「大滝さん?」
 大滝が事務室に来ることは少ない。なぜここに来たのか聞く前に、大滝は理恵の隣のデスクに座り、パソコンを操作し始めた。
「私、人手がないときは事務作業もやってたの。在庫発注やっとくわね」
 有無を言わせぬ態度に、理恵は流されるままにうなずいた。


「終わった……」
 十八時、放心状態の理恵はつぶやいた。結局、在庫発注だけではなく、受注の半分も大滝にやってもらった。
「大滝さん、ありがとうございました。とても助かりました」
「いいのよ」
 大滝は、いつものように口をへの字にしながら言った。次いで、じっと理恵を見る。なにかお小言を言われるのだろうかと、理恵は緊張して待ち構えた。
 しかし。
「高坂さんって、甘いものは好きだったかしら」
「……へ?」
 予想外の言葉に、理恵はぽかんと口をあけた。
「甘いもの、ですか?」
 大滝は「洋菓子とか好きかしら」と小首をかしげる。普段の冷静な大滝とは違うお茶目な様子に、理恵は初めて親しみを抱いた。
「甘いものは、好きです」
 しかし、いったいどうしてそんな話をされるのかわからない。あからさまに困惑していると、大滝はどこか気恥ずかしそうな様子になった。
「近所に、おいしいお菓子屋があるの。金曜だけは遅くまでやってるから、今からそこに行こうと思って。高坂さん、一緒にどうかしら」
 そう話す大滝は、まるで、思春期の娘に意を決して話しかける父親の様子にも似ていた。
 普段とは違う様子の大滝が珍しく感じたそのとき、理恵はようやく思い出した。公園で浮かんでいた、大滝らしき人物のことだ。
 あれは本当に大滝なのだろうか。確かめたい、という欲求が理恵の中で生まれた。
「その前に、一つおたずねしたいことがあります。一か月前、帰りに、近くの公園で宙に浮かぶ大滝さんを見かけました」
 理恵の言葉に、常に仏頂面のはずの大滝の目が見開かれた。この反応で、あれが幻覚ではないことが分かった。
「あれがなにか教えてくださるのなら、ご一緒します」
 駆け引きみたいな自分の物言いに、理恵は少し緊張していた。しかも、相手はあの大滝である。他人にここまで干渉するなんて、めったにないことだからだ。
「いつかは誰かに見られるかなって思ってたんだけど。そっか、高坂さんか」
 そして大滝は、への字の口をかすかにゆがませて笑った。
「まさに行こうとしてるお店に、それがあるの」


 ありふれた地方都市の静かな住宅街を、大滝と二人して歩いていく。明日は晴れますかね、なんていうお天気の話をしながら進んでいくと、大滝は曲がり角にあるビルの前で立ち止まった。
 三階建ての小さなビルの一階部分に、あたたかな灯りのともる店があった。看板には『魔法菓子店 ピロート』と書かれている。
「お店って、魔法菓子のお店なんですか? こんな住宅街の中にあるなんて」
「半年前くらいに開店したの」
 慣れた様子で入る大滝の後についていった。入った瞬間、お菓子屋特有の甘い香りが鼻をくすぐる。
 クリーム色に塗られた壁、柔らかな色合いの木、内装の差し色に使われているのはパステルブルー。平日の夜だったが、ショーケースにはおいしそうな生ケーキが飾られている。ケースの上には、シュークリームの皮が山のように積まれている。右側の壁際には焼き菓子が所狭しと並んでいる。
 左側には、小さいが喫茶スペースも設けられていた。
 いかにも小さな「町のケーキ屋さん」といった風情だ。魔法菓子はホテルや百貨店、結婚式などの式典で使われる高級なものだと思っていた理恵は、カジュアルな雰囲気に驚いていた。
「いらっしゃいませ」
 ショーケースの向こう側にある扉から出てきたのは、パティシエの男性だった。きっちりと帽子をかぶり、大滝と理恵に向けてやわらかい笑顔を浮かべる。声を聴いていなければ、女性と間違えそうな整った顔立ちだ。
「今日はここで食べていきたいのだけど、いいかしら」
「承知いたしました」
 パティシエに話しかける大滝は、仏頂面のままだが、声音が少しやわらかい。
