桜の盛りである四月、一週目の金曜日の夜。
蒼衣は注文のデカフェコーヒーをコーヒーマシンにスタンバイさせる。その間にシュークリームに雲クリームを詰めるために厨房に戻った。作業台下の冷蔵庫から雲クリームの入った絞り袋を出して、シュー皮に詰めた。
ピロートのシュークリームは、注文をもらってからクリームを詰める。雲クリームの魔力は消えやすいからだ。
今、店内には蒼衣と、喫茶に入った女性客しかいない。八代は保育園に通う娘の恵美を迎えに行き、そのまま家で食事などの世話をしている最中だ。
隔週で妻の良子と交代しているらしく、フルタイムで働く良子が帰宅すれば、店に戻ってくる。その間、店を回すのは蒼衣一人だ。
パラフィン紙に入れたシューを小皿に乗せる。できあがったコーヒーと皿を持って、女性の席に向かった。
きっちりまとめた髪、仏頂面が近寄りがたい雰囲気を醸し出している壮年女性――金曜日の夜に現れ、シュークリーム一個とデカフェのコーヒーをテイクアウトしていく人である。
夜の常連であるその女性のお気に入りは『ふわふわシュークリーム』だ。
半月前に会社の後輩らしき女性と来店してからは、テイクアウトではなく喫茶の利用になったのが不思議だった。
「お待たせしました」
テーブルの上に、盛り付けをしたシュークリームとマグカップを置く。女性は薄くほほえんで「ありがとう」と言った。
(あれ、このお客様)
女性の表情や雰囲気が以前と変わっていることに気づいた蒼衣は、思わず注視してしまう。すると、不思議そうな顔をした女性と目が合った。
「あっ、大変申し訳ありません。失礼かと思いましたが、以前と雰囲気が少し変わられたので。なにか、よいことがありましたか?」
女性は蒼衣の言葉に、少し驚いた顔になった。
「そういえば、あなたが勧めてくれたのよね、このシュークリームは」
「覚えていてくださり、恐縮です」
この女性が初めて来店したとき、ひどく憂鬱な気持ちが伝わってきたのだった。暗く、どこか八方ふさがりで苦しそうな彼女がいたたまれなくて、シュークリームを勧めた。少しでも、気持ちが軽くなるようにと。
「普段使いの魔法菓子ってどんなものか、想像ができなくて。だから、初めて食べたときは驚いちゃった。しかも、とても美味しいクリーム。軽いのに、カスタードの味がしっかりしてて、私の好みだった。あえて皮がやわらかいのも、懐かしい感じでいいわね」
「ありがとうございます」
「味も好きなんだけど、あのシュークリームを食べて宙に浮いていると、なんだか気持ちが軽くなる気がするの。ちょうどあのときは、仕事で悩んでることがあって、それでずいぶんいやな顔になってたんだと思う。雰囲気、変わったのかしら」
「ええ、とても優しいお顔です」
「ありがとう。でも不思議ね、まるで私の気持ちがわかってて、シュークリームを勧められた気がするけど、気のせいかしら」
探るような女性の視線に、そうですね、と蒼衣はあいまいに笑みを浮かべた。こうして笑うと、大概の人はこれ以上追求することをやめることを蒼衣は経験で知っている。
「甘いお菓子は、休息に向いていますから。少しでもお役に立てたのなら光栄です」
それから女性は、新しく入った事務の人と試行錯誤しながら仕事をしていることを話しはじめた。憂鬱な気持ちは、それが原因だったらしい。
「あのとき、会社から自分のせいで従業員が辞めてるって言われて、どうすればいいかわからなかった。今までのやりかたではだめだと言われて、でも、こんな年でどうすればいいって戸惑ってたところだったの。突然すりよっても、気持ち悪がられそうだったし、なにより自分らしくなくて、いやだった」
打ち解けたのは、公園でシュークリームを食べて浮かんでるところを見られたのがきっかけだったと、浮きながら笑った。
