昼休み、壮太は浮かない顔をして社食をつついていた。
頭も体も、気持ちも重かった。理不尽な顧客の要望やパワハラ気味の上司の対応は、胃がきりりと痛む。それに加えて、妻との家庭内不和だ。
(疲れた、ただそれだけなのにな)
自分の機嫌を整えるだけでも一苦労なのに、娘はともかく、大人である妻の機嫌を取ることを考えるのは苦痛に近かった。
(あいつ、勝手に一人で怒ってるばっかだし)
心の中だけでぼやく。
なんの気なしに眺めたテレビで、誕生日という単語が聞こえてきた。思えば今回の不和は、娘の誕生日がきっかけだ。
(梨々子の誕生日、か)
テレビには、誕生日について家族の思い出を語る女性タレントが映っている。誕生日にはケーキがあって、みんなで集まって、サプライズなプレゼントがあって、父親は特にかわいがってくれて……という、いかにも『幸せな家族像』のエピソードに、壮太の気持ちがざわつく。
(……ちゃんと祝わないと、梨々子がかわいそうだよなあ)
この際妻はどうでもいい。せめて娘には、父親としていい顔がしたい。己のエゴを自覚しながら、壮太はいまいち味を感じない社食をかっこんで片づける。
そして、少し離れたところに座る後輩に声をかけた。相談いいか、と声をかけると、後輩の鈴木裕也はスマホから目線を外し、いいっすよ、と答えた。
「あと一週間後に娘の誕生日なんだけどさ。ケーキ屋でなんかお勧めある? 裕也はケーキに詳しいだろ」
彼の甘いもの好きは社内で有名だった。裕也はうーん、としばし思案する。
「間宮さんの娘さんって、魔力アレルギーあります? ないなら、魔法菓子がお勧めですけど」
「魔法菓子? あの、バカ高いやつ?」
甘いものに特に興味がない壮太には、魔法菓子はただの高級品だ。自わから買うような品物ではないし、馴染みもない。そして食物アレルギーのない壮太は、魔力アレルギーというものがあることも今の言葉で初めて知った。
「知り合いが、間宮さんの家の近所で魔法菓子の店やってるんですよ。そいつは職人じゃなくて、経営者なんですけど。そこのケーキ、普通に食べてもおいしいし、魔法菓子なら誕生日とかには最適っす。あ、値段は普通のケーキ屋と同じくらいなんで、そんなに高くないっすよ」
店のアドレス送っときます。そう言われた直後、壮太のスマホから着信音が鳴った。先輩に対してもフランクな口調の割には、裕也は行動が早い。そういうところが気に入っている後輩だった。ありがとな、と礼を言う。裕也は「うっす」とだけ返事を返して、またスマホへ視線を戻した。
その夜、仕事をなるべく早めに終わらせた壮太は、件の店『魔法菓子店 ピロート』にやってきた。閉店の時間を気にしながら、息せき切って店内に飛び込む。時計を見れば閉店時間の一〇分前だった。まだ間に合いますか、と尋ねると、眼鏡をかけた店員はかまいませんよ、と明るく笑った。
壮太はケーキの予約がしたいと告げると、店員の顔がさらに明るくなった。自分よりも同じか、少し若く思えるその男性店員の表情は自然で、好感が持てた。
「娘の誕生日に、魔法菓子のケーキをと思いまして」
「それはおめでとうございます!」
店員に「娘に魔力アレルギーがあるかどうか」を聞かれ、知らない、と答えると、試食用の焼き菓子を渡しますと言われた。もしアレルギーがある場合は、いつでも普通のケーキへの変更やキャンセルができると説明を受けた後、ケーキの種類を選ぶことになった。
壮太は試食用の「金のミニフィナンシェ」と「銀のマドレーヌ」を食べながら、見本のファイルを眺める。金のかけらも銀のかけらも出てこなかったので残念ではあるが、次第にそれがどうでもよくなる程、壮太は悩み始めてしまった。
(どれを選べばいいのか、さっぱりわからない)
