(人が、浮いてる?) 
 それは帰宅途中の、信号待ちだった。残業が終わり、空腹で頭の回らないまま斜め向かいの公園を眺めたときだった。
 高坂《こうさか》理恵《りえ》は、ベンチの上にふわふわ浮かぶ『人影』を見てしまった。
(疲れて幻覚でも見てるの?)
 まずは瞬きをし、目をこすった。……ベンチの上には、やはり人影が浮いている。
(う、う、うそでしょ!?)
 信号が変わったのにも気づかず、理恵はまたも公園を凝視する。すでに人気の少ない住宅地の一角、幸いにも理恵の奇行を気にする人はいない。
(超常現象? 幽霊? ええっ、なに、あれ) 
 気になって仕方ない理恵は、信号がまた青になるのを待った。護身用にとスマホを手に持ち、青になった横断歩道を渡る。足音がしないように、そっと歩いてしまうのは警戒心からか。
 公園は規模の小さなものだ。防砂林もどきの木の下に、問題の人影はある。公園のある道の信号が赤なのを見たとき、一瞬冷静になる。この町は比較的治安がいいが、それでも面倒なことに巻き込まれたらと考える。
 季節は三月。暖かくなると、主に女子どもを狙った軽犯罪をしでかす不埒な輩が多くなるのは、人生経験でわかっている。
(でも、寝るまでこのことが気になって、眠れなかったらどうしよう)
 二十八歳としては危機管理がなってないと、実家の両親に怒られるかもしれない。しかし、一人暮らしをしている家は公園のほんの少し先にあるし、不審者として通報するにしても、もう少し様子を見てからのほうがいいだろう。理恵はそうやって理屈をつけて、青になった信号をさらに慎重に渡った。
 何気ない通行人を装いつつ、理恵は公園に近づいた。凝視しない程度に公園を見る。
 薄暗い電灯の下だが、人影には足ががあることはわかって、とりあえず幽霊ではないことを確認した。
 人影は、空気いすのような格好でふわふわ浮いている。なにか食べているような様子だ。一歩、二歩、近づいた理恵は、思わず口に手を当てた。
(大滝《おおたき》、さん?)
 人影、それは、理恵の職場のお局様――大滝《おおたき》照子《てるこ》の姿だったからだ。


 公園で浮かぶ大滝を見かけた翌日のこと。
(出社して早々、大滝さんからの呼び出しだなんて)
 始業から一〇分も経たない時間に、会社の廊下で小さなため息をつく。理恵は彩遊市にある町工場に、一か月前から事務員として働いている。
 今日は始業後すぐ、昨日の受注リストの件で聞きたいことがある、と出荷管理部の大滝から内線があった。
(まさか、昨日公園で覗いてたことがバレた? いやいや、業務内にそんなこと話すようなひとじゃないでしょ)
 大滝の仕事一徹な態度を思い出し、理恵はかぶりを振る。それ以前に「人間が宙に浮かぶ」という現象が起きること自体が信じられない。今でもあれは、残業疲れで見た幻覚じゃないだろうかとも疑っている。
 しかし、理恵の憂鬱な気分はそれだけではない。単純に、大滝とのやり取りが苦手なのだった。
 二階の総務室から、三階の出荷管理部に向かうほんの少しの間、理恵は誰もいない廊下で何回もため息をこぼした。


