九年前の一二月のことだ。
 数ヶ月ぶりに財布を持って、蒼衣は家を出た。動かないかもしれない、と思った足は、意外にも元気に歩き出す。携帯は置いていこうと思ったが、最期に八代からのメールだけでもみたいと考えてしまった。仕方が無いので電源をオフにしてポケットに入れた。夜中のコンビニで、口座から有り金を全部引き出した。予想していたよりもお金があったことに安心して、まずは線路沿いにずっと歩いた。ただただそうしたかっただけだった。いつ柵を越えて線路に行ってもいいという、不思議な安心感があった。
 そうしているうちに夜が明けたので、今度は一番遠くまで行ける切符を買って電車に乗ろうとした。ふと見上げた路線図の上にある、ローカル線が目に止まったので、最終地の金額まで買った。
 頭の中にあるはずの目的は、霞が掛かったようにわからなくなっていた。ただ、いなくなるなら知らない場所のほうがいい。電車に揺られている間、漠然と考え続けていた。
 浅い眠りを繰り返し、気づいたら夜はとっぷりと暮れていた。そろそろ降りようと考えて、止まった駅でふらりと降りた。
 そこは今にも消えそうな電球だけが付いている、無人駅だった。
 駅から出て、しばらく当てずっぽうに歩いてみた。しかし、駅以外は建物も街灯すらまばらで、道路沿いを歩いているというのに、どこにいるのか、蒼衣にはわからなくなっていた。
 そんな景色がずっと続いた後、ようやく、今まで感じていなかったはずの寒さを強く感じ、蒼衣はその場にうずくまった。高校時代から使っているぺらぺらのコートでは、この寒さに耐えることはできない。
 凍てつく空気が、気持ちを徐々に冷静にさせていく。ここは何県だろうか、どこかお店はあるだろうか、帰りの電車は――そこまで考えて、はっとする。
 帰るつもりなど、なかったはずだった。
「しぬ、つもりだったのに」
 こぼれ落ちた言葉は情けないものだった。死ぬならまず線路に飛び込んだってよかった。どこでもいいから車の前に飛び出したってよかったはずだ。川に身投げもできたはずだし、そもそも外になんか出なくなって、死ぬ方法はたくさんあったはずだ。
 結局自分は、なにもかもきちんとやれない人間だった。自分の言う死にたいというのは逃げたいという意味だったのか、と思い至る。
「にげたかった」
 自分を受け入れてくれない世界から。ともすれば、世界の役に立たない「自分」から。今までため込んだ惨めさと情けなさが胸の中でいっぱいになって、体をかき抱いて泣いた。
「じゃあ、一回逃げてみればいいのよ」
 不意に誰かの声がして、顔を上げる。
 満天の星空を背景に、ひとが一人立っている。
「星が騒いでるから、なんだろうって思って見にきたら。なるほどね、そういうこと」
 間延びしているようにも聞こえるが、なぜか心が落ち着く、優しい女性の声。女性は蒼衣に近づき、その場に膝をついた。辺りに漂ったのは、甘く、香ばしい、蒼衣には懐かしくも憎い焼き菓子の香り。思わず、身を引いた。
「あら、まるで手負いの猫みたい。でも、ウチの敷地内で死体になられるのは、ちょっと困るかな」
 困る、と言いつつも、どこかおもしろそうな声音なところが不思議だった。そのときの蒼衣は、しきちない、と復唱するのが精一杯だった。どうやら他人様の土地に、不法侵入してしまったらしい。詫びようとしても、すでにろれつが回らなかった。
「逃げるんだったらせめてウチにしなさいな、迷子さん」
 クスクスと笑いながら差し出されたのは、手袋に包まれた手。甘い香りがさらに増したのに、不思議と嫌な気持ちにならなかった。
 不思議なひとだな、と思いながら、蒼衣は差し出された手をそっとつかんだ。 

 これが、魔法菓子職人としての師匠である、三蔵《さんぞう》広江《ひろえ》との出会いだった。
 
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「久しぶりに蒼衣くんが顔を見せたと思ったら、トラブルを手土産にするなんて」
 ログハウスの中には、あの頃と同じ甘い焼き菓子の香りと、さわやかな木の香りが漂っている。
 ペンション宿泊のためのカウンターの隣には、ケーキのショーケースが並ぶ。お客はおらず、蒼衣と三蔵広江はその横に設けられたレストスペースで向かい合う形で座っていた。
 師匠である広江がどんなときもクスクスと笑う癖は、最後に会った数年前と変わらない。その度に、ウェーブの掛かったボブヘアが揺れ、焼き菓子の香りも漂う。年季の入った変わらぬコックコート姿も、懐かしかった。
「申し訳ないです」
「いいのよ。むしろ私を頼ってくれるなんて、成長したわ~。昔は自分で抱えるだけ抱えて感情爆発させちゃって逃げる喚く挙げ句の果てに部屋に引きこもるとか、あったじゃない。今回もそんなところなのかなって」
 事情を話す前から、師匠には見破られていた。
「……お察しの通りです」
 気恥ずかしさに頬をかく。それを見て、広江はまた笑った。
「大変だったのね、私のかわいいお弟子さん。さてと、お菓子から魔力、消えちゃったんだって?」