フルーツのたくさんあるものか、チョコレートか、チーズか。味もそうだが、魔法効果も、花が好きなのか、キラキラしたものがいいのか。
子どもなら甘いものが好きだろう、魔法菓子なら面白いだろう、人から薦められたのだからいいだろう。そんな判断はまったく役に立たなかった。自分の娘のために選ぶ、ただそれだけのはずなのに。
(梨々子はなにが好きなんだろう。俺、娘の好きなものを知らなかったのか)
毎年ケーキを選んでいるのは、紗枝だった。それに、最近は家でも寝てばかりで、梨々子の話を聞くことは少ない。
ファイルをめくる手を止めた壮太に、店員が「どうされました?」と声をかけてくれた。
「お嬢さんの好みやお好きなものをお教えいただければ、ご提案もできますよ。僕は元営業マンなので、そういうのは得意です!」
胸を拳でドン、とたたき、店員は自信のほどを現した。調子のいい人だな、とは思いつつも、営業には思い切りのいい人間が多い。壮太は、そういう人間に頼りたい気分になった。
「実は、娘がなにを好きなのか、俺、知らないんです。最近、仕事ばかりで、あまり家に構えなくて。小さいときは、子供の喜びそうなものを見繕えばなんでも喜んでくれた記憶があるんですが、もう娘は十歳で。サプライズにしたいから、直接聞くのもちょっと。こんなことがわからないなんて……父親、失格ですね」
ははは、と自嘲気味の笑いが口をついて出た。頑張っているのは自分も紗枝も変わりはない。むしろ、紗枝の方が母親であることを常に忘れていない。それに気づいた壮太は、軽くうなだれた。
「そんなこと、ないですよ。現にお客様は、こうしてうちにケーキを選びに来てくださってるじゃありませんか」
ほんの少しの沈黙の後、店員はそう言った。
壮太が顔を上げる。すると、店員は力強いまなざしで壮太を見てうなずいた。
「お仕事帰りにお越しになるお客様は、あなたのように息を切らして店に入ってくることが多いんです。そういうお客様がお買い求めになるのは、十中八九、自分のためではなく、大切なだれかのためのケーキです。そして、大概の方が悩まれます。どんなケーキがよいだろう、相手が喜ぶだろうか、と。お客様のように、身近にいるのになにがお好きなのかわからない、と嘆く方も、もちろん多いです。でも、そういうお客様は、ここに足を踏み入れてくださった時点で、贈る相手のことを思いやっているんです。だから、父親合格です。ほかのだれが言わなくても、僕は言いますよ。あなたは合格ですって」
自称・元営業マンという彼の言葉は、確かに接客トークというよりは、会議で企画案をプレゼンするサラリーマンのようだ。ケーキ屋らしからぬ空気に、壮太の口からくくっと笑いが漏れた。
「父親合格、か」
「そーです、合格なんです!」
一緒になって笑う店員の顔はさわやかだ。よくよく考えれば、営業マンが言いそうな調子のよい冗談ではある。それでも彼の晴れやかさには下心が感じられず、気持ちの良さだけが残る。
そこで初めて、壮太は、だれかに「父親」だと認めてもらいたかったという欲望を自覚した。わかってしまった瞬間、なんだか急に心が軽くなった。
(自分のことばかりだったんだな、俺は)
あとは、今後どうすればいいかを考えよう。原因がわかれば、壮太は思い切りが良いほうではあった。
「なかなか浮かばないなあ。うーん、どうしましょう」
「そうですねえ、お嬢さんがもっと小さなころお好きだったものでも良いかと。十年の間に、なにか思い出深いことは……いや、たくさんおありだと思うんですけど。そうそう、僕も五歳の娘がいて、お客様のことは、なんだか他人事に思えないんです。仕事が忙しいと、どうしても家のことって二の次になること、ありますね~。あまり大きな声では言えませんけど」
