製菓専門学校を卒業し、蒼衣が初めて就職した店は『パルフェ』だ。
 小さい店ながらも、正統派のフランス菓子を作るパルフェにあこがれる職人志望は多く、蒼衣もその一人だった。学校での真面目な態度や熱意が通じたのか、晴れて採用。期待に胸を膨らませ、四月の本採用まで待てず、秋からアルバイトとしていち早く店の門をくぐった。
 職人の世界は蒼衣の想像していたよりも、遙かにマルチタスクが要求される場所だった。効率の良い作業の順番や、複数の職人と狭い調理場で仕事をする知恵や工夫。ルセット以外はマニュアルなどなく、職人の経験がものをいう世界だった。
 最初は、見習いということもあり、ひたすら洗い場にいるか、材料の計量で日々が過ぎていった。生真面目なところのある蒼衣にとって、先輩やシェフのあいまいな指示や、言葉の本意を察しないといけないところでうまく行かず、何度も怒られてばかり。
 おまけに技術も拙いので、自分は職人に向いていないのかもしれない、とその度悩んだが、修行の一環だと思ってやり過ごした。
 四月、正社員登用になった頃、やっと仕込みの一部に関わるようになった。ほんの少しだけでも、職人らしいことができるようになって、自身が付き始めた。
 蒼衣の運命を変える出来事が起こったのは、季節が冬になった頃だった。
 就職して一年目のクリスマス終了後、蒼衣以外の先輩や同僚がいきなり店を「ばっくれ」た。つまり、逃げたのだ。
 パルフェは小さな店だが、五村の方針でケーキの種類は多い。さまざまなメディアで取材されているおかげで知名度が高く、休日平日問わずお客がひっきりなしに来る人気店だ。作っても作ってもショーケースからケーキが消える。連日深夜まで残業は続き、週六日仕事をする先輩たちはいつも疲れた顔だった。
 蒼衣も同様だったが、当時はは若さと業界に入れたという熱でなんとか乗り切れてしまった。
 五村は「職人などそんなものだ」と言い切る体育会系の人間だった。五村は一睡もせずに仕事に来ることは珍しくなく、それでいて体調を崩すこともないという、鉄の体を持つ男である。
 先輩たちは、蒼衣という新人が入ってきたことにより「逃げよう」という気になったのだろう。思えば、入って半年くらいから「もう仕事を覚えたか」「この先頑張っていけるか」と尋ねられることが多かった。あれは共に頑張ろうという意味ではなく、生け贄にできるか判断するための質問だったのだと今ならわかる。
 当時の蒼衣は馬鹿正直に「早く覚えます」「頑張ります」と前向きに答えてしまったため、見事生け贄の判断を下されのだ。
 その結果、蒼衣は五村と二人きりで厨房を回さなくてはいけなくなった。連日早朝から深夜まで、ときには休みも返上で働く過酷な労働条件に加え、経験も技術も未熟なままの蒼衣と、根性論を信望し、感情的な五村との相性は最悪だった。
 指示はやはり蒼衣にはあいまいでわかりづらく、かといって何度も質問できる雰囲気でもなかった。
 五村の気に入らないミスをすれば機嫌は悪くなり、厨房内の空気は険悪になる。忙しい最中なら、怒りが頂点に達した五村が調理器具をこれでもかと投げつけてくるのはお決まりになりつつあった。
 それでも蒼衣は一人残された職人として、精一杯働いた。残された自分がどうにかしなければならない、そんな義務感にも駆られていた。
 たとえ、だんだんと食事がのどを通らなくなり、数少ない休日は一日眠りに落ちるだけの時間を過ごしていたとしても。深夜に突然目が覚めて訳もなく泣き出したり、帰りの車の中、エンジンすらかけずに四時間も黙りこくったままだったりしても。 
 何度か八代に連絡を取ろうか考えたが、相手は大学四年生。卒業と就職を控えて忙しいのはわかっていたし、なによりも、華々しい大学生活を送っているであろう八代と顔を合わせたくなかった。
