蒼衣は、厨房の電気を付ける。髪の毛をしっかりと縛り直し、気合いを入れた。
 パントリーと冷蔵・冷凍庫を眺めて、使いたい材料があることを確認した。手早くそろえて計量する。
 アーモンドパウダーと溶かしバターのたっぷり入ったビスキュイ・ジョコンドの焼成。その間に、カスタードとキャラメルペーストのキャラメルムースを作る。急速冷凍庫にかけて冷やす間、メインのスイートチョコレートムースの準備をする。
 すっかり冷えたジョコンドを丸い型(セルクル)、それよりも一回り小さな丸い型で、固まったキャラメルムースを抜いた。
 カカオの香りが強めのスイートチョコレートを溶かし、あっさりとした脂肪分三五%の生クリームと合わせる。ローストしたナッツを砕いた物と、ゼラチンを加えてムース生地を完成させ、ドーム状のシリコン型に流し込んでいく。
 その中に、キャラメルムース、ジョコンドを乗せて、急速冷凍に入れる。
 これで、本体のムースが完成する。ここまでは普通のケーキを作るのとほぼ大差がない。問題はこれからだった。
 パントリーから持ち出した『オリオン座のかけら』の瓶を眺める。
 小皿を計量器に乗せ、かけらを計る。
 一番大きなかけら、一等星を二つ。それよりも一回り小さいかけら、二等星を五つ。さらに小さいかけらを四つ、もっと小さいのが五つほど。
 魔力が発動したときに、きちんと星座ができあがるために必要な星の数。忘れることのできないオリオン座を構成する星。
 蒼衣は軽く手で触れて、星が生きているかを確かめようとした。しかし、手が震えて、そうすることができない。食材から魔力が消えてしまわないか、不安だった。
 ――弱気になるな、天竺蒼衣。信じるんだ。自分を信じてくれるひとたちのことを。なにより、自分を。
 己を奮い立たせ、蒼衣は手を伸ばした。瞬間、ほんのりと暖かさを指先に感じる。消えてしまいませんように、いや、消えさせない。心の中で強く思いながら、すべての星に優しく触れていく。
 小皿の上の星が、瞬き、光を発した。指先の暖かさが、増したのを感じた。体全体が、一瞬だが魔力がふくれてはじけた感覚が走る。髪がふわりと舞う。目が覚めるような心地だった。
「……!」
 言葉にできないなにか――大切なもの――が、自分の中に帰ってきた気がした。感情が否応なしに高ぶって、一筋涙がこぼれる。しかし、天井を仰ぎ見て、歯を食いしばった。喜ぶのはまだ早い。
 コーティング用のツヤのある加工チョコレートである、グラサージュショコラを鍋に入れ、火にかけて溶かす。ダマができないようにホイッパーで混ぜ、ムースにかけられる柔らかさになったところで火から下ろした。
 ボウルに移したグラサージュショコラに、いまだ輝きの消えない星のかけらを入れた。優しくかき混ぜ、とろりと落とす。つややかさ、なめらかさを確かめた。
 バットの上に網を乗せ、その上にシリコン型から抜いたチョコレートムースを並べる。そして、上からそっと冷やしたグラサージュをかけていった。
 ドーム状のムースの表面に広がっていくグラサージュは、鏡のようなつややかさ。仕上げの上手くいった証拠だった。
 バットごと冷蔵庫に入れ、落ち着かせるその間に、使った器具を綺麗に洗い、片付けた。一息ついたとき、厨房のドアが開く音がした。
「私も食べていいかしら」
 振り向くと、広江が立っていた。
「すみません、勝手に厨房と材料を使いました」
「かまわないわ。蒼衣くんがなにか作ってるって、星が教えてくれたから」
 にっこりと微笑んで、窓を指さす。
ピロート(そっち)に行こう行こうって思ってたんだけど、出かけるのも疲れちゃうから、行けなくてね。食べるの楽しみよ、弟子のスペシャリテ」
「そこまで星が教えてくれるんですか」
「かわいい弟子のことならね」
 やはり師匠には敵わない。蒼衣は肩をすくめる。
 しばらく世間話をして過ごし、頃合いを見て蒼衣は冷蔵庫からムースを取り出した。 棚から皿とフォークを二つだし、次に冷蔵庫からバットを取り出す。綺麗に並べられたドーム型のケーキをパレットナイフを差し込んで網から離す。下部に垂れている余計なグラサージュをもう一本の小さなパレットナイフで取り除き、皿に乗せた。
「飾りのチョコと金粉はありませんが、どうぞ『プラネタリウム』です」
 広江の前に皿を差し出す。フォークの先が表面に向かう。蒼衣は祈るように、シャツの裾をぎゅっと握りしめる。
 触れた瞬間、グラサージュの上に浮かび上がるのは、オリオン座。
「なるほど」
 フォークを差し入れ、一口運ぶ。目をまばたきさせた。
「まぶたの裏でも星が見える。もちろん、ムースも口溶けが良くて、甘い。中心のキャラメルが苦めだから合うわ。なにより、グラサージュで星座をきちんと発動させてる。これが、あなたのスペシャリテなのね」
「はい」
 自信を持って答えた。
 プラネタリウム――蒼衣が忘れようと思っても忘れられない、忘れたくない、冬の夜空。ほろ苦さと甘さのマリアージュ。
 この夜空があったからこそ、今の自分がここにいる。