 出荷管理部は、会社で作った製品の検査と出荷業務、在庫管理を行う部署だ。あけ放たれているドアから入れば、所せましと並ぶ在庫棚と、製造部から上がってきた製品が置かれている作業机が広がっている。それらを通り抜けると、一番奥の大きな机の前に座る人物の背中が見える。
 一瞬、昨日の夜に見た背中と重なるが、仕事中だと自分に言い聞かせ、妄想を追い払った。
「大滝さん」
 理恵の呼びかけに、その人物は振り向いた。きっちりとまとめた髪に、分厚い眼鏡。常に口元を「への字」にしている壮年女性――大滝照子。出荷管理部の人員は、大滝一人だけだ。
「高坂さん、これ間違ってるんだけど、すぐに直せる?」
 大滝は単刀直入に告げた。差し出された一枚の紙を受け取る。件の受注リストだった。
 昨日、上司である神山《かみやま》から、表計算ソフトのこのテンプレートに注文番号を入れておけばいいからと請け負った仕事だった。受注数も少なかったし、番号は何度も見直したはずだった。理恵は不服そうな顔になるべくならないよう、笑顔を作って大滝を見た。
「すみませんでした。でも、どこを直せば」
「この書式、今は使ってないの。新しいのを探して、もう一回出してもらえる? ここ、書式が違うとクレーム付けてくるところだから」
 大滝は表情を変えず、最低限の情報のみを短く告げた。そして、それ以上は話すことはないと言いたげに、机に向き直った。
 その書式、神山さんが指定したんです、とはとてもじゃないが言いづらい雰囲気だ。言ったとしても「でも作ったのは高坂さんでしょう?」と言われるのがオチだ。大滝がミスを慰めるだとか、冗談を言うだとか、そういう場面に一度も出くわしたことがない。
「わかりました」
 いつも通りにぐっと不満を飲み込み、理恵はその場を離れた。

 
 家から近い、九時五時の事務。土日祝日休みで、上手くいけば正社員登用予定。小さな会社だが、特殊な金属加工を扱ってるので、事業は好調らしい。
 社長や経理担当の社長夫人、数年間一人で事務をやってきたという神山も優しいし、製造部の男性は事務の女性、というだけで態度がやわらかい。ずっと違う会社を転々とし、フリーターをしていた理恵にとって、かなりの好待遇・好条件の会社だった。
 しかし、出荷管理部の大滝とは、会話のリズムも、態度もかみ合わない。つんけんとした態度。クスリとも笑わない仏頂面。他人にも自分にも厳しい、仕事一徹女。三十代後半の神山も似たような気持ちらしく、あまり大滝について良くいうことはない。
 しかし、製造部の従業員たちの間では、一目置く存在だという。
 この在庫はどこ、この図面のことなんだけど、と真剣に尋ねる姿を少なからず見たことがある。それに対しても大滝は簡潔な答えしか返さないし、決して愛想がいいわけでもない。
(難しいひと)
 それが理恵の、大滝の評価だった。
  

 大滝らしき人物が浮かぶのを見た日から、二週間。偶然、お昼休みや帰宅時に顔を合わせることがあっても、どこから雑談の糸口をつかめばいいのかわからず、なにも聞けなかった。
 そんな中、仕事にも慣れてきたかなと思い始めた頃、理恵の環境は急変した。
 帰宅時だった。神山が、二週間後に退職だということを知らされたのだ。
 しかも、急な話ではない。神山が辞めるのは、理恵が入社する前から決まっていたことだというのだ。
「入ったばかりの人に「すぐ辞めます」なんて言えないでしょ? 高坂さんがおおかたの仕事を覚えたら言い出そうと思ってて。ごめんね、いきなりで」
 一応申し訳なさそうな顔をしているが、話の内容は酷いものだ。理恵はどういう表情になればいいか分からず、あぜんとした顔のまま話を聞いていた。
「そう、なんですか」
 かろうじてそんな言葉が出てきた。神山はそれを見て、少しだけ安堵したような表情になった。理恵があからさまに嫌がると思っていたのだろう。
「ここだけの話、社内でソリの合わない人がいて。三年頑張ってたんだけど、限界かなって。同じような仕事でもっと条件のいいところが見つかったからさ」
 辞められる解放感からか、神山は笑顔を交えて語り始めた。ソリの合わない人というのは、おそらく大滝のことだろう。約一か月半しかいない理恵でも推測できる。
 だが理解できるのは、あくまで気持ちだけだ。半年すら経っていないまま残される理恵をないがしろにされて、怒りと失望が生まれ始めていた。優しい先輩だと思っていただけに、ショックが大きい。
「それは、よかったですね」
 理恵は固い声で、形だけの言葉をかけた。本音はそんなことこれっぽっちも思っていない。
 しかし、ここで感情をあらわにしたところで、なにが変わるわけでもない。理恵は常に誰かのスケープゴートになる運命なのだということを、改めて思い出した。
「本当にごめんね、がんばってもらえるかな? わからないことがあれば、なんでも聞いてね」
 言葉だけなら頼もしく聞こえる神山のフォローなど、今の理恵の心には響かない。かろうじて微笑を浮かべ、機械的に「はい」と答えて、そのまま別れた。