 お飲み物のメニュー表です、とパティシエが差し出すのを受け取った。コーヒー、紅茶、加賀棒茶、オレンジジュース、リンゴジュースの中で迷っていると、大滝はメニューも見ないで注文をしていた。
「私は『ふわふわシュークリーム』一つに、デカフェ(カフェインレス)のコーヒーを」
「じゃあ、私もそれで」 
 生ケーキも魅力的だったが、これを食べた後に夕飯が食べられないのも困る。それに、こういう時は先輩と同じものを頼むのが無難だし、夜にはカフェインを控えておくほうがいいだろう。
 パティシエに「お好きなお席でお待ちください」と促され、二人は喫茶スペースの一番奥の席に座った。
 簡素な作りだと思った椅子は高さもちょうどよく、意外にかけ心地がいい。ふと見上げた天井は高く、小さな店なのに解放感があった。
「私、魔法菓子なんて久しぶりです」
「なかなか普段使いはしないものだしね。でも、ここはおやつ感覚のものがメインなの」
 向かい合って座る大滝は、会社のときよりもやわらかい印象がする。苦手だと思っていたのが、うそのようだった。
 しばらくすると、お待たせいたしました、とパティシエがコーヒーの香りをまとってやってきた。
 パティシエが持っているカフェトレイの上には、紙に包まれたシュークリームと、小さなマドレーヌとシャーベット。そして大ぶりのマグカップ。
 パティシエと目が合う。
「お客様、当店のお菓子は初めてですか?」と尋ねられたので、理恵はうなずいた。
「では、シュークリームをお召し上がりになる際は、天井にお気を付けください。浮かびますので」
「浮かぶ?」
 パティシエの言葉に、目を丸くする。
(浮かぶ? シュークリームが? それとも、まさか自分の体が?)
 考えを巡らせていると「ご説明いたします」とパティシエが言った。 
「これは、雲のクリームを入れたシュークリームです。食べると体がふわっと浮きます。ほんの数センチ浮く程度に調節はしてあるのですが、稀に魔力との相性の関係で強く作用する方もいらっしゃいます。お出ししたコーヒーは、魔力を緩和する作用がありますから、ご安心ください」
 流れるようなパティシエの説明を聞き、やっと合点がいった。天井が高いのは、雰囲気づくりもあるのだろうが、そういった魔法効果への対策でもあったのだ。
「少しでも楽しんでいただければ幸いです。では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
 そう言い残すと、パティシエはカウンターの向こうに入っていった。
 改めて、皿の上を見た。拳よりは少し小さめの、かじりつくにはちょうどよいサイズだ。
「あの、まさか、これが」
「そう。私が浮いていたのは、これを食べてたからよ」
 見た目はおいしそうなシュークリームそのもの。本当にこれでひとの体が浮くのだろうか、と、理恵はいまいち信じられない。しかし、好奇心に急かされるままかぶりついた。
 とろり、と口の中にあふれるのは、甘くなめらかなクリームだ。カスタードの濃厚な味と、舌ですっと溶けるやわらかさと、どちらも感じられる。シュー皮も、流行りのクッキーシューとは違う、どこか懐かしいやわらかさ。クリームとともに咀嚼すれば、バニラの甘い香りも相まって、疲れた脳や体全体に、力が行き渡るようだ。
「おいしい」
 しみじみ味わっていると、急にお尻の辺りにクッションが挟まれたような感触を覚えた。
「え、えっ?」
 気づけば、理恵の体が椅子の上で浮いていた。説明も聞いていたのに、信じ切れていなかったのかもしれない。急に、非現実的な世界に来てしまったような気分になった。
 しかし目の前には、仏頂面の大滝が同じように浮いている。これは紛れもない現実だ。
「初めてだとびっくりするわね。コーヒー、飲んでみたら?」
 砂糖やミルクは入れるの? と聞かれ、とっさに「ハイ」と答える。大滝はマグカップのそばに置かれた砂糖とミルクを入れたあと、理恵が手に取りやすい位置に置きなおした。