 翌日、蒼衣は広江と勝に礼を言い、リベルテを去った。できあがった『氷琥珀』を手土産に、八代の待つピロートへと戻るために。
「おかえり、蒼衣。野菜炒め、食うか?」
 夕方、ピロートに戻った蒼衣を迎えたのは、あの『きんとうん』の香りを漂わせた、八代お手製の野菜炒めだった。
「……前と同じじゃないか」
 かつて、リベルテから戻ってきた蒼衣を最初に迎えたのは、家族ではなく、八代である。蒼衣の実家最寄り駅で、この野菜炒めを容器に入れて待っていたのは、彼だった。
「長旅おつかれさん。どーせ夕飯を作る気力もないだろうと思って、作っといた。食べてくれよな」
「ありがとう。あの、僕、魔力――」
 魔力の消失がなくなったことを伝えようとするが、八代は「知ってる」と言った。
「おまえの顔見ればわかるよ。よかったな」
 ああ、なんでも八代はお見通しなのか。蒼衣は心の底から安心して、薄く涙を浮かべた。

:::

 八月第一週目の早朝。彩遊市の南武百貨店搬入口付近の駐車場。
『魔法菓子店 ピロート』のロゴが入った軽自動車が、ゆっくりと停車する。
「つ、つ、着いた……」
 《《運転席》》で、顔面蒼白の蒼衣が声を震わせてつぶやく。ハンドルを握る手は緊張で震えていた。
「ど、どこもぶつけてないよね」
 しっかりとブレーキをを踏んで止め、震えの止まらない手でエンジンを止める。鞄の中から携帯電話を取り出し、電話をかけた。
「もしもし、八代? いま、無事に着いたよ」
『おっ、大丈夫だったか! いやあ、安心したよ。蒼衣が出てってから今まで、仕事に手が着かなかった』
「ご、ごめんよ。たぶん、大丈夫だから」
『じゃあ、催事一日目、頼んだぞ。大丈夫だ、自信を持つんだ。おまえのお菓子はおいしいから』
 電話越しでも伝わってくる、八代の自信あふれる声に、少しづつ震えが止まっていく。
「ありがとう。じゃあ、お店をよろしくね」
『おう』
 電話を切ると、蒼衣は長く息を吐き出した。心を落ち着かせてから車から出ると、後部座席のドアを開けた。
 そこには、ばんじゅうがぎっしりと積まれている。店から一緒に持ってきた台車にそれらを移し、意を決して搬入口に向かった。