 魔力が消えた翌日、蒼衣は長野県の山奥にある、広江の経営するペンション『リベルテ』に訪れた。一泊二日の小旅行のようなものだ。八代は留守番で、蒼衣一人の旅。店は開けていないが、万が一連絡があっても動けるように、店に残ってもらっている。
「そうなんです」
 蒼衣はかいつまんで経緯を説明する。結局、今もお菓子に魔力は戻っていない。悩んだ末、蒼衣が取った行動は、魔法菓子職人の師匠に相談することだった。
 広江は、この道三十年のベテラン魔法菓子職人だ。ホテルや資産家のお抱え魔法職人としての経験後、魔力含有食材狩人である夫とこの地に移住。ペンションと魔法菓子店を営んでいる。
 そして九年前、敷地内に迷い込んだ蒼衣を介抱し、魔法菓子と出会わせてくれたのが、広江であった。
「魔法菓子の魔力に関しては、まだまだわからないことが多いのよね。たとえば、私たちのような職人が長く接することで、ちょっと不思議な力が備わったりするでしょ。あれも、ひとによってまちまちだし、必ずそうなるわけでもないし。私は、魔力含有食材の『声』を感じることができるけど、蒼衣くんは、たしか」
「お菓子を食べたひとの感情が『伝わって』きます」
「そうだったわね」
 用意したカップのお茶を一口含み、広江は思案顔になる。
「私の経験でしかないけど、ごくまれにそういうことは起きる。とても珍しいケース。蒼衣くんみたいに感受性の強いひとが、そういうことに巻き込まれることは多い」
 感受性、と蒼衣は繰り返した。
「本来、魔力の影響は、蒼衣くんみたいにひとの感情に関わることは少ないの。その数少ないトラブルの一つに、魔力の消失がある。蒼衣くんが取り乱せば取り乱すほど、魔力の効果が消えていく。今回は、件のオーナーシェフのことでトラウマが刺激されたってところかしら」
 トラウマ、の言葉に、蒼衣は口に手を当て、思案する。魔物の中身を取り出して、きちんと見つめるための作業だった。
「……せっかく手に入れたものを、認めてもらえなくて、僕はすねてしまったんだと思います。魔法菓子を「味のロクにないもの」って言われて。それを作ってる自分を、ないがしろにされた気がして。まやかしのものに頼る、情けない人間だと言われた気がしたんです」
 だから、自分の存在も危ういと感じた。蒼衣は胸の内を素直に吐露する。出会ったときから、広江には素直に自分の気持ちが言える、不思議な間柄だった。それは、広江の纏うふわふわとした、どこか浮き世離れした雰囲気が、蒼衣の感覚と合っているからだ。
「蒼衣くんは、そう思ってるの?」
「え?」
「蒼衣くんも、魔法菓子がまやかしで、味がロクになくて、くだらないものっていうのが、正解だと思ってるの?」
「そんな! そんなことないです」
 蒼衣は即座に否定した。蒼衣をもう一度職人の道に導いたのは、広江が教えてくれた魔法菓子だ。
「僕は、あなたから魔法菓子を教えてもらわなかったら、今ここにいないんです。自分に魔力適正があるってわかったとき、あんなにうれしかったことはないです」
 約九年前、広江に介抱された蒼衣は、勝手に敷地内に入ったペナルティとして、魔法菓子の製造を手伝うことになった。そのときに、魔力を扱えることが判明したのだ。
 初めて触れた魔法菓子の不思議さと、なぜか不思議となじむ食材に、蒼衣のすり減った心は癒やされていった。
「一度は嫌いになりそうだったお菓子に、もう一度向き合えた。楽しさや不思議さが、心を明るくしてくれる。だから僕は、魔法菓子が好きです。それを知ってもらえたらって、思ってます」
 いつの間にか熱っぽく語ってしまっていた。それを見た広江は、目を細める。
「あなたのそういう、真っ直ぐなところが、魔力と結びついたんでしょうね。魔法菓子への同一化……だからこそ、色濃く影響もされる。感情が伝わってくるのも、魔力が消えるのも、きっとそう。……感受性の豊かさは、この世界で生きるときは邪魔なこともあるから」
 魔力は、現代社会の理とはまた違うものなのよと付け加えた。
 広江は、八代と同じようなことを言っているのだ、と気づいた。
「蒼衣くんのその気持ちは、貫いてほしいな、と私は思うの。確かに、五村シェフの作るお菓子は、魔法の力に頼らなくてもきれいで繊細で美味しいんでしょうね。評価されるべきことだと思う。でも、そうやって評価される彼の言うことが、世界のすべてではないわ」
「世界の、すべて……ですか」
 広江は、蒼衣の見て、感じることを当然のように受け取ってくれる。世界、という言葉を、蒼衣と同じような意味で使うひとだった。
「あなたの世界――あなたと大事なお友だちのお店は、他のだれでもない、あなたたちだけのものよ。作ってきたものを、思い出して」
 キャンドル・ショートケーキ、ボイスロッカー・ロール、ふわふわシュークリーム、バルーン・バースデー、金のミニフィナンシェに銀のミニマドレーヌ。ブルーミング・チーズケーキに、お好みプリン。そして、プラネタリウム。
 どれもこれも、自分が食べたい、食べてもらいたいと思って考えたものばかりだ。 では、食べてもらいたいと思ったのは誰だろう?