しかし女性は、ふっと表情を戻した。自嘲気味の顔に、蒼衣は少しどきりとする。
「――私は、きっかけがほしかったのかもしれない。食べるだけなら家でもここでもよかったはずなのに、職場の近くの公園で食べ続けた。もしかしたら、あの子が見つけてくれるかもしれないって。そしたら、もう少し近づけるかもしれない。大人げないのはわかってたのに、そんな方法しか、思いつかなかった」
女性は変な人よね、と笑う。しかし蒼衣は、首を横に振った。
「変でも、大人げなくても、行動できた人のほうが、僕はすてきだと思います。仕事だと割り切っても、人間関係は存外、難しいものかと」
「ありがとう、その通りね」
蒼衣の言葉に、女性は静かに答えた。次いで、あなたも、となにかを言いかけたが、すぐに思い直したようにかぶりを振った。蒼衣は薄くほほえむだけでそれを受け止める。
「お客様、雲のクリームの魔力は揮発性が高いので、よろしければそろそろ」
一呼吸置いて、蒼衣はシュークリームを勧める。女性もああ、と気づいた顔になった。
「ごめんなさい、仕事中に引き留めてしまって。あなたとお話できて良かったわ、パティシエさん」
「とんでもないことです。僕も、お客様とお話ができてよかったです。どうぞごゆっくり、お過ごしくださいませ」
心から、女性が穏やかな日常を過ごせますようにと願いを込めて、蒼衣は頭を下げた。きっとそれが今の自分にできることだと信じて。
その後、女性はゆっくりと時を過ごしたらしかった。伝わってきた気持ちは、リラックスした、心安らかなものだったからだ。蒼衣はそれを感じたあと、すぐに仕込みに戻った。
誰かを救えた、誰かの苦しみを溶かせた。そんな小さな達成感を感じていた。
しばらくして、女性が呼び鈴をならした。厨房にいた蒼衣が店先に戻る。会計をするために財布を手にした女性が、「一つおたずねしても?」と口を開いた。
「あなた、名古屋の『パルフェ』っていうお店で修行されていなかった?」
パルフェ、という言葉に、蒼衣のレジを打つ手が止まった。
一瞬、心臓を掴まれた心地になる。ひゅっと息をのむ。沈黙が流れた。
「シューのカスタードの味や食感が、そこのお店と似ている気がして。間違っていたらごめんなさい」
「……昔、少しだけお世話になったことがあります」
脂汗をにじませながら、かろうじて絞り出したのはそんな言葉だった。店員にあるまじき態度だったが、女性の顔を見ることさえできなかった。なんとか指を動かし、レジを操作する。
女性は「そうなの」と納得したようにうなずき、それ以上は尋ねてこなかった。
お会計を済ませ、女性を見送った後、蒼衣は力なく作業台にもたれかかる。
――パルフェとは、名古屋市にある有名なフランス菓子店の名前だ。そこは十年前、蒼衣が初めて就職した店であり、九年前の冬に自動車事故を起こすまで勤めていた店だった。
蒼衣の頭に浮かぶのは、朝早くから夜遅くまで働いていた十年前の記憶。飛んでくるオーナーシェフの怒声だった。
――どうしてこんな単純なミスをする、もっと手際よくしろ、仕事が遅すぎる、なんでこんなことを覚えられないんだ、普通に考えればわかることだ、何度もやらせているのにどうして下手になっていくんだ、おまえがもっと使える人間なら、俺はこんな苦労はしない、どうせおまえは、辞めると思ったよ、期待外れだ――。
脳裏に勝手に響いてくる声に、体が萎縮する。最近は、思い出すことはなかったのに。いつの間にか震えだした右手を、左手で押さえる。こんなに動揺してどうする、と自分に言い聞かせようとした。
「お客さんが、くるかも、しれないんだぞ」
声に出せば少しはマシになるかもしれなかった。しかしその声はかすれていて、心許ない。
「とにかく、仕事を」
