動くと決めたらすぐに行動に移す。
 それが(うてな)ひなげしのモットーだった。
 ひなげしは、長年お世話になった養護施設に別れを告げ、十八の冬、一人暮らしを始めることになった。

 児童養護施設は、十八歳になると、施設を出なくてはならない。
 一応、来年の春までは居ても良いと言われてはいたのだが、ひなぎくはその好意に甘えることなく、年明けと共に一人暮らしようのアパートを見付け、そこに引っ越しをしたのである。
 十八の、一月――。
 それはつまり、普通ならば受験生の追い込み時期だ。

 残念ながら、ひなげしはその、普通の、当たり前の、一般的な……そんな人生からは転落した。
 元々、孤児であり、親の顔も知らないひなげしは、児童養護施設で幼いころから育ってきた。
 養護施設の血のつながらない兄弟たちは、一癖も二癖もあって、純粋な『いい子』ではやっていけなかったひなげしは、少女ながらに逞しく育っていった。
 喧嘩でも男に対して、引くことなく、気に入らない奴には相手が教師だろうと、ハッキリとモノを言って来た。

 気が付くと、『普通の』『一般的』な女子高生から見て、ひなげしは『不良』という部類にカテゴライズされていた。
 そして高校三年の二学期、いよいよ一つの事件が起こった。
 それにより、ひなげしは高校を中退することになったのだ。

 事件に関しては、思い出したくもない。
 教師が、強姦しようとしてきたのだ。ひなげしのことを、不良で遊んでいる女だから、簡単にやらせてくれるバカだと思っていたのだろう。

「孤児のお前だと、この先生きていくのは大変だぞ」
 進路相談の日だった。
「お前の成績じゃあ、進学も難しいなぁ」
 ニヤつく顔が、ガマガエルのようで気色悪いと思った。
「先生の言うことを聞いてくれるなら、色を付けてやってもいいぞ」
 そう言うと、襲い掛かって来た。
 ひなげしは、ゲス野郎のビールっ腹を蹴りあげて、その教師の顔面に踏み潰してやった。

「こんな問題を起こして、学校に居られると思うなよ」
 鼻血を垂らしながら、泣きべそをかき、教師の皮を被ったケダモノは、そんなことを言った。
 襲われそうになったのを防いだだけの正当防衛だと、ひなげしは反論したが、教師は豚のように鼻を膨らませながら笑う。

「ぶはっ。不良のお前の言うことと、聖職者のオレ、どっちの言葉が信用されると思うんだ? 世の中はそういうふうに作られてるんだ」

 そして、男は不気味な表情を歪めて下品な声で言ってのけた。

「この世は学歴社会だ。人間性じゃなく、掲げている看板で評価されるんだよ。お前はどこまでいっても社会からは認められない、底辺として生きていくのさ」

 どこの出身で、両親はどんな仕事をしていて、どこの学校を卒業したのか、何の資格を持っているのか――。それが揃っていれば『立派な人間』と評価される。
 ひなげしは、そのどれも持っていない。
 勉強も得意な方ではなかった。両親はいない。高校も、これで中退だ。

 ひなげしは、教師を立ち上がらせる。

「おっ、なんだ。オレの言うことを聞く気になったのか?」
 いやらしい笑みが浮かんだその顔面に、渾身にナックルパートを叩き込んでやった――。

 こうして、ひなげしの高校生活は終わりを告げた。
 三学期を迎えることなく、ひなげしは僅かな蓄えを抱きかかえて、独り暮らしを始める必要に迫られた。

 どうにかして就職し、生活費を稼がなくてはならない。
 一月中に家探しをしたのは正解だった。まだ格安の物件が多くあったので、自分の貯蓄と相談をして、手ごろな場所に契約もできた。
 おんぼろのアパートだが、それでも養護施設で育ってきたひなげしにとって、それは自分だけの空間という最高の部屋に思えた。

 必死に会社の採用情報などを漁り、職に就こうと東奔西走したが、そもそもの採用資格の段階で落とされていく。
 高校卒業は最低条件だった。
 どんなに小さな会社でも、高校は卒業していないと採用以前に、書類審査で断られる始末だった。

 あの歯痒い教師の言葉が、脳裏に浮かび、ひなげしを苦しめた。
 自分は社会の底辺なのだと、思い知らされていく。

 結局、ひなげしは、アルバイトで食い扶持を稼ぐことにした。
 とある飲食店のウェイトレスだ。

「あたしがウェイトレスなんか、できっかな……」

 バイト面接に合格はしたものの、今まで粗野な生活をして来たひなげしは、接客を任されるウェイトレスという仕事に不安を持っていた。
 言葉遣いも綺麗な方ではないし、愛想笑いだって苦手だ。