 そして神山が退職した次の日、今度は理恵のした仕事でクレームが発覚した。理恵が手配した図面が間違っていたのが発端だ。
 普段なら社内で誰かが気づくため、大事に至らないケースが多い。しかし今回間の悪いことに、複雑な図面のため、製造部も気づかなかった。しかも、普段なら大滝が検査するのだが、有休で不在だった。経験の少ない営業が検査して出荷したため、客先からのクレームに発展してしまった。
 社内はそれの対応にてんやわんやし、製造部がすぐに再制作、営業が客先にすっ飛んでいった。
 事務に一人残された理恵には、大量の仕事が山積みになっていた。神山が辞めたことによって、今まで二人でやってきた業務を、理恵一人でこなさなくてはいけない。しかも、クレームが発生したのは理恵の手配違いなこともあって、忙しい上にさらなる正確さが要求された。社内全体がピリピリしたムードに包まれ、他の従業員が、常に理恵を訝しげな目で見ているような気がしてならなかった。
 理恵にはそれが、辛くて仕方なかった。


 昼食時、食堂代わりの会議室にも行かず、理恵は最上階にある階段の踊り場にうずくまっていた。
 用意していた昼ご飯にも手を付けられない。理恵の頭の中には、今までの職場で起こったことがフラッシュバックしていた。
 最初に就職した会社ではセクハラを受けた。学校を出たばかりでどうすればわからなかった理恵はなにも言い出せず、夜の誘いが明確に来たときに思い切って辞めた。
 無職は養わないと両親に言われたので、すぐに入れた飲食店のアルバイトを始めたが「若いから」を理由に初日から一〇連勤を強いられた。両親の手前、すぐに辞めることもできなかったので頑張ったら、体に不調が出た。三度目の欠勤の電話で「あなたもう来なくていいから」と言われ、しかも自主退職という形で辞めることになっていた。
 体の具合が安定してから就職した受付業務は、最初こそよかった。しかし、なにかトラブルが起きるたびに、一番下っ端の理恵に濡れ衣をきせられた。理恵が礼儀を知らないから教えてやってるのだと先輩たちから親切そうに言われた記憶と神山の様子が重なって、ついに理恵の目から涙がぼろぼろこぼれだした。
 いつだって理恵は誰かの犠牲になる人間だった。自分は価値がない人間なのだと繰り返し言われているような気がして、仕方がなかった。
 それが悔しくて、事務の仕事に必要な資格を勉強し、新たな職を探した。その間に短期バイトで片っ端からいろんな会社に行って、簡単に傷つかないように気持ちを鍛えた。いろいろ見て分かったのは、本音は絶対に言わず、とにかく笑顔を張り付けて言うことを聞けば、なんとかなるのだということ。たとえ少しくらい理不尽でも、それが社会なのだと、理恵はうっすらわかってきた。
 そして見つけたのがこの会社だった。今度こそは上手くやろうと思っていた矢先だったのに。
 理恵はさらにぎゅっと膝をかかえた。
(せめて、始業のチャイムがなるまで。昼からは、また頑張らなきゃ)
 そう理恵は言い聞かせて、声を押し殺して泣いた。


 午後の仕事が始まったが、理恵はとにかく仕事を処理することで頭がいっぱいだった。
 あっという間に時は過ぎ、定時のチャイムが鳴る。しかし、机の上にはこなせない量が残っていた。最低でもこれだけは今日中に処理しなければならない受注のメールと、社内から回ってきた在庫発注の紙の束を見て、今にも泣きそうになった瞬間だった。
「手伝うわ」
 突然、束を誰かの手がつかんだ。振り向けば、そこには大滝の姿があった。