喫茶の机を片付けようと動く。しかし、頭の中でのフラッシュバックは消えない。今度は仕事を辞めた後の空白期間――部屋に引きこもり、寝る以外の行動を取らなかった時期――すら思い出した。親からの干渉も世間の目も怖くて仕方なかった。自分の体すら満足に管理できなくなっていた。だから、自分は世界で一番いらない人間なんだと思っていた。
それを振り払うように、蒼衣は心の中で独白し続けた。僕はもう、あの店を辞めた。僕は、魔法菓子職人なんだ。優しく頼れる師に出会って、一緒に店をやろうと言ってくれた親友がいて。だから僕はここで、必要とされているはず。そう繰り返し心の中で叫ぶ。
しかし、どこかでそれを冷静に見つめる自分が現れた。
『同じ味のクレーム・パティシエールなんか作って、未練がましいね』
『辞めたことを後悔してる? 上手く働けなかったくせに。この、出来損ない』
『今だって、八代が助けてくれるから社会生活ができていることを忘れたのか? 魔法菓子が作れるから傍に置いているだけかもしれないぞ? 彼がいなければ、おまえはいつまでもだめな人間のままなんだ』
手を伸ばしたマグカップが傾き、派手な音を立てて砕けた。ほんの少しのきっかけで壊れてしまう。それは過去の自分そのもののようで、今の蒼衣はそれを呆然と見つめることしかできなかった。
「ただいま~。あれ、蒼衣は? ど、どうしたの、それ」
はっとして顔を上げる。八代が戻ってきたのだった。その声に心底、安堵する。
「大丈夫か、誰も怪我しなかったか?」
ごめん、と言う前に、八代が心配そうに尋ねた。
「だ、大丈夫。お客さんが帰った後、僕が一人で落として割っただけだから。ごめんよ」
そんなの大丈夫だって、と優しく言う八代は、手際よく掃除道具入れからホウキとちりとりを手にして片付けをし始めた。
「蒼衣が怪我したら店やれなくなっちゃうからな、俺がやっとくよ。そうだ、店先へ閉店のプレート出すの、やってもらってもいい?」
「え、あ、もうそんな時間なの?」
営業時間に戻ってこれなくてごめんな、といいつつ、八代はさっさと破片を片付けてしまっていた。蒼衣も慌てて店先に向かい、プレートを『閉店』に変える。
店の中に戻れば、八代はカウンターの中で閉店作業を始めていた。すでにショーケースのケーキはばんじゅうに戻されている。 レジも売り上げレポートのレシートが印刷されていて、作業机の上には、八代が店の経営に使うタブレットに、売り上げデータが表示されている。八代はいつも通りに処分予定のケーキに手を伸ばし、食べようとしていた。
低く流れるボサノヴァのBGM、バターと砂糖と、シリコンシートの焼けた独特の香り、暖色系の照明。目指していた『町のお菓子屋さん』。
普段と変わらない店の様子。しかし、蒼衣はふと、ここに自分がいていいのか、不安になった。
「あのさ、八代」
「んあ?」
「僕の作ったケーキ、おいしいと思う?」
いくらなんでも口が滑りすぎた。しまった、と手を口にやるが、取り消す言葉は頭にひとかけらも浮かばない。
実に情けない問いかけだ。質問というよりは、縋っている体《てい》に近いし、なにより普通の大人はこんなことを言わないだろう。しかも、言わなくても食べれば『伝わってくる』ことを知っているくせに。なんて浅ましい。
これじゃあ、不機嫌で誰かをコントロールする昔の自分と同じじゃないか――理性が叫んでいる。
八代はきょとんとした顔で蒼衣を見ていた。なにを馬鹿なことを、と罵られるのも怖くなって「変なこと聞いた、忘れて」とごまかそうとしたそのときだった。
「なんだなんだ、変なクレーマーでもきたのか? そういうのは情報共有してくれないと困るんだぜ、パティシエくん」
「いや、そういうことじゃなくて」
決してあのお客様がクレーマーというわけではない。ただ単に、疑問に思ったことを訊いた、それだけのことだろう。むしろ、半年近く通い続けてくれている彼女は、クレーマーとはほど遠い存在だ。
