パルフェを辞めてから、蒼衣はなにもできない日々を過ごした。体が動かない、なにも食べたくない。見かねた両親が半ば強引に実家に連れ戻したあとも、それは変わらなかった。
 最初こそ変わり果てた長男の姿に両親は心痛めた様子だったが、生活を共にしていれば、気持ちは風化してくるのが家族というものだ。
 日がな一日引きこもる長男を重たく感じ始める両親に、あからさまにいやがる妹。まれにのどの渇きを癒やすために冷蔵庫の前に現れれば、母親からも父親からも苦言がぼろぼろこぼれ始める。
「これからどうするの」「就活をそろそろはじめたらどう」「仕事のいやなことなんて、社会人なら誰もが感じることだ」「八代くんはきちんと就職したんでしょう」「やっぱり大学に行けばよかったんだ」「正しい道に戻らないと」
 突き刺さる言葉には、黙り込むことしかできなかった。
 
 やがて春も過ぎ、ついに八代からのメールや電話も無視するようになった。彼は春から大きな会社の営業職に就いたようで、忙しいながらも充実した日々を送っているようだ。引きこもっている自分とは対極の様子に、ますます惨めさを感じたからだった。
 夏頃になり、母親は沈黙を選んだ。父親は顔を見れば「親不孝者が」と蒼衣を罵るようになった。妹は遊び歩いて家に帰ることが少なくなった。家族のバランスがいびつになっていることに気づいてはいた。これもまた自分が呼び込んだ不幸なのだと思うと申し訳なさと同時に、動けない自分を呪った。
 途中でなんとか気分が良くなった折に、衝動的に職安に行ってみたりもしたが、用紙になにか書く際、ほんの些細な間違いの指摘だけでも自分のすべてを否定されたように感じて、怖くて行けなくなった。
 本当に些細なことなのだ。書く欄を間違えただとか、提出する窓口が違っただとか、誰にでもあるような単純な間違い。
 そして、受付の男性――特に五村と似た雰囲気の、気難しそうなひと――に、言いようのない恐怖心を抱くようにすらなった。しまいには、通りすがる赤の他人でも似たような風貌のひとを見かければ怯える始末で、結局、一回も面接すら行くことができなかった。
 そして冬がやってきた。冬の空気を感じるたびに、更に蒼衣の憂鬱は増した。布団から出られない上、なにかを無理矢理口に入れれば即座に吐き出した。長い引きこもりの間に緩やかに動きを取り戻した足も、また動かなくなってきた。
 もう無理だ、と思ったとき窓から見えたのが、オリオン座だった。
 そのときに悟った。あの空の下で死ぬべきだったのだと。
 二十一歳、十二月も下旬の頃だった。

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 雨の音で目が覚めた。
 夢で見ていたのは、引きこもっていた時期のことだった。
 厨房から飛び出して、一目散に逃げた先は自分の部屋。結んでいた髪を乱暴にほどき、電気もつけずに布団にくるまって、ひたすら気持ちが落ち着くのを待つうちに、眠り込んでしまった。
 真っ暗な部屋、布団の上で、蒼衣は考える。眠る前よりも、気持ちは幾分か落ち着いていた。ただ、夢の中で感じていた恐怖や憂鬱感は、今も蒼衣の心から消えていない。
 魔力の消えた魔法菓子と、なにもできなかった過去の自分が重なる。
 あの頃よりも、自分は少しはマシな人間になれたと思っていた。それは、魔法菓子職人になれたことや、八代とピロートを開店させたこと、八代や客の「おいしい」の気持ちが根拠になっていたはずだった。
 しかし、一歩店から出てしまえば、そんな『魔法』は消えてしまう。
 不調の原因は、すでにわかっていた。咲希の来店と催事の出店、講習会のときのショックで過去を思い出し、引きずり過ぎているせいだ。
 自分でも情けない原因なのは自覚したが、治める術を見失っている。ただただ、泣いて喚くしかできない。その弱さにまた自分がみじめに思えた。
 取り乱した原因がわかったものの、目下の問題は魔力の消えた魔法菓子。そして、八代へ見せた醜態。
「さすがにもう、見放される、よね」
 自嘲気味に笑うしかできなかった。十代や二十歳そこそこの若者ならいざ知らず、今の蒼衣は三十一歳の社会人。しかも、今の立場は、八代がいなければなし得なかったもの。
 そんな八代に見放されたら。考えるだけで辛かった。
 ではどうすればいいだろうか? 蒼衣はしばし、暗い部屋の中で考える。
 ――口をぽっかり開けた魔物と、真正面から対峙しなければならない。だれかに牙を向けるのは、もう辞めよう。それが大事なひとならば、なおさらだ。
「そう。きちんと始末はしないとね」
 せめて、問題から逃げたことの始末はつける。蒼衣は、ざんばらになっていた髪の毛をくくった。
「大人だからさ」
 せめて、少しの間でも職人としての天竺蒼衣の心持ちでいようと決心して。