店員は最後の言葉をささやくように言って、笑った。
次第に彼とのやり取りがだんだん楽しくなって、壮太は思い出せる限り、娘の話をした。意味のわからない幼児語の話や、人気のキャラクターにはまりまくっていた時期のこと、おしゃれを気にするようになったこと、バレンタインデーのチョコをいつまでももらえるかの心配、などなど。話せば結構出てくるもので、店員は「うちの娘もいずれはそうなっちゃうのかな」と少し寂しそうな顔をした。
その間に、奥の厨房からパティシエと思われる男性が出ては入ったりと忙しそうにしていた。彼は壮太の姿をみとめると、「片づけをしているので騒がしいですが、どうぞご納得されるまででかまいませんので」とやわらかい声音で言い添えた。それを聞いた壮太は閉店時間を過ぎていることに気づき、慌てて手元のファイルを再度見る。
(梨々子の為に、決めなくては。妻と喧嘩していても、俺はあいつの父親だからな)
その中に『バルーン・バースデー』という、風船マシュマロが飛び出すケーキがあった。
「風船……そうだ、風船! 三歳ごろかな、すごく風船が好きだった時期があって。落ちてくるのをとるのも、ボールみたいに遊ぶのも、膨らますのも全部好きだった。あと……去年、旅行で気球に乗ったこともあった。そのときも喜んでたような」
「じゃあ、それでいかがですか。ちょうど材料も調達できてますし、お作りできますよ」
すぐに申込書を書き、梨々子用の試食分をもらって店を出た。少しだけ、すがすがしい気分だった。
しかし、紗枝のことを思い出すと、また気持ちが重くなった。
(ケーキを予約した、って、今の状態じゃ、言い出しづらいな)
仲直りをしたいと思っても、取り付く島がない状態だ。能面のような紗枝の顔を思い出してしまうと、ついさっき上向きになった気分が、風船がしぼむように小さくなっていった。
::::
うちには今、ピリピリとしたいやな空気が流れている。
小学四年生の間宮梨々子は、帰宅中、ずっとそんなことを考えていた。
原因はわかっている。母親と父親がずっと喧嘩を続けているからだ。母親が仕事を始めたのがきっかけなのか、父親の仕事が忙しくなったのがきっかけなのか、今となってはどちらなのかわからない。
(なんで喧嘩なんかしてんのかな)
二人は梨々子に対してはいつも通りの態度で接していた。しかし、どちらも事あるごとに相手のことを悪くいうので、梨々子はそれがいやで仕方なかった。
(お父さんは自分が長く働いてるからって、パートで働くお母さんのことに文句言うし。お母さんだって、自分は働きながら家事をしてるのに、お父さんは家族のことを忘れて仕事してるって言い出すし。もう、どっちもどっちだよ)
内心ではそう思いながらも、しかし梨々子はそれを言葉にすることはできなかった。子どもにとって、親は生活の全てを握る人物だ。もし父親を怒らせれば、母親と自分を捨てて家を出ていくかもしれないし、母親を怒らせれば、ご飯がもらえなくなるかもしれない――極端な妄想かもしれなかったが、九歳の梨々子はそれが怖くて仕方なかった。普段から真面目でいい子だと言われ、それを喜んでくれる両親にきらわれたくない。だから梨々子は二人の話を黙って聞くことしかできなかった。
そんなときだった。二人は別々に不思議なお菓子『魔法の菓子』をくれた。しかも、二人とも、もうすぐ訪れる梨々子の誕生日には、すごいケーキを用意すると言ったのだ。二人とも「お父さん(お母さん)には内緒だよ」と念を押して。
そしてもっと不思議だったのは、それが同じお店のお菓子だったことだ。
喧嘩しているはずの二人が、どうして同じお店のお菓子を買い、梨々子にくれたのだろうか?