すべての原因は自分にしかない。十年がかりでしっかりとふたをしてきたつもりだった記憶と後悔が、たかだか店の名前一言だけでぐちゃぐちゃにあふれ出ているだけなのだ。最悪なことに、今の蒼衣はそれを片付ける方法を知らない。
八代はふーん、と意味ありげにつぶやいて、カウンターから出てきた。そして、店の真ん中で立っていたままの蒼衣の周りをゆっくりと歩き、さまざまな角度から眺めた。まるで探偵が事件のヒントを探すような、滑稽な様子だった。
「なあ蒼衣、この街にも隣の街にも、たくさんのお菓子屋がある。それぞれ自分たちの一番だ、って思うものを売ってるはずだ。なにを言われたのかは知らんが、俺が信じてるのは他でもない、天竺蒼衣の魔法菓子だ。そうじゃなけりゃ、脱サラして自営やろうなんて思わないよ」
八代は穏やかに言った。同い年のはずなのに、蒼衣よりもはるかに成熟した余裕を感じられた。
「……お見通しなんだね、ごめん」
蒼衣は恥ずかしくもあり、申し訳なくも思った。しかし同時に、東八代という男の心の広さを、改めて感じた。
「そんな日もあるよな、いろんなお客もくるだろうし。魔法菓子だからって明後日の方向のいちゃもんつけてくる『たわけ』な客もおるでよ~」
「なんで最後だけ名古屋弁なのさ」
「たまには使わないと忘れそうで」
「君、生粋の名古屋人じゃないよね?」
「へいへい、生まれも育ちも彩遊市ですよう」
蒼衣の口から笑いが漏れた。先ほどまで蒼衣を襲っていた不安が、どこかに引っ込んでしまったように思えた。
『たわけ』は標準語で『馬鹿』や『アホ』の意味を持つこの地方の方言だ。同じ愛知県でも西三河地方出身の蒼衣はあまり使わない言葉ではあるが、意味はわかる。
「結論。おまえのお菓子は美味い! 覚えておいてくれたまえよ、パティシエくん」
「ありがとう、八代」
たわけは僕のほうだったね、と心の中だけでつぶやいた。
蒼衣は注文のデカフェコーヒーをコーヒーマシンにスタンバイさせる。その間にシュークリームに雲クリームを詰めるために厨房に戻った。作業台下の冷蔵庫から雲クリームの入った絞り袋を出して、シュー皮に詰めた。
ピロートのシュークリームは、注文をもらってからクリームを詰める。雲クリームの魔力は消えやすいからだ。
今、店内には蒼衣と、喫茶に入った女性客しかいない。八代は保育園に通う娘の恵美を迎えに行き、そのまま家で食事などの世話をしている最中だ。
隔週で妻の良子と交代しているらしく、フルタイムで働く良子が帰宅すれば、店に戻ってくる。その間、店を回すのは蒼衣一人だ。
パラフィン紙に入れたシューを小皿に乗せる。できあがったコーヒーと皿を持って、女性の席に向かった。
きっちりまとめた髪、仏頂面が近寄りがたい雰囲気を醸し出している壮年女性――金曜日の夜に現れ、シュークリーム一個とデカフェのコーヒーをテイクアウトしていく人である。
夜の常連であるその女性のお気に入りは『ふわふわシュークリーム』だ。
半月前に会社の後輩らしき女性と来店してからは、テイクアウトではなく喫茶の利用になったのが不思議だった。
「お待たせしました」
テーブルの上に、盛り付けをしたシュークリームとマグカップを置く。女性は薄くほほえんで「ありがとう」と言った。
(あれ、このお客様)
女性の表情や雰囲気が以前と変わっていることに気づいた蒼衣は、思わず注視してしまう。すると、不思議そうな顔をした女性と目が合った。
「あっ、大変申し訳ありません。失礼かと思いましたが、以前と雰囲気が少し変わられたので。なにか、よいことがありましたか?」
女性は蒼衣の言葉に、少し驚いた顔になった。
「そういえば、あなたが勧めてくれたのよね、このシュークリームは」
「覚えていてくださり、恐縮です」
