卓也は静かな店内にスタッフたちの動き回る気配を感じとっていた。
不思議な事に目で見えなくても、わずかな空気の揺らぎや音の反響などで吹き抜けの天井やキッチンの方向などがわかった。むしろ、見えないからこそ実際より高く開放感のある天井があるかのようで、暗く不快に思っていた店内も、目を凝らして見る必要がない今はかえってストレスにならない。
「なんだか、時間がゆっくり流れてるみたいだね」
「ん」
「目がものを見ないぶんなのかな、さっきより料理の匂いが強く感じるかも?」
「そう、かも」
すっ、とテーブルの側に人の気配がしたのと同時に、こくこくこく、とグラスに何かを注ぐ音。二人はつい、ごくりと喉を鳴らした。
「ごめんなさい、私、お酒は飲めないんです」
「こちらはミネラルウォーターでございます。ワインはいかがなさいますか?」
「遠慮するよ。悪いけどまだ警戒してるんだ」
「かしこまりました」
卓也の右手がたどたどしくグラスのほうへ伸びると、スタッフがさも当たり前のようにその手をとって目的地へと導く。目隠しの時には驚きの声を上げた卓也であったが、これには何も言わなかった。目隠しが初手の衝撃という事を差し引いても、手を添えられて驚かないということはつまりそれ程に自然であったという事なのだろう。
別のスタッフが一皿目を運んできた。気配でテーブルの上が変化してゆくのを感じる。食器が置かれる音はなく、品の良い配膳だった。スタッフの衣服が体の動きに合わせて機敏な音を立てている。
「ありがとう。わ! スプーンの手触りがすっごくいい! 陶器ですか?」
「いいえ、銀製ですが、丸みのある作りのものを使用しています。こちらはこのスプーンひと匙で味わって頂くアヴァン・アミューズでございます」
スタッフにスプーンを渡された麻友は、その手触りの良さに感激する。食器の感触など、普段は気にも留めない麻友だが、やはり視覚の情報がないぶん、他の感覚に気付きやすいようだ。スタッフは慣れた様子で手を添えたまま、麻友の口に料理を届けた。
「おいしい! なにこれ! 体温と同じ温度! 温かいとか冷たいと感じないの! すっごい絶妙!」
麻友がまたも驚きの声をあげた。グラスを放した卓也の手にも同じ陶製のスプーンが渡され、卓也もそれを口にした途端に表情を変えた。
「うっま! 口に入れた瞬間になくなった……すげえ。なんだコレ」
「何かお野菜のスープを、茶わん蒸しみたいにした感じだよね」
「ああ、そういわれてみると茶わん蒸しっぽい。でも甘くないフルーツみたいな味もする。洋風だな」
「トマトじゃない? それにエビのダシと卵。ウエイターさん、正解は?」
弾む声で麻友がスタッフに答えを求めた。
「はい。こちらはトマトのヴェロアでございます」
「ヴェロア?」
「ヴェロアはフランス語でベルベットのことでございまして、その名でこの滑らかな舌触りを表現しております。調理方法は茶碗蒸しでほぼよろしいかと」
「なるほど、フレンチ茶碗蒸しか」
「たっくん、どうする? 帰る?」
初めて味わったヴェロアにすっかり毒気を抜かれた卓也は、自身の発した「一口だけ」の言葉をすっかり忘れていた。暗闇に間の抜けた沈黙が流れる。
「え? ああ、ううん。食べる」
「ふふっ」
「ありがとうございます。では次のお料理をお持ちいたします」
それから運ばれてきた料理もヴェロアに劣らず個性豊かなものだった。いずれも初めて味わう美味しさで、麻友と卓也は舌触りや香り、味などを頼りにした料理当てを楽しんだ。あんなに怒っていた卓也も、視覚を奪われた不安などどこかへ吹き飛んでいたし、次に何を味わえるかという期待のほうが膨らんでいた。
上機嫌になった卓也がワインを注文すると、それに合わせるかのように何かを油で揚げる音と香ばしい香りが一帯に広がった。
「メインディッシュは揚げ物か」
「だね! この音といい匂い、絶対それ」
どうやらすぐ側に調理台があるようで、荒々しい大きな音を立てていた油が徐々に繊細な音に変わってゆく様子が聞き取れる。
「揚げたてをお召し上がりください」
テーブルに置かれた皿のあたりから、熱気にふんわりと乗せられて食欲をそそる匂いがたちこめる。スタッフに手を添えられてナイフを入れると、衣の砕ける小気味良い音が聴覚を刺激し、ナイフの刃先から指へ、そして脳へと香ばしさが味覚として伝達されてくるようだった。
「音やサクサク感だけで味を感じるなんて、今までなかったよなぁ。たまにはこういうのも面白いな」
ナイフから伝わる感触は衣の中のものがとても柔らかいことも示していた。卓也はその切り分けた一切れを一刻も早く味わいたいと顔を乗り出す。
「これ……めちゃめちゃうまい!」
スタッフに介添えされてそれを口に運んだ卓也が弾んだ声で言った。あまり行儀のいいものではないが、話すのも食べるのも止まらないというふうに、次の一切れを口にしながら感動を言葉にする。
「さっきまでの料理は高級な感じで複雑な味や新鮮な舌触りとかが良かったけど、これは逆だ。単純に、揚げたて衣の優しい歯触りがいい。なにより、中身の魚がホクホクでなんだか定食屋みたいなうまさだな! 塩コショウとソースって超定番の味! シェフがかっこつけだけじゃないってところを見せてきたって感じだよな! こんなの、素材と腕に自信がなきゃ無理だろ、なあ、麻友?」
