン、と鼻を鳴らし、口を開いた。
「……『プラネタリウム』の味だけは気に入った。少し手を加えればさらによくなるだろう。魔法菓子は好かんがな」
 それだけ言うと、五村は蒼衣のそばを通り抜け、催事場を出て行った。
 静寂が訪れ、蒼衣は、口元に手を当てた。
「――っ!」
 あの人が自分のお菓子を口にしてくれた。しかも、つい先ほどなのか。伝わってくる感情が、蒼衣の中にあふれる。
 複雑な感情の奥底に隠れていたのは、ただただ単純で素直な『美味しい』の気持ちだった。
 魔法菓子を認めなくても、それは別にかまわない。だれだって気に入らない世界はあるだろう。相手の世界に、土足で踏み込みまねをしなければ、共存はできるはずだ。
 五村の後ろ姿を見送る蒼衣の目に、うっすら涙がにじむ。
「蒼衣」
 八代が蒼衣の隣に立った。よかったな、とささやかれ、蒼衣は無言でうなずいた。

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「よーし、今日も一日お疲れさん」
「お疲れ、八代」
 残暑の残る九月の頭。いつも通りに営業を終えた『ピロート』の勝手口の外で、蒼衣と八代は一日の疲れを労り合った。
 八月の百貨店催事の効果か、夏の売り上げは落ちることなく、上がっていくばかりだった。
「今日も遅くなっちゃってごめんね。なかなか仕込みが終わんなくて」
「いいんだよ、こっちも一周年祭ディスプレイの発注やら確認やらしなくちゃいけなかったしな。しっかし、もう来週か。なんだかあっという間だったな、一年間」
「いろんなことがあったね」
『魔法菓子店 ピロート』を開店させて、一年が経とうとしている。
 さまざまなお客やトラブルとの出会いは、だれかを幸せにする一方で、自分の気持ちにきちんと『気づく』きっかけになった。
 困っているひとを助けようと思っていた自分が、実は助けられていた。
 心の奥底で隠していた、なにも持たない自分は『いらない人間』だという考えは、違うのだとわかった。
 世界が違っても、ひとは一緒に共存できる。
 本当は、若い頃にわかっていれば、もう少し『正しい』人間になれていたのかもしれない。でも、今こうして八代と店をやれたからこそ気づけたのだと、蒼衣は思いたかった。
 空を見上げれば、長野には及ばないが、彩遊市の空にも星はいつも通り輝いている。
「八代、僕を店に誘ってくれて、ありがとう」
「唐突だな、おい」
 くつくつと笑う八代を見て、蒼衣は自然と、ずっと隠していたことを言いたくなった。
「少し、僕の話を聞いてくれる?」
 いいぜ、と八代はうなずいた。
「ここだけの話、このお店があれば……いや、《《八代だけがそばにいれば》》、僕はそれでいいと思ってたんだ。八代の役に立てれば、この世界で生きててもいいって思える気がして。でも、それじゃあダメだってことに気がついた。だれかのため『だけ』じゃ、生きていけない。自分が自分を信じてあげなくちゃ、生きていけないんだって。だれかを助けることだって、幸せにすることだってままならないんだ」
 八代は蒼衣の話を黙って聞いている。こんな自分勝手な感情を隠していたことに、呆れているのだろうか。怖くもあったが、それが偽りない蒼衣の気持ちだった。
「僕は、これからも魔法菓子でいろんなひとを幸せにしていきたい。優しくありたい。でもその前に、僕自身が幸せになりたい。君とこの店で一緒に働くことが、僕の幸せなんだ。だから、その……」
 蒼衣はポケットの中から、小さな袋を取り出す。そして、八代の手のひらにのせた。
「これからも、君のそばにいたい。いさせてください」
「蒼衣、これ――」
「金のミニフィナンシェ。当たりかどうかは、食べてみて」
 八代は一個だけ包装されたミニフィナンシェの袋を開け、真ん中で割った。中身を見た八代の目が見開かれる。
 片方のフィナンシェの中央に見えるのは、きらりと光る金色の粒。
「……これはプロポーズかなにかかね、パティシエくん」
 プロポーズ、という予想外の単語に、蒼衣は自分の発した言葉を反芻する。自分としては素直に気持ちを伝えたつもりだったが、他の人にはそう受け取られることもあるのか――そこに至った結果、頭の中がパニックになった。
「あっ、いや、その、そういうつもりっていうか! 感謝というか! いつもありがとうって気持ちとか僕の勝手な決意っていうか! だからそういうのじゃなくてっ」
 慌てる蒼衣を見て、八代は突然がしっと肩を組んだ。
「わあっ!?」
「ははは、おまえが幸せになれるんなら、いやでもそばにいてやらあ。そうすりゃ、俺も世界もみーんな幸せになるからな!」
 ニッ、と歯を見せて八代が笑った。すると、いつの間にフィナンシェを口にしたのだろうか、蒼衣に感情が『伝わって』きた。
 ――『絶対に離さない』
 強く、そしてまっすぐな八代の感情に、胸がいっぱいになる。
 蒼衣も腕を八代の肩に回して、ぐっと力を込めた。
「おいしい魔法のお菓子で、自分もみんなも、幸せにしてみせる。『プラネタリウム』ももっとおいしくするよ。隠し味を考えてあるんだ。楽しみにしてて」
「その意気だ、パティシエくん。俺はいつでも試食は大歓迎だ!」
 八代に向かって、蒼衣は満面の笑みを投げかけた。

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 魔物は今でも蒼衣の心の中にいる。時折、ふんふんと鼻を鳴らしたり、心が落ち込んだときにはかぱりと口を開けようともする。
 そんなときは、甘いお菓子を一口、魔物の口に投げ込めばいい。
 そのために自分がいるのだと、蒼衣は心から思うのだった。

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蒼衣さんのおいしい魔法菓子 おわり