この女性が初めて来店したとき、ひどく憂鬱な気持ちが伝わってきたのだった。暗く、どこか八方ふさがりで苦しそうな彼女がいたたまれなくて、シュークリームを勧めた。少しでも、気持ちが軽くなるようにと。
「普段使いの魔法菓子ってどんなものか、想像ができなくて。だから、初めて食べたときは驚いちゃった。しかも、とても美味しいクリーム。軽いのに、カスタードの味がしっかりしてて、私の好みだった。あえて皮がやわらかいのも、懐かしい感じでいいわね」
「ありがとうございます」
「味も好きなんだけど、あのシュークリームを食べて宙に浮いていると、なんだか気持ちが軽くなる気がするの。ちょうどあのときは、仕事で悩んでることがあって、それでずいぶんいやな顔になってたんだと思う。雰囲気、変わったのかしら」
「ええ、とても優しいお顔です」
「ありがとう。でも不思議ね、まるで私の気持ちがわかってて、シュークリームを勧められた気がするけど、気のせいかしら」
探るような女性の視線に、そうですね、と蒼衣はあいまいに笑みを浮かべた。こうして笑うと、大概の人はこれ以上追求することをやめることを蒼衣は経験で知っている。
「甘いお菓子は、休息に向いていますから。少しでもお役に立てたのなら光栄です」
それから女性は、新しく入った事務の人と試行錯誤しながら仕事をしていることを話しはじめた。憂鬱な気持ちは、それが原因だったらしい。
「あのとき、会社から自分のせいで従業員が辞めてるって言われて、どうすればいいかわからなかった。今までのやりかたではだめだと言われて、でも、こんな年でどうすればいいって戸惑ってたところだったの。突然すりよっても、気持ち悪がられそうだったし、なにより自分らしくなくて、いやだった」
打ち解けたのは、公園でシュークリームを食べて浮かんでるところを見られたのがきっかけだったと、浮きながら笑った。
しかし女性は、ふっと表情を戻した。自嘲気味の顔に、蒼衣は少しどきりとする。
「――私は、きっかけがほしかったのかもしれない。食べるだけなら家でもここでもよかったはずなのに、職場の近くの公園で食べ続けた。もしかしたら、あの子が見つけてくれるかもしれないって。そしたら、もう少し近づけるかもしれない。大人げないのはわかってたのに、そんな方法しか、思いつかなかった」
女性は変な人よね、と笑う。しかし蒼衣は、首を横に振った。
「変でも、大人げなくても、行動できた人のほうが、僕はすてきだと思います。仕事だと割り切っても、人間関係は存外、難しいものかと」
「ありがとう、その通りね」
蒼衣の言葉に、女性は静かに答えた。次いで、あなたも、となにかを言いかけたが、すぐに思い直したようにかぶりを振った。蒼衣は薄くほほえむだけでそれを受け止める。
「お客様、雲のクリームの魔力は揮発性が高いので、よろしければそろそろ」
一呼吸置いて、蒼衣はシュークリームを勧める。女性もああ、と気づいた顔になった。
「ごめんなさい、仕事中に引き留めてしまって。あなたとお話できて良かったわ、パティシエさん」
「とんでもないことです。僕も、お客様とお話ができてよかったです。どうぞごゆっくり、お過ごしくださいませ」
心から、女性が穏やかな日常を過ごせますようにと願いを込めて、蒼衣は頭を下げた。きっとそれが今の自分にできることだと信じて。
その後、女性はゆっくりと時を過ごしたらしかった。伝わってきた気持ちは、リラックスした、心安らかなものだったからだ。蒼衣はそれを感じたあと、すぐに仕込みに戻った。
誰かを救えた、誰かの苦しみを溶かせた。そんな小さな達成感を感じていた。
しばらくして、女性が呼び鈴をならした。厨房にいた蒼衣が店先に戻る。会計をするために財布を手にした女性が、「一つおたずねしても?」と口を開いた。
「あなた、名古屋の『パルフェ』っていうお店で修行されていなかった?」