 デカフェなのに、しっかり香りも味もあるコーヒーだった。すると、ふわふわ浮かんでいた体が静かに降りていき、ぺたん、とお尻が椅子に着地する。理恵は、夢見心地な様子で息を吐きだした。
「本当に浮くんですね、これ」
 再び口にすれば、やはり浮いた。今度は慣れてきたのか、浮遊感を楽しめる余裕も出てきた。
「仕事で疲れたとき、これを一人で食べるのが好きなの。これで答えになった?」
 幻覚でもなければ、超常現象でもなかった。ただ単に、魔法菓子を食べていただけだったのだ。どこかつっかえが取れたような、そんな気分になった。
「はい」と答えると、大滝は「ならよかった」というだけだった。
 

「大滝さん。改めて、今日はありがとうございました。手伝ってくれなかったら、全部終わりませんでした」
 サービスで付いてきたであろうマドレーヌとシャーベットを味わった後、理恵は今日助けてもらったことについて、お礼の気持ちを伝えた。
「そんな大げさなことじゃない」
 と、大滝は言った。
「高坂さん、入ったばかりなのに、大変な状況になっちゃって。あんなの、だれだって一人で全部こなせないから。奥さんに言っとくわ。しばらく私も事務作業していいかって」
「えっ? でも、出荷検査の仕事は」
「事務で図面が用意できなきゃ製品も上がってこないし、製造部から人を寄こすわけにもいかないし。一応、私、この会社に三十年いる古株よ、相談してみる。……神山さんが辞めたの、私が原因だし」
「それは」
 そうですとは、やはりこの雰囲気でも言い出せない。言葉を濁すと、大滝は「わかってるの」と自嘲気味に言った。
「ごめんね、困らせるようなこと言って。私、こんな感じでしょ。神山さんみたいに、今までも何人か辞めちゃってるの。恥ずかしいけど、私のこういう態度が、仕事する上でよくないって、最近になってやっと気づいたの。それに、あなたのミスだと思ってたことの大半が、神山さんが原因だってことを察せなかった。新人だから、っていう思い込みが招いた私のミスね。ごめんなさい」
 大滝が小さく頭を下げた。
「昔は気にならなかったの。誰がどう思っていようと、仕事さえできていればいいって。現場の男性社員は職人気質のひとが多いし、私も細やかな性格でもないし。でもこの十年、つぎつぎ事務の人が辞めていくから、おかしいってなって。原因を探っていったら、どうやら私の態度が良くないっていうことがわかった。仕事のことだから、なんとか改善してみようと思ったの。でも、態度を変えるのはとても難しくて。神山さんとも、あまり友好的にはなれなかった。難しいわね、他人と働くのって」
 大滝がシュークリームを口にする。ふわり、と浮かび、遠い目をした。
 最後の一言が、理恵の心に突き刺さった。『難しい』と理恵が感じていたひとも、同じように難しいと考えていたのだ。
「私も、正直なところ、大滝さんのことは苦手でした」
 おずおずと大滝を見る。大滝は理恵を見ないまま「そうよね」と静かに答える。
 気まずさから、理恵もシュークリームを口にする。ふわりと体が浮かぶと、大滝と目が合った。
「私、今まで、人間関係で上手くいかなくて、職場を転々としてました。どうやって歩み寄ればいいのか、わからなかったです。今でも、いい方法は見つかってません。でも、大滝さんが助けてくれたのは確かだし、大滝さんだって変わろうしてます。だって、私よりも年上のかたが、素直に自分のミスを謝ってくれたことなんて、ありません。だから、一緒に少しづつ、変わっていけたら、いいなって。そう、思うんです」
 こんな形で、職場の苦手なお局と、本音に近い会話をするなんて信じられなかった。しかし、今の大滝になら話してもいいかもしれなかった。
 なにも伝えずに、なにもせずに、状況が変わることはない。だったら、伝えればいい。
「あなたと一緒なら、できる気がする。不思議ね」
 仏頂面の大滝が目を細めて笑った。理恵も「不思議ですね」と答えた。
 来週からの仕事は頑張れそうだ、と、理恵は心の中で思った。