それを友達に話すと『どうして同じお店なのかはわからないけど、魔法のお菓子を作るケーキ屋さんは魔法使いなんだよ』だと言われた。
(ケーキ屋さんなら、わかるかもしれない)
そう思った梨々子は、お菓子の袋に書かれていた店の名前を母親のタブレットでこっそり検索した。すると、それは家の近くにあるお店だった。
(行ってみるしかない)
訳のわからないまま誕生日を迎えるのが怖い梨々子は、店に行く決意をした。
::::
間宮紗枝と、間宮壮太が予約したケーキの受け渡し日の前日。
仕込みがひと段落ついた蒼衣は、店番を兼ねてカウンターの中でホールケーキ予約ノートを眺めていた。しかし、蒼衣の眉間にはしわが寄っている。
「ただいま~っと。うん? 予約でなんかあったか?」
客先である結婚式場への配達から帰ってきた八代が、蒼衣を見て首をかしげる。
「間宮様のことでさ」
「あー、このお二人ね」
八代と蒼衣は、同姓、同住所、同ケーキの注文二件を気にかけていた。
「十中八九、夫婦なんじゃねえの? 苗字も住所も同じだし、十歳になる娘にってのもさ。それに、お前も言ってたじゃん。二人とも、なんだか必死な感じの気持ちがあったって」
「必死というか『自分しかこれができないんだ』みたいな、使命感かなあ。あと、お二人とも、若干疲れてるのか、心が荒れてる感じだった。お店を出るときには、幾わか気分がよくなっていたみたいだけど」
蒼衣は、作った魔法菓子を食べた人間の感情を感じられる能力を持っている。ピロートが試食を常に用意しているのは、蒼衣がお客の反応を出来る限り知りたいためだ。といっても、蒼衣が感じられる感情はあいまいで、思考が読めるというほどではない。しかも、半径七十五センチ以上離れるとまったく感じられなくなるため、接近する必要がある。
「どうして、べつべつにご予約が?」
「お互いに知ってたら、とっくの昔にどっちかからキャンセルの連絡があるだろ。でも、前日になってもそんな連絡はこない。ということは、夫婦で情報共有がされていない可能性があるってこと。蒼衣が感じた心が荒れてるっていう表現も気になる。まあつまり、夫婦喧嘩かなんかして、関係が悪化してるかも、しれんな」
関係の悪化という言葉に、蒼衣の顔に憂いが現れる。幸せを願って作る魔法菓子なのに、争いの渦中にケーキが巻き込まれるのは、不本意だった。しかし、注文を受けた以上はプロとして、期日には商品を必ず用意することは、蒼衣も理解している。すでに材料も揃え、仕込みも完了した二台の『バルーン・バースデー』を思い出し、蒼衣は思わずノートから目をそらす。
「家族って、よくわかんないや」
蒼衣がつぶやいたそのとき、店の扉が開いた。二人は反射的に笑顔を作り、入ってきたであろうお客を迎えた。
入ってきたのは、十歳くらいの少女だった。かわいらしいポシェットを肩にかけたその少女は、少し緊張しているのか、硬い表情で店内を見回した。
カウンターから出た八代に、少女が近づく。
「あのう、ここ、このお菓子のお店ですか?」
少女は、握りしめていたものを広げると、八代に見せた。それはピロートの焼き菓子『金のミニフィナンシェ』『銀のマドレーヌ』の試食用ビニール包装だった。
「ん? この焼き菓子、君、もしかして……間宮、りりこちゃん?」
紗枝が頼んだチョコプレートの名前。八代の言葉に、少女……梨々子は、真面目な様子ではい、と答えた。
「もしかして、魔法菓子を食べて、具合が悪くなった?」
八代の後ろから、蒼衣が慌てた様子で顔を出した。両親からアレルギーがあったという連絡はないのだが、本人に自覚症状があるのなら、話は別だ。
「いえ、違います。お菓子、おいしかったです。あの……」