 リベルテから帰ってきた後、元通りに魔法菓子が作れるようになった。
 幸いなことに、魔力が消失したのはあの土曜日だけだったようで、お客からクレームの連絡はなかった。
 そして蒼衣は、百貨店催事に出店することを改めて決意した。
 パルフェ……五村への恐れや後悔が完全になくなったとは言えないが、自分と自分を信じてくれたひとたちのために、行動しなければいけない気がした。
 トラウマの他にも、店とは違う、百貨店という場所や、接客の仕方……。蒼衣には多くの課題があったが、いつまでも恐れ、逃げているばかりでは、なにも変わらないからだ。
 百貨店用の限定商品も、勝の教えてくれた氷琥珀をアレンジし、夏らしい一品を
考えた。 
 そして、事故以来一度も握っていなかった車のハンドルを握ることも、課題の一つだった。
 六日の会期の間、閑散期とはいえ、ずっと店を閉めておく訳にもいかない。かといって、初めてお披露目するお菓子を八代だけに任せておくことも難しいと考えたのがきっかけだ。
 何度か八代に付き添ってもらって練習したおかげで、車で一五分の距離にある百貨店まで行くことができるようになった。
 車を再び一人で運転できた、というだけでも、蒼衣は小さな自信がついた気がしたのだった。


 あらかじめ渡された臨時の入館証を見せ、いよいよバックヤードに入った。
 エレベーターに乗って五階まで行き、催事場に向かう。初日ということもあり、百貨店の店員や、自分と同じような出展者がせわしく行き交う中を歩き、店名が表示されたスペースまでたどり着いた。
 向かいを見れば、そこにはパルフェのロゴがあり、一気に不安になった。今日は頼りになる八代もいない。
 しかし、蒼衣は手元のばんじゅうを見て、気持ちを落ち着かせようと試みた。
 信じるんだ。心の中で唱えながら、準備を始めた。
 あらかたばんじゅうの中身をショーケースに移したときに「おはようございます」と声が掛けられた。顔を上げると、百貨店の食品部門の制服を着た三〇代後半くらいの女性が立っていた。
「今回の催事で、ピロートさんの販売サポートをさせて頂くことになった、南武百貨店の間宮です。よろしくお願いします」
 軽く頭を下げる女性には、見覚えがあった。
「ピロートの天竺蒼衣です。あの、もしかして、二月に『バルーン・バースデー』を注文してくださった……」
「その際は、ご迷惑をおかけしました。おかげさまで、家族仲良く過ごせています」
 それは良かった、と答えると、女性……間宮紗絵の頬がほんのり上気した。
「催事にピロートさんがいらっしゃるって聞いて、お手伝いできたらいいなと思ってたんです。忙しいとき、ご飯や休憩などで席を外すとき、お店のことでわからないことがあれば、いつでもお声かけくださいね。私、ピロートさんのファンなので、一所懸命お客様にもおすすめします。私たち家族を助けてくれた、素敵なケーキ屋さんなんですよって」
 熱意あふれる紗絵の言葉に、蒼衣は不安が薄れていくのを感じた。信じてくれるひとが近くにいる。こんなに力強いことはなかった。
「ありがとうございます。実はお恥ずかしながら、催事の参加が初めてで、不安だったのです。今、間宮さんの言葉で、とても元気が出ました。こちらこそ、よろしくお願いします」
 蒼衣は深々と頭を下げた。そして、顔を上げて「よかったら下の名前で呼んでくださるとうれしいです。そのほうが好きですし、安心します」と告げると、さらに紗枝の顔が赤くなる。
「大丈夫ですか? 顔が赤いですよ。具合が悪いですか?」
 心配になって尋ねると、紗枝は「……無自覚なんですか?」と呆れたような、驚いたような顔で言った。
「無自覚?」
 紗枝の言う「無自覚」の意味が皆目見当がつかず、蒼衣は笑みを浮かべて小首をかしげた。
「い、いえ、なんでもないです!」
 じゃあまた後で、と小走りにその場を去る紗枝を、蒼衣は不思議そうに見つめるだけだった。