パルフェ、という言葉に、蒼衣のレジを打つ手が止まった。
一瞬、心臓を掴まれた心地になる。ひゅっと息をのむ。沈黙が流れた。
「シューのカスタードの味や食感が、そこのお店と似ている気がして。間違っていたらごめんなさい」
「……昔、少しだけお世話になったことがあります」
脂汗をにじませながら、かろうじて絞り出したのはそんな言葉だった。店員にあるまじき態度だったが、女性の顔を見ることさえできなかった。なんとか指を動かし、レジを操作する。
女性は「そうなの」と納得したようにうなずき、それ以上は尋ねてこなかった。
お会計を済ませ、女性を見送った後、蒼衣は力なく作業台にもたれかかる。
――パルフェとは、名古屋市にある有名なフランス菓子店の名前だ。そこは十年前、蒼衣が初めて就職した店であり、九年前の冬に自動車事故を起こすまで勤めていた店だった。
蒼衣の頭に浮かぶのは、朝早くから夜遅くまで働いていた十年前の記憶。飛んでくるオーナーシェフの怒声だった。
――どうしてこんな単純なミスをする、もっと手際よくしろ、仕事が遅すぎる、なんでこんなことを覚えられないんだ、普通に考えればわかることだ、何度もやらせているのにどうして下手になっていくんだ、おまえがもっと使える人間なら、俺はこんな苦労はしない、どうせおまえは、辞めると思ったよ、期待外れだ――。
脳裏に勝手に響いてくる声に、体が萎縮する。最近は、思い出すことはなかったのに。いつの間にか震えだした右手を、左手で押さえる。こんなに動揺してどうする、と自分に言い聞かせようとした。
「お客さんが、くるかも、しれないんだぞ」
声に出せば少しはマシになるかもしれなかった。しかしその声はかすれていて、心許ない。
「とにかく、仕事を」
喫茶の机を片付けようと動く。しかし、頭の中でのフラッシュバックは消えない。今度は仕事を辞めた後の空白期間――部屋に引きこもり、寝る以外の行動を取らなかった時期――すら思い出した。親からの干渉も世間の目も怖くて仕方なかった。自分の体すら満足に管理できなくなっていた。だから、自分は世界で一番いらない人間なんだと思っていた。
それを振り払うように、蒼衣は心の中で独白し続けた。僕はもう、あの店を辞めた。僕は、魔法菓子職人なんだ。優しく頼れる師に出会って、一緒に店をやろうと言ってくれた親友がいて。だから僕はここで、必要とされているはず。そう繰り返し心の中で叫ぶ。
しかし、どこかでそれを冷静に見つめる自分が現れた。
『同じ味のクレーム・パティシエールなんか作って、未練がましいね』
『辞めたことを後悔してる? 上手く働けなかったくせに。この、出来損ない』
『今だって、八代が助けてくれるから社会生活ができていることを忘れたのか? 魔法菓子が作れるから傍に置いているだけかもしれないぞ? 彼がいなければ、おまえはいつまでもだめな人間のままなんだ』
手を伸ばしたマグカップが傾き、派手な音を立てて砕けた。ほんの少しのきっかけで壊れてしまう。それは過去の自分そのもののようで、今の蒼衣はそれを呆然と見つめることしかできなかった。
「ただいま~。あれ、蒼衣は? ど、どうしたの、それ」
はっとして顔を上げる。八代が戻ってきたのだった。その声に心底、安堵する。
「大丈夫か、誰も怪我しなかったか?」
ごめん、と言う前に、八代が心配そうに尋ねた。
「だ、大丈夫。お客さんが帰った後、僕が一人で落として割っただけだから。ごめんよ」
そんなの大丈夫だって、と優しく言う八代は、手際よく掃除道具入れからホウキとちりとりを手にして片付けをし始めた。
「蒼衣が怪我したら店やれなくなっちゃうからな、俺がやっとくよ。そうだ、店先へ閉店のプレート出すの、やってもらってもいい?」
「え、あ、もうそんな時間なの?」