梨々子はなにかを訴えるような目で、蒼衣をまじまじとみつめた。蒼衣は腰をかがめ、梨々子と同じ目線になると「おいしいって言ってくれて、ありがとう。そのお菓子を作ったの、僕なんだ」と、礼を述べ、あはは、と目尻を下げた。するとそれがきっかけだったのか、梨々子は息を吸い込んで、一気に言った。
「魔法使いのお兄さん、お父さんとお母さんが仲直りするケーキを、作ってくれませんか!」
「魔法、使い?」
予想だにしていない単語に、蒼衣と八代は顔を見合わせた。
頭も体も、気持ちも重かった。理不尽な顧客の要望やパワハラ気味の上司の対応は、胃がきりりと痛む。それに加えて、妻との家庭内不和だ。
(疲れた、ただそれだけなのにな)
自分の機嫌を整えるだけでも一苦労なのに、娘はともかく、大人である妻の機嫌を取ることを考えるのは苦痛に近かった。
(あいつ、勝手に一人で怒ってるばっかだし)
心の中だけでぼやく。
なんの気なしに眺めたテレビで、誕生日という単語が聞こえてきた。思えば今回の不和は、娘の誕生日がきっかけだ。
(梨々子の誕生日、か)
テレビには、誕生日について家族の思い出を語る女性タレントが映っている。誕生日にはケーキがあって、みんなで集まって、サプライズなプレゼントがあって、父親は特にかわいがってくれて……という、いかにも『幸せな家族像』のエピソードに、壮太の気持ちがざわつく。
(……ちゃんと祝わないと、梨々子がかわいそうだよなあ)
この際妻はどうでもいい。せめて娘には、父親としていい顔がしたい。己のエゴを自覚しながら、壮太はいまいち味を感じない社食をかっこんで片づける。
そして、少し離れたところに座る後輩に声をかけた。相談いいか、と声をかけると、後輩の鈴木裕也はスマホから目線を外し、いいっすよ、と答えた。
「あと一週間後に娘の誕生日なんだけどさ。ケーキ屋でなんかお勧めある? 裕也はケーキに詳しいだろ」
彼の甘いもの好きは社内で有名だった。裕也はうーん、としばし思案する。
「間宮さんの娘さんって、魔力アレルギーあります? ないなら、魔法菓子がお勧めですけど」
「魔法菓子? あの、バカ高いやつ?」
甘いものに特に興味がない壮太には、魔法菓子はただの高級品だ。自わから買うような品物ではないし、馴染みもない。そして食物アレルギーのない壮太は、魔力アレルギーというものがあることも今の言葉で初めて知った。
「知り合いが、間宮さんの家の近所で魔法菓子の店やってるんですよ。そいつは職人じゃなくて、経営者なんですけど。そこのケーキ、普通に食べてもおいしいし、魔法菓子なら誕生日とかには最適っす。あ、値段は普通のケーキ屋と同じくらいなんで、そんなに高くないっすよ」
店のアドレス送っときます。そう言われた直後、壮太のスマホから着信音が鳴った。先輩に対してもフランクな口調の割には、裕也は行動が早い。そういうところが気に入っている後輩だった。ありがとな、と礼を言う。裕也は「うっす」とだけ返事を返して、またスマホへ視線を戻した。
その夜、仕事をなるべく早めに終わらせた壮太は、件の店『魔法菓子店 ピロート』にやってきた。閉店の時間を気にしながら、息せき切って店内に飛び込む。時計を見れば閉店時間の一〇分前だった。まだ間に合いますか、と尋ねると、眼鏡をかけた店員はかまいませんよ、と明るく笑った。
壮太はケーキの予約がしたいと告げると、店員の顔がさらに明るくなった。自分よりも同じか、少し若く思えるその男性店員の表情は自然で、好感が持てた。
「娘の誕生日に、魔法菓子のケーキをと思いまして」
「それはおめでとうございます!」
店員に「娘に魔力アレルギーがあるかどうか」を聞かれ、知らない、と答えると、試食用の焼き菓子を渡しますと言われた。もしアレルギーがある場合は、いつでも普通のケーキへの変更やキャンセルができると説明を受けた後、ケーキの種類を選ぶことになった。
壮太は試食用の「金のミニフィナンシェ」と「銀のマドレーヌ」を食べながら、見本のファイルを眺める。金のかけらも銀のかけらも出てこなかったので残念ではあるが、次第にそれがどうでもよくなる程、壮太は悩み始めてしまった。