 そして迎えた二年目のクリスマスイブ、寝不足と疲労の中仕事を終えた。しかし五村は、
「おまえがもっと使えるようになっていたら、去年と同じくらいの売り上げがあったはずだ」
 と、言い捨てられるだけだった。
 頭を殴られたような衝撃が、蒼衣に走った。
 一年間、蒼衣はできるだけのことをやってきたつもりだった。しかし、五村の望む職人にはなれなかった。これ以上、なにをどうがんばれというのだろうか。
 失意の中、蒼衣は帰りの車を走らせ、思う。――ここで車のハンドルを手放したら、楽になれるだろうか。
 頭に浮かんで消えた、ほんの数秒の出来事。気がついたときには車を電柱にぶつけていた。
 前方不注意の、衝突事故だった。
 その後のことは、あまりよく覚えていない。ただ、ぶつけた車や自分のことよりも、空にあるオリオン座がやたら輝いていたことが印象に残っている。
 きちんと仕事ができなかった。上司にほめられもしなかった。死ぬことすらかなわなかった。
 今までの自分がサラサラと音を立てて崩れてなくなっていくような感覚だった。


 まもなく、蒼衣の体に変化が起こり始めた。
 事故後の静養中、突然足がうまく動かせなくなった。医学的には健康そのものだが、精神的なものだと医者は診断した。
 そして、コックコートを見れば吐き気を催し、市販のお菓子の甘いにおいでさえ、嫌になるようになった。
 パルフェの厨房へ赴くことを、体全体が拒否しているようだった。
 そこでようやく、お菓子や仕事への情熱や執着などが、みじんも消えていることに気づいた。自分が空っぽになってしまったようなむなしさと同時に、そもそもなんの力もなかったのだと理解した。
 食べることも、動くこと、今後を考えることすらおっくうになり、部屋から出ることもできなくなった。
 ようやく様子を見に来た両親が「仕事はどうするの」と言い出したのをきっかけに、蒼衣はパルフェを退職することを決めた。一月の終わりだった。
 なんとか退職の意思を伝えると、それはあっさりと承諾された。しかし五村は、
「どうせ辞めると思った。期待外れだった」
 と、言い放っただけで、これまでの労いや優しい言葉は一切かけてくれなかった。
 美味しい菓子を作るひとが、いいひととは限らない。
 冷たい現実を今一度飲み込んだ蒼衣は、更に自己の闇に深く落ちていくことになったのだった。

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 翌日起きると、足が重かった。
 昨日はしばらく泣き続けた後、どうにも体が辛くなって部屋に駆け込み、食事も取らず風呂にも入らず、そのまま寝てしまったからかもしれない。
 泣きはらした顔もひどいもので、なんとかシャワーだけは浴びて厨房に赴いたが、気分は沈んだままだった。
 久しぶりにパルフェ時代の夢を見たからだろうか。それから数日、気持ちの重い日が続いた。
 咲希の残していった百貨店の催事の返事もする気になれず、八代が話題を出すたびにはぐらかし続けた。気持ちが重い原因はなんとなくわかってはいたが、かといってそれを解消できる術など思いつかず、口数の少ない日々を過ごした。
 時折、ヨキ・コト・キクのおばあちゃんたちに「あおちゃん、元気がないな」「きれいな顔にまたクマができとるわい」「八っちゃんになんとかしてもらえ」と言われても、あいまいな笑みを浮かべてはぐらかし続けた。
 八代は頻繁に、なにかあったか、と声をかけるが、その度に「なんでもない」とそっけなく返すことが多くなっていった。八代には心配をかけたくなかった。またパルフェがらみで落ち込んでいると知られるのが、恥ずかしかった。
 成長していない自分をさらけ出すのが、怖かった。

 事件が起きたのは、講習会から四日経った土曜日だった。