営業時間に戻ってこれなくてごめんな、といいつつ、八代はさっさと破片を片付けてしまっていた。蒼衣も慌てて店先に向かい、プレートを『閉店』に変える。
店の中に戻れば、八代はカウンターの中で閉店作業を始めていた。すでにショーケースのケーキはばんじゅうに戻されている。 レジも売り上げレポートのレシートが印刷されていて、作業机の上には、八代が店の経営に使うタブレットに、売り上げデータが表示されている。八代はいつも通りに処分予定のケーキに手を伸ばし、食べようとしていた。
低く流れるボサノヴァのBGM、バターと砂糖と、シリコンシートの焼けた独特の香り、暖色系の照明。目指していた『町のお菓子屋さん』。
普段と変わらない店の様子。しかし、蒼衣はふと、ここに自分がいていいのか、不安になった。
「あのさ、八代」
「んあ?」
「僕の作ったケーキ、おいしいと思う?」
いくらなんでも口が滑りすぎた。しまった、と手を口にやるが、取り消す言葉は頭にひとかけらも浮かばない。
実に情けない問いかけだ。質問というよりは、縋っている体《てい》に近いし、なにより普通の大人はこんなことを言わないだろう。しかも、言わなくても食べれば『伝わってくる』ことを知っているくせに。なんて浅ましい。
これじゃあ、不機嫌で誰かをコントロールする昔の自分と同じじゃないか――理性が叫んでいる。
八代はきょとんとした顔で蒼衣を見ていた。なにを馬鹿なことを、と罵られるのも怖くなって「変なこと聞いた、忘れて」とごまかそうとしたそのときだった。
「なんだなんだ、変なクレーマーでもきたのか? そういうのは情報共有してくれないと困るんだぜ、パティシエくん」
「いや、そういうことじゃなくて」
決してあのお客様がクレーマーというわけではない。ただ単に、疑問に思ったことを訊いた、それだけのことだろう。むしろ、半年近く通い続けてくれている彼女は、クレーマーとはほど遠い存在だ。
すべての原因は自分にしかない。十年がかりでしっかりとふたをしてきたつもりだった記憶と後悔が、たかだか店の名前一言だけでぐちゃぐちゃにあふれ出ているだけなのだ。最悪なことに、今の蒼衣はそれを片付ける方法を知らない。
八代はふーん、と意味ありげにつぶやいて、カウンターから出てきた。そして、店の真ん中で立っていたままの蒼衣の周りをゆっくりと歩き、さまざまな角度から眺めた。まるで探偵が事件のヒントを探すような、滑稽な様子だった。
「なあ蒼衣、この街にも隣の街にも、たくさんのお菓子屋がある。それぞれ自分たちの一番だ、って思うものを売ってるはずだ。なにを言われたのかは知らんが、俺が信じてるのは他でもない、天竺蒼衣の魔法菓子だ。そうじゃなけりゃ、脱サラして自営やろうなんて思わないよ」
八代は穏やかに言った。同い年のはずなのに、蒼衣よりもはるかに成熟した余裕を感じられた。
「……お見通しなんだね、ごめん」
蒼衣は恥ずかしくもあり、申し訳なくも思った。しかし同時に、東八代という男の心の広さを、改めて感じた。
「そんな日もあるよな、いろんなお客もくるだろうし。魔法菓子だからって明後日の方向のいちゃもんつけてくる『たわけ』な客もおるでよ~」
「なんで最後だけ名古屋弁なのさ」
「たまには使わないと忘れそうで」
「君、生粋の名古屋人じゃないよね?」
「へいへい、生まれも育ちも彩遊市ですよう」
蒼衣の口から笑いが漏れた。先ほどまで蒼衣を襲っていた不安が、どこかに引っ込んでしまったように思えた。
『たわけ』は標準語で『馬鹿』や『アホ』の意味を持つこの地方の方言だ。同じ愛知県でも西三河地方出身の蒼衣はあまり使わない言葉ではあるが、意味はわかる。
「結論。おまえのお菓子は美味い! 覚えておいてくれたまえよ、パティシエくん」
「ありがとう、八代」
たわけは僕のほうだったね、と心の中だけでつぶやいた。