 若い女の子は、大抵ウェイトレスとして雇われるとバイトの面接をした店長は言った。
 ひなげしは、調理場での仕事を希望したが、そこは男子で手が足りているという話だった。

 勉強もできない、なにも社会に対して力を示すことができるようなものを持っていないひなげしだったが、唯一彼女が得意としていることは料理だった。
 施設でお世話になった職員たちから、教わったのだ。

 勉強ができなくても、乱暴な女の子でもいい。
 でも、なにか技術を磨いておくといいよ。

 そう教わった。そして、ひなげしは料理ならばと、施設での料理担当をかって出た。
 そこで培った技術を活かして、飲食店でバイトをしようと思ったのに、残念ながら厨房には回されないようだ。

 それから一か月――。
 二月も終わり、もうじき春がくる三月……。
 ひなげしは、アルバイトを首になった。
 客からクレームが入ったのだ。態度の悪いウェイトレスがいると。
 言葉使いが乱れていて、愛想笑いのできないひなげしは、店長から首を宣告された。
 三月になって、新しいアルバイトが月々入って来たこともあるだろう。

 ひなげしは、また無職になっていた。
 自分の不甲斐なさに、崩れ落ちてしまいそうだったひなげしは、首を宣告されてから、ふらふらとでたらめに街を歩いて、気が付くと夜の公園にやってきていた。
 冷たい夜風が、ひなげしの肌を殴りつけていく。

 だが、それ以上に冷たいものを浴びせられたような気分だったひなげしは、寒風など、なんの感覚も与えてくれなかった。
 ベンチにでも座って、気持ちを整理したい。
 色々な理不尽なことが頭の中を、グチャグチャにしていくと、苛立ちとやるせなさが膨れ上がっていく。

「……?」

 そんな時だ。
 公園のベンチには先約が居たのを見付けた。
 男が、ベンチに横たわっていた。スーツを着込んでいて、サラリーマンのように見える。
 そのベンチに横たわる男の前に、軽薄そうな印象の男がしゃがみこんでいて、男のスーツのポケットをまさぐっている様子だった。

 どうにも不審な動きをしているその男を観て、ひなげしは一瞬でピンときた。
 あれは、酔っ払いなんかを狙っているスリの犯行だ。
 ベンチで寝ている男のポケットから、上等そうな財布が抜き取られそうになっていた。

「おいっ! なにしてんだっ!」
 ひなげしは、反射的に叫んでいた。
 それで男はビクリと驚き、こちらを見た。
 まだ若そうな男だ。スリは男から抜いたサイフを掴み、そのまま逃げだした。

 ひなげしは、その男を追いかけていた。
 自分でもなぜそんな行動をとったのか分からない。
 色々と鬱憤が溜まっていたせいだろうか。姑息な手段で金を得ようとしている男が許せなかっただろうか。
 ともかく、ひなげしはサイフを盗んだ男を全力で追いかけて、サイフを取り戻してやろうと考えていた。

 ひなげしのほうが、動きが早く、金網を乗り越えようとしていた男を捕まえ、そのまま背中に強烈な蹴りを叩き込んでやった。
 男はそれで、うめき声を上げて、無様に地面に転がった。
 サイフが手から零れたので、ひなげしはそれを素早く奪う。

 男が苦悶の顔をして立ち上がると、サイフは諦めたのか、脱兎のごとくその場から逃走した。

「ふう……」

 ひなげしは一息つくと、ベンチで寝ていた男のところへと戻っていく。
 サイフを拾って分かったが、高級ブランドのサイフだった。
 かなりの金持ちの予感がした。

 ベンチまで行くと、スーツ姿の男は相変わらず、呑気に眠っている様子だった。
 近づいてみて気が付いたが、男の髪はブロンドだった。
 日本人ではない様子だ。

「おい、起きなよ」
「……ううん」

 酔っ払いなのだろうか。こんな場所で眠りこけていたら、無法者にサイフを盗られるのは自業自得だ。
 ひなげしが、男の肩を揺すり、声をかけると、スーツの男が寝返りを打って、こちらに顔を向けた。

 男は若かった。
 まだ二十代前半くらいだろうか?
 着込んでいるスーツも、ブランドものの御高いものだ。
 これはスリからしたら、いいカモだろう。

「おいってば」
 ひなげしは、男を覗き込む。
 かなりの美形だった。色白の肌と、整った鼻すじ。西洋人らしい彫りの深い顔立ちは、俳優のようだ。
 美しい眉と唇――。眠りこけているその顔は、妙に色っぽい。