(どれを選べばいいのか、さっぱりわからない)
フルーツのたくさんあるものか、チョコレートか、チーズか。味もそうだが、魔法効果も、花が好きなのか、キラキラしたものがいいのか。
子どもなら甘いものが好きだろう、魔法菓子なら面白いだろう、人から薦められたのだからいいだろう。そんな判断はまったく役に立たなかった。自分の娘のために選ぶ、ただそれだけのはずなのに。
(梨々子はなにが好きなんだろう。俺、娘の好きなものを知らなかったのか)
毎年ケーキを選んでいるのは、紗枝だった。それに、最近は家でも寝てばかりで、梨々子の話を聞くことは少ない。
ファイルをめくる手を止めた壮太に、店員が「どうされました?」と声をかけてくれた。
「お嬢さんの好みやお好きなものをお教えいただければ、ご提案もできますよ。僕は元営業マンなので、そういうのは得意です!」
胸を拳でドン、とたたき、店員は自信のほどを現した。調子のいい人だな、とは思いつつも、営業には思い切りのいい人間が多い。壮太は、そういう人間に頼りたい気分になった。
「実は、娘がなにを好きなのか、俺、知らないんです。最近、仕事ばかりで、あまり家に構えなくて。小さいときは、子供の喜びそうなものを見繕えばなんでも喜んでくれた記憶があるんですが、もう娘は十歳で。サプライズにしたいから、直接聞くのもちょっと。こんなことがわからないなんて……父親、失格ですね」
ははは、と自嘲気味の笑いが口をついて出た。頑張っているのは自分も紗枝も変わりはない。むしろ、紗枝の方が母親であることを常に忘れていない。それに気づいた壮太は、軽くうなだれた。
「そんなこと、ないですよ。現にお客様は、こうしてうちにケーキを選びに来てくださってるじゃありませんか」
ほんの少しの沈黙の後、店員はそう言った。
壮太が顔を上げる。すると、店員は力強いまなざしで壮太を見てうなずいた。
「お仕事帰りにお越しになるお客様は、あなたのように息を切らして店に入ってくることが多いんです。そういうお客様がお買い求めになるのは、十中八九、自分のためではなく、大切なだれかのためのケーキです。そして、大概の方が悩まれます。どんなケーキがよいだろう、相手が喜ぶだろうか、と。お客様のように、身近にいるのになにがお好きなのかわからない、と嘆く方も、もちろん多いです。でも、そういうお客様は、ここに足を踏み入れてくださった時点で、贈る相手のことを思いやっているんです。だから、父親合格です。ほかのだれが言わなくても、僕は言いますよ。あなたは合格ですって」
自称・元営業マンという彼の言葉は、確かに接客トークというよりは、会議で企画案をプレゼンするサラリーマンのようだ。ケーキ屋らしからぬ空気に、壮太の口からくくっと笑いが漏れた。
「父親合格、か」
「そーです、合格なんです!」
一緒になって笑う店員の顔はさわやかだ。よくよく考えれば、営業マンが言いそうな調子のよい冗談ではある。それでも彼の晴れやかさには下心が感じられず、気持ちの良さだけが残る。
そこで初めて、壮太は、だれかに「父親」だと認めてもらいたかったという欲望を自覚した。わかってしまった瞬間、なんだか急に心が軽くなった。
(自分のことばかりだったんだな、俺は)
あとは、今後どうすればいいかを考えよう。原因がわかれば、壮太は思い切りが良いほうではあった。
「なかなか浮かばないなあ。うーん、どうしましょう」
「そうですねえ、お嬢さんがもっと小さなころお好きだったものでも良いかと。十年の間に、なにか思い出深いことは……いや、たくさんおありだと思うんですけど。そうそう、僕も五歳の娘がいて、お客様のことは、なんだか他人事に思えないんです。仕事が忙しいと、どうしても家のことって二の次になること、ありますね~。あまり大きな声では言えませんけど」