 その日は朝からまた雨で、どんよりとした空が更に蒼衣の憂鬱さを加速させていた。
 重たい体をなんとか動かし、開店前の仕込みを始める。今日は『プラネタリウム』のグラサージュかけがあるのだ。
 しかし不思議なことに、いつもならツヤの出るはずのグラサージュが、きれいなものにならない。再度、火を通してなめらかにしたり、ほんの少しだけ星のかけらを増やしてみたり、最後には一から作り直してみた。
 しかし、ツヤが出るどころか、かけると空気の穴でブツブツになり、とても商品になる代物ではない。
 あまりの不調ぶりに、蒼衣はいらだち、頭を抱える。原因が全くわからない。
 なぜ、どうして。
「あれ……?」
 そのとき、いつもならかすかに感じている魔力が、あまりにも小さいことに思い至った。
 一つの可能性が頭をよぎる。蒼衣が考えうる限り、最悪の可能性だった。
 急いで店頭のカウンターに向かうと、八代がシュークリームを試食していた。
「どうした、蒼衣?」
 毎日、当日仕上げのシュークリームは効果の確認もかねて試食することになっている。蒼衣は無言で八代に近づいた。
「なんで、まさか」
 蒼衣の声が震える。すかさずシュークリームを持つ八代の手を乱暴につかんだ。
「おい、いきなりなんだよ」
「……八代、今、なに考えてる?」
「はぁ? そんなの言わなくても、蒼衣には」
「わからないんだ」
 八代の声を遮って、蒼衣は言った。
「え?」
「君の感情が、僕に伝わってこない」
 蒼衣はゆっくりと手を離し、一歩、二歩と後ずさる。
「八代の体、浮いてないだろ」
 八代は今気づいたという雰囲気で、己の体を見た。足はしっかりと床に着いている。『ふわふわシュークリーム』は、体がセンチ単位ではあるが、宙に浮かぶ魔法効果があるはずだった。
「まさか、魔法効果が……魔力が消えてる?」
 顔をこわばらせた八代の言葉に、蒼衣は顔面蒼白になってうなずいた。


 開店するはずだったピロートのドアには『臨時休業』の張り紙が貼られた。
 店に出ているものを含め、在庫の魔法効果をできる限り確認すると、ほぼすべてのケーキから魔力が消えていた。ストックの材料からは消えていないが、朝一番で作ったはずの雲のクリームは消えていた。
「僕が作ったものから、魔力が消えているってこと、かもしれない」
「魔力がなくなるとか、あるのか」
「わからない。今までに経験がない。なんでこんなことに」
 厨房で、蒼衣は調理台に両手をつき、うつむきながら答えた。調理台の向こう側、蒼衣と向き合う形で立っている八代は、黙ったままだった。
「お菓子にすると、魔力が消える? それじゃあ魔法菓子なんかじゃない。お店として、商品として成り立たないのに!」
 蒼衣がこぼれるように出した言葉は、最後に悲鳴に近くなった。
「落ち着け、蒼衣」
「魔法菓子すら作れなくなったら、僕は本当に、だめな人間でしかなくて、ここにいられなくなるのに、なんで、魔力が……」
 脳裏に昔の記憶がぐるぐると巡る。なにもできない昔の自分にすっかり戻ってしまったようで、蒼衣は子どものように頭をかぶった。
 うわごとのように「だめなんだ」と「ごめん」を繰り返し、前後不覚に陥る。
 そのときだった。
「ああ、もう、黙って落ち着けって! おまえもいい大人だろうが!」
 怒声が響く。顔を上げれば、はっとした顔をして固まる八代がいた。自分の出した怒声に、びっくりしているようにも見えた。
 それはまた蒼衣も同じだった。この陽気な友人は、賑やかいことはあれど、むやみやたらに乱暴なことは言わないと思っていたからだった。
 蒼衣の口からうわごとが止まる。
 自分のしていたことが、彼から見たら子どものかんしゃくと変わらないことに気づいた。
「あ……」
 どうすればいいのか。頭の中が真っ白になった蒼衣は、厨房をなにも言わずに飛び出した。