「おい、またサイフを盗られても知らないぞ」

 ひなげしは、サイフを男の横たわる胸元に、ぽんと投げるが、男は呻くばかりだった。
 知ったことか、とそのままにして、この場を離れることは容易だった。

 実際、ひなげしは大きく溜息をはいて、公園の外に向けて、一歩踏み出していた。

「…………」
「うう……」

 男はどこか苦しそうだ。
 蒼白い顔をしていて、貧血でも起こしているのかもしれない。
 これは救急車で呼ぶべき事態だろうか。

「ったく。救急車呼ぶから、ちょっと待ってな」
「……ま、まってくれ」

 スマホを取り出し、救急車を呼ぼうとしたひなげしを、男は止めた。
 流ちょうな日本語だったことに、ひなげしは少し驚いていた。
 そして、ゆっくりと身を起こす。
 ――と、共に大きな腹の虫が鳴いた。

 ぐぎゅるぅ。

「なんだよ、腹が減ってるのか?」
 ひなげしは、呆れた顔で肩を落とした。心配して損をしたと思ったのだ。

「食事が喉を通らなくてね……」
 男は蒼い顔で、むりやり笑顔を作ってみせた。
 精神的なもので、食欲がなくなってしまうようなことがあると聞いたことがあるが、男はしっかりと腹の虫をならしていた。

「腹は減るのに、料理を目の前にすると、まるで食欲がなくなるんだ」
「それで倒れてたのか?」
「面目ない。そういうわけなんで……救急車は勘弁してくれ」

 男はそういうが、まだ頼りない様子で、弱々しく笑みを浮かべていた。

「……ったく。あ……ちょっとまてよ」

 ひなげしは、自分の鞄の中にお弁当が入っているのを思い出した。
 本当は夕飯として食べるつもりだったお弁当だが、首になったショックで食べるのを忘れていた。
 飲食店の賄いメシでさえ代金を払わなければならなかったので、あまり金銭的に余裕がないひなげしは、それを渋り、毎日弁当を持参していた。
 弁当と言っても、おにぎり三つだけなのだが。

 ひなげしは、男の隣に腰かけ、鞄からお弁当を取り出す。
 タッパーに入った三つのおにぎりだ。
 白米に、青のりと天かす、そしてめんつゆを混ぜ合わせたもので握った、他愛ないおにぎりだった。

「これで良ければ食べるか?」
 そのおにぎりの入ったタッパーを、男に差し出す。
 男はまじまじとそのタッパーの中を覗き込み、そしてひなげしを見つめてきた。

 綺麗なブルーの瞳をしていて、まつ毛が長い。ハッキリ言って、イケメンという部類の顔立ちをしていた。

「これは?」
「見て分かるだろ。おにぎりだよ。残り物で作ったやつだけど」

 料理を目の前にすると、食欲がわかなくなると言った彼が食べてくれるのかは不明だが、盛大に腹の虫を鳴らしている彼を見放すのも気が引けた。

 彼はそっとタッパーの中のおにぎりをひとつつまみ上げると、それを一口食べた。
 そして、そのまま、もくもくと一個のおにぎりを食べきってしまう。

「美味しい……!」
「空きっ腹には何食べても美味いもんだろ」

 すっかり冷えているおにぎりだ。美味しいも何もない。

「もう一つ頂いてもいいだろうか」
「全部いいよ」

 男は二個目のおにぎりを掴むと、今度は勢いよくバクバクと豪快に頬張った。

「こ、こんな美味しいものを、初めて食べた……」
「大げさだな。外国人ってのは」

 ひなげしからすれば、手早く、そして安く仕上げた、天かすと青のりのおにぎりだ。
 天つゆと一緒に混ぜ込み、おにぎりにすると美味しいが、天つゆがないので、麺つゆを薄めて代用した。
 そんなおにぎりに、感激している様子の金髪の男性に、ひなげしは肩を竦める。

 あっという間に三つのおにぎりを平らげた男は、ぺろりと指についた米粒を舐めとり、笑顔を見せてくれた。

「非常に、美味しかった。君は命の恩人かもしれない」
「昔話にこんなのあったな」

 おむすびころりん、だったかそんな童話を思い出す。
 おにぎりを与えて感謝されるなんて、大した事でもないので、ひなげしはムズ痒くなった。

「じゃ、あたしもう行くから。もう倒れ込んだりしないでね」
「待ってくれ。名前を教えてくれないか。お礼をしたい」
「お礼されるようなことでもない」

 ひなげしはそう言って公園から足早に立ち去った。
 夜風が吹く公園に、金色の髪の男は一人残された。

 公園から立ち去っていくひなげしの背中をずっと見送っていた。
 とても、熱いまなざしで――。