「ほんと。美味しいねこれ。舌平目とかかな?」
「いいや、この定食屋みたいな味は分かるぞ。間違いない、アジフライだ!」
自信ありげな卓也の声が、暗闇に明るく響いた。
不思議な事に目で見えなくても、わずかな空気の揺らぎや音の反響などで吹き抜けの天井やキッチンの方向などがわかった。むしろ、見えないからこそ実際より高く開放感のある天井があるかのようで、暗く不快に思っていた店内も、目を凝らして見る必要がない今はかえってストレスにならない。
「なんだか、時間がゆっくり流れてるみたいだね」
「ん」
「目がものを見ないぶんなのかな、さっきより料理の匂いが強く感じるかも?」
「そう、かも」
すっ、とテーブルの側に人の気配がしたのと同時に、こくこくこく、とグラスに何かを注ぐ音。二人はつい、ごくりと喉を鳴らした。
「ごめんなさい、私、お酒は飲めないんです」
「こちらはミネラルウォーターでございます。ワインはいかがなさいますか?」
「遠慮するよ。悪いけどまだ警戒してるんだ」
「かしこまりました」
卓也の右手がたどたどしくグラスのほうへ伸びると、スタッフがさも当たり前のようにその手をとって目的地へと導く。目隠しの時には驚きの声を上げた卓也であったが、これには何も言わなかった。目隠しが初手の衝撃という事を差し引いても、手を添えられて驚かないということはつまりそれ程に自然であったという事なのだろう。
別のスタッフが一皿目を運んできた。気配でテーブルの上が変化してゆくのを感じる。食器が置かれる音はなく、品の良い配膳だった。スタッフの衣服が体の動きに合わせて機敏な音を立てている。
「ありがとう。わ! スプーンの手触りがすっごくいい! 陶器ですか?」
「いいえ、銀製ですが、丸みのある作りのものを使用しています。こちらはこのスプーンひと匙で味わって頂くアヴァン・アミューズでございます」
スタッフにスプーンを渡された麻友は、その手触りの良さに感激する。食器の感触など、普段は気にも留めない麻友だが、やはり視覚の情報がないぶん、他の感覚に気付きやすいようだ。スタッフは慣れた様子で手を添えたまま、麻友の口に料理を届けた。
「おいしい! なにこれ! 体温と同じ温度! 温かいとか冷たいと感じないの! すっごい絶妙!」
麻友がまたも驚きの声をあげた。グラスを放した卓也の手にも同じ陶製のスプーンが渡され、卓也もそれを口にした途端に表情を変えた。
「うっま! 口に入れた瞬間になくなった……すげえ。なんだコレ」
「何かお野菜のスープを、茶わん蒸しみたいにした感じだよね」
「ああ、そういわれてみると茶わん蒸しっぽい。でも甘くないフルーツみたいな味もする。洋風だな」
「トマトじゃない? それにエビのダシと卵。ウエイターさん、正解は?」
弾む声で麻友がスタッフに答えを求めた。
「はい。こちらはトマトのヴェロアでございます」
「ヴェロア?」
「ヴェロアはフランス語でベルベットのことでございまして、その名でこの滑らかな舌触りを表現しております。調理方法は茶碗蒸しでほぼよろしいかと」
「なるほど、フレンチ茶碗蒸しか」
「たっくん、どうする? 帰る?」
初めて味わったヴェロアにすっかり毒気を抜かれた卓也は、自身の発した「一口だけ」の言葉をすっかり忘れていた。暗闇に間の抜けた沈黙が流れる。
「え? ああ、ううん。食べる」
「ふふっ」
「ありがとうございます。では次のお料理をお持ちいたします」
それから運ばれてきた料理もヴェロアに劣らず個性豊かなものだった。いずれも初めて味わう美味しさで、麻友と卓也は舌触りや香り、味などを頼りにした料理当てを楽しんだ。あんなに怒っていた卓也も、視覚を奪われた不安などどこかへ吹き飛んでいたし、次に何を味わえるかという期待のほうが膨らんでいた。
上機嫌になった卓也がワインを注文すると、それに合わせるかのように何かを油で揚げる音と香ばしい香りが一帯に広がった。
「メインディッシュは揚げ物か」
「だね! この音といい匂い、絶対それ」
どうやらすぐ側に調理台があるようで、荒々しい大きな音を立てていた油が徐々に繊細な音に変わってゆく様子が聞き取れる。
「揚げたてをお召し上がりください」
テーブルに置かれた皿のあたりから、熱気にふんわりと乗せられて食欲をそそる匂いがたちこめる。スタッフに手を添えられてナイフを入れると、衣の砕ける小気味良い音が聴覚を刺激し、ナイフの刃先から指へ、そして脳へと香ばしさが味覚として伝達されてくるようだった。
「音やサクサク感だけで味を感じるなんて、今までなかったよなぁ。たまにはこういうのも面白いな」
ナイフから伝わる感触は衣の中のものがとても柔らかいことも示していた。卓也はその切り分けた一切れを一刻も早く味わいたいと顔を乗り出す。
「これ……めちゃめちゃうまい!」
スタッフに介添えされてそれを口に運んだ卓也が弾んだ声で言った。あまり行儀のいいものではないが、話すのも食べるのも止まらないというふうに、次の一切れを口にしながら感動を言葉にする。
「さっきまでの