店員は最後の言葉をささやくように言って、笑った。
次第に彼とのやり取りがだんだん楽しくなって、壮太は思い出せる限り、娘の話をした。意味のわからない幼児語の話や、人気のキャラクターにはまりまくっていた時期のこと、おしゃれを気にするようになったこと、バレンタインデーのチョコをいつまでももらえるかの心配、などなど。話せば結構出てくるもので、店員は「うちの娘もいずれはそうなっちゃうのかな」と少し寂しそうな顔をした。
その間に、奥の厨房からパティシエと思われる男性が出ては入ったりと忙しそうにしていた。彼は壮太の姿をみとめると、「片づけをしているので騒がしいですが、どうぞご納得されるまででかまいませんので」とやわらかい声音で言い添えた。それを聞いた壮太は閉店時間を過ぎていることに気づき、慌てて手元のファイルを再度見る。
(梨々子の為に、決めなくては。妻と喧嘩していても、俺はあいつの父親だからな)
その中に『バルーン・バースデー』という、風船マシュマロが飛び出すケーキがあった。
「風船……そうだ、風船! 三歳ごろかな、すごく風船が好きだった時期があって。落ちてくるのをとるのも、ボールみたいに遊ぶのも、膨らますのも全部好きだった。あと……去年、旅行で気球に乗ったこともあった。そのときも喜んでたような」
「じゃあ、それでいかがですか。ちょうど材料も調達できてますし、お作りできますよ」
すぐに申込書を書き、梨々子用の試食分をもらって店を出た。少しだけ、すがすがしい気分だった。
しかし、紗枝のことを思い出すと、また気持ちが重くなった。
(ケーキを予約した、って、今の状態じゃ、言い出しづらいな)
仲直りをしたいと思っても、取り付く島がない状態だ。能面のような紗枝の顔を思い出してしまうと、ついさっき上向きになった気分が、風船がしぼむように小さくなっていった。
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うちには今、ピリピリとしたいやな空気が流れている。
小学四年生の間宮梨々子は、帰宅中、ずっとそんなことを考えていた。
原因はわかっている。母親と父親がずっと喧嘩を続けているからだ。母親が仕事を始めたのがきっかけなのか、父親の仕事が忙しくなったのがきっかけなのか、今となってはどちらなのかわからない。
(なんで喧嘩なんかしてんのかな)
二人は梨々子に対してはいつも通りの態度で接していた。しかし、どちらも事あるごとに相手のことを悪くいうので、梨々子はそれがいやで仕方なかった。
(お父さんは自分が長く働いてるからって、パートで働くお母さんのことに文句言うし。お母さんだって、自分は働きながら家事をしてるのに、お父さんは家族のことを忘れて仕事してるって言い出すし。もう、どっちもどっちだよ)
内心ではそう思いながらも、しかし梨々子はそれを言葉にすることはできなかった。子どもにとって、親は生活の全てを握る人物だ。もし父親を怒らせれば、母親と自分を捨てて家を出ていくかもしれないし、母親を怒らせれば、ご飯がもらえなくなるかもしれない――極端な妄想かもしれなかったが、九歳の梨々子はそれが怖くて仕方なかった。普段から真面目でいい子だと言われ、それを喜んでくれる両親にきらわれたくない。だから梨々子は二人の話を黙って聞くことしかできなかった。
そんなときだった。二人は別々に不思議なお菓子『魔法の菓子』をくれた。しかも、二人とも、もうすぐ訪れる梨々子の誕生日には、すごいケーキを用意すると言ったのだ。二人とも「お父さん(お母さん)には内緒だよ」と念を押して。
そしてもっと不思議だったのは、それが同じお店のお菓子だったことだ。
喧嘩しているはずの二人が、どうして同じお店のお菓子を買い、梨々子にくれたのだろうか?