 かつての自分のような、生きることに疲れたひと、さみしいと思ってるひと、どこか心にひっかかりのあるひと、だれかに助けて欲しいひと――人生のつまづきに疲れ、戸惑うひとへの、ひとときの癒やしとなるような、甘くてやさしい、おいしいお菓子。
 きれいさや繊細さ、有名な賞もなにもとらないけれど、だれかを一瞬でも幸せにできる。そんなお菓子を作ろうと。
「作ってきたお菓子は、あなた自身の軌跡。蒼衣くんにしかなし得なかったこと。だから、きちんと前を向いて、自分の世界を信じなさい。あなたは、魔法菓子店ピロートのシェフパティシエ、天竺蒼衣でしょう?」
 広江は、今までの悠然とした雰囲気をすっと消して、言い放つ。鋭い視線に、蒼衣は思わず背筋を伸ばす。
 彼女は、普段の雰囲気こそおっとり、のんびりしているが、仕事には人一倍真剣なひとだ。人生の半分近くを、厳しい職人の世界で生き抜いてきた気迫は伊達じゃない。相手の立場や心情を慮り、叱咤激励する手腕には、いつも感服するほかなかった。感情のままに不満を叩きつける五村と違う。蒼衣は広江のそういう部分に惚れ込み、弟子になったのだ。
 蒼衣はしばし、無言になる。
 魔法菓子と自分が強固に結びついている……結びつきが強すぎて、影響が強すぎることを自覚できた。
 つまり、自分の気持ちひとつで、状況を打破できる。そして、自分にはそれを支えてくれる友人や、お菓子がある。
「……師匠、ありがとうございます。少し、先が見えてきました」
 広江は、返事をした蒼衣を見やると、相好を崩した。そして、壁に掛けられた時計を見て、そろそろか、とつぶやく。
「よろしい。では、少し気分を変えて……今日はちょっと勉強していかない? どうせ、泊まっていくんでしょ」
 唐突な『勉強』という言葉の意味を問おうとしたそのとき、ログハウスの扉が開いた。入ってきたのは、杖をついた老年男性と、同じような年格好の女性だった。
 広江が席を立った。手持ちぶさたになった蒼衣が様子を眺めていると、男性の顔に見覚えがあることに気づく。
「万寿さん、お待ちしておりました」
 広江が二人に近づき、にこやかに対応する。知っている名前が飛び出し、蒼衣の記憶と結びついた。
 椅子から離れ、彼らに近寄る。男性が、ゆっくりと蒼衣のいるほうへ体を向けた。無理しないで、と女性が声をかけるのが聞こえる。
「蒼衣くんは知ってると思うけど、こちらは『万寿』の万寿勝さん。私も若い頃にお世話になったの。万寿さん、彼が電話でお話した、弟子の天竺蒼衣です」
 広江の紹介で蒼衣は頭を下げたが「お話した」という表現が引っかかる。さっきから含みのある師匠に、視線で疑問を投げる。しかし、広江は薄い笑みを浮かべ黙ったままだ。
 男性――万寿勝は目をぱっと見開き、口元に笑みを浮かべた。
「そうか、君が、クリスマスに助けてくれたお店の若い職人さんか」
 好々爺の笑みを浮かべた勝の言葉に、蒼衣は、口をぽかんと開けた。