 後ろめたさからか、音を立てないように勝手口を開ける。朝からそのままの作業台を通り過ぎ、店へと入り込んだ。
 入り口のシャッターを閉めているから、店の中は薄暗い。
 カウンターの中で、パイプ椅子に座ってスマホとタブレットを駆使する八代の背中があった。
 どう声をかけたらいいかわからず戸惑っていると、八代が振り向く。心臓が飛び跳ねるほどの動悸がした。
「おかえり、蒼衣」
 いつもと変わらぬ声音。それでも蒼衣の緊張は解けなかった。
 しどろもどろになっていると、八代は椅子から立ち上がり、喫茶用の棚からマグカップを二つ、取り出す。手早くコーヒーを淹れ始めるのを、蒼衣は黙って見ているしかできなかった。
 店内に立ちこめるコーヒーのふくよかな香りが、鼻をかすめる。
「よかったらどう?」
 穏やかに差し出されたマグカップを、おそるおそる受け取った。いつの間にか用意されたパイプ椅子に腰掛けるよう促された。
 時計を見ればすでに十五時も過ぎている。
「ずっと君はここに?」
「臨時休業にはしたけど、問い合わせの電話があったらと思ってね。魔法効果が出ないことは今日わかったことだから、念のため」
 八代はそこで言葉を切り、マグに口をつける。
「お互い、少しは落ち着いた、ってところかな」
 表情をゆるめ、八代は言った。責める意図はないとわかり、蒼衣は堰を切ったように話し始めた。まずは取り乱し、衝動的に逃げ出した詫びと、原因について。
 咲希の横暴に見える態度と、催事への出店への不安。パルフェのシェフが放った決めつけの言葉に、過去のトラウマを刺激をされたこと。ケーキから魔力が消えたことで、自分の存在意義も消えてしまったような気持ちになったこと。それらが重なり合って、パニックになったこと。
 子どもの言い訳のような稚拙な言葉だったが、八代は静かに「そうなんだ」「蒼衣はそう思ったんだな」「悲しかったろう」と、怒りも否定もしない相づちを打ってくれた。うまく言葉にできなかった自分の中の不安を共有してくれたことが、うれしかった。
 ひとしきり話が終わると、俺の話をしてもいいか、と前置きをされたので、うなずいた。
「今回のこと、俺も予想外で、パニクってる蒼衣見たら余裕なくなっちゃって。ごめん。ああいうとき、怒鳴ったって意味ないのはわかってるつもりだったのに。……正直、戻ってこないと思った」
「僕が?」
 そう、と八代は答えた。
「おまえのいいところはたくさんある。純粋で、真面目で、まっすぐ素直で、正直で、誠実だ。信じてるものへの愛情と信念、プライドの誇り高さは尊敬してる。俺もこんなふうに生きてみたいって思えるくらい。でも、この世の中で『大人』として生きてくときに、辛いだろうなって思うことがある。たいていの人間なら美味いもん食って寝て忘れるようなことが、いつまでもトゲのように刺さって抜けないことがあるだろうって。トゲの傷が膿んで腫れて、どうしようもなく痛いことがあるだろうって」
 前半の褒め殺しはともかく、後半は八代の言うとおりだった。
 この世界で辛いと思うことは、他の人ならやすやすと乗り越えられることで、それができない自分は欠陥品なんだろう、と常に思っている節がある。それは情けないことに、この年になっても消えてはくれない。
「一度目の就職のとき、長野の山に逃げたとき、どっちもちゃんと助けに行けなかった。俺、あんときすごく後悔したんだ。へらへら笑って就職決めて、ヨッシーにもプロポーズして、新しい仕事にワクワクして、浮かれてる最中に、大事な奴が苦しんでることに気づけなかった。だから、なるべくそばにいて、守って、支えていこう。いっそのこと一緒に店をやれば、それができるって思ってた。そんな俺が追い打ちかけるようなことして、あ、だめかもって。仕事だって育児だって、怒鳴ったところで上手く行かないこと、知ってたくせに。俺が蒼衣をつぶしたかもって。最近も、様子が変だったのに、それを聞けなかった。うまく、フォローできなかった」
 八代には似合わない、弱気な物言いだった。
 それ以上に、八代が九年前のことを今でも気にかけていること、店を一緒にやろうと思った本当の理由に、驚いていた。
「そんなこと考えてたのか、君は」
「言わなかったっけ」
 聞いてないよ、と首を横に振る。
「いい年した大人が、妻子までいるのに、なんでこんな、僕なんかに」
「前にも言っただろ、欲しいものは全部手に入れたいタイプだって」
 なにがおかしい、と言わんばかりの態度で、八代はコーヒーを舐める。
「だから、俺がおまえを手放すことはない。たとえ魔法菓子に魔力がなくなっても、部屋でベソベソ泣いてても、ハイ店やめる、友だちやめる、なんて絶対にないから。頃合いを見て、引っ張り出しにいくから」
 八代は笑う。自分の気持ちを信じて疑わず、きちんと言葉にして伝えてくれる、大事で大好きな友人。
「君って、やつは――」
 後は声にならず、涙だけがこぼれた。いつまでも自分一人で泣きわめく必要なんてなかった。今まで彼と店でやってきたように、きちんと言葉にすればいい。八代だって完璧じゃないから、怒ったり不機嫌にもなるだろう。それは誰でも当たり前のことで、その都度きちんと向き合えばいい。
「戻ってきてくれて、俺はうれしかったよ、蒼衣」
 ぼろぼろ涙を流す蒼衣の肩に、八代の手が置かれる。うん、と短く答えた。
 あの頃とは違う。信じられるひとがいる安心感と、信じてくれたという事実が、土砂降り続きだった蒼衣の心を明るく照らした。
 
 魔物の声は今だに聞こえる。中身も腐ったままだ。
 でも、それも僕だよね。蒼衣は心の中で思う。
 認めてもらいたい、誰かに必要だと言われたい。欲しがりの感情は消えてなくならない。
 大丈夫。治めるから。魔物のそばでささやけば、少しだけ叫び声が遠のいた気がした。