それを友達に話すと『どうして同じお店なのかはわからないけど、魔法のお菓子を作るケーキ屋さんは魔法使いなんだよ』だと言われた。
(ケーキ屋さんなら、わかるかもしれない)
そう思った梨々子は、お菓子の袋に書かれていた店の名前を母親のタブレットでこっそり検索した。すると、それは家の近くにあるお店だった。
(行ってみるしかない)
訳のわからないまま誕生日を迎えるのが怖い梨々子は、店に行く決意をした。
::::
間宮紗枝と、間宮壮太が予約したケーキの受け渡し日の前日。
仕込みがひと段落ついた蒼衣は、店番を兼ねてカウンターの中でホールケーキ予約ノートを眺めていた。しかし、蒼衣の眉間にはしわが寄っている。
「ただいま~っと。うん? 予約でなんかあったか?」
客先である結婚式場への配達から帰ってきた八代が、蒼衣を見て首をかしげる。
「間宮様のことでさ」
「あー、このお二人ね」
八代と蒼衣は、同姓、同住所、同ケーキの注文二件を気にかけていた。
「十中八九、夫婦なんじゃねえの? 苗字も住所も同じだし、十歳になる娘にってのもさ。それに、お前も言ってたじゃん。二人とも、なんだか必死な感じの気持ちがあったって」
「必死というか『自分しかこれができないんだ』みたいな、使命感かなあ。あと、お二人とも、若干疲れてるのか、心が荒れてる感じだった。お店を出るときには、幾わか気分がよくなっていたみたいだけど」
蒼衣は、作った魔法菓子を食べた人間の感情を感じられる能力を持っている。ピロートが試食を常に用意しているのは、蒼衣がお客の反応を出来る限り知りたいためだ。といっても、蒼衣が感じられる感情はあいまいで、思考が読めるというほどではない。しかも、半径七十五センチ以上離れるとまったく感じられなくなるため、接近する必要がある。
「どうして、べつべつにご予約が?」
「お互いに知ってたら、とっくの昔にどっちかからキャンセルの連絡があるだろ。でも、前日になってもそんな連絡はこない。ということは、夫婦で情報共有がされていない可能性があるってこと。蒼衣が感じた心が荒れてるっていう表現も気になる。まあつまり、夫婦喧嘩かなんかして、関係が悪化してるかも、しれんな」
関係の悪化という言葉に、蒼衣の顔に憂いが現れる。幸せを願って作る魔法菓子なのに、争いの渦中にケーキが巻き込まれるのは、不本意だった。しかし、注文を受けた以上はプロとして、期日には商品を必ず用意することは、蒼衣も理解している。すでに材料も揃え、仕込みも完了した二台の『バルーン・バースデー』を思い出し、蒼衣は思わずノートから目をそらす。
「家族って、よくわかんないや」
蒼衣がつぶやいたそのとき、店の扉が開いた。二人は反射的に笑顔を作り、入ってきたであろうお客を迎えた。
入ってきたのは、十歳くらいの少女だった。かわいらしいポシェットを肩にかけたその少女は、少し緊張しているのか、硬い表情で店内を見回した。
カウンターから出た八代に、少女が近づく。
「あのう、ここ、このお菓子のお店ですか?」
少女は、握りしめていたものを広げると、八代に見せた。それはピロートの焼き菓子『金のミニフィナンシェ』『銀のマドレーヌ』の試食用ビニール包装だった。
「ん? この焼き菓子、君、もしかして……間宮、りりこちゃん?」
紗枝が頼んだチョコプレートの名前。八代の言葉に、少女……梨々子は、真面目な様子ではい、と答えた。
「もしかして、魔法菓子を食べて、具合が悪くなった?」
八代の後ろから、蒼衣が慌てた様子で顔を出した。両親からアレルギーがあったという連絡はないのだが、本人に自覚症状があるのなら、話は別だ。
「いえ、違います。お菓子、おいしかったです。あの……」
梨々子はなにかを訴えるような目で、蒼衣をまじまじとみつめた。蒼衣は腰をかがめ、梨々子と同じ目線になると「おいしいって言ってくれて、ありがとう。そのお菓子を作ったの、僕なんだ」と、礼を述べ、あはは、と目尻を下げた。するとそれがきっかけだったのか、梨々子は息を吸い込んで、一気に言った。
「魔法使いのお兄さん、お父さんとお母さんが仲直りするケーキを、作ってくれませんか!」
「魔法、使い?」
予想だにしていない単語に、蒼衣と八代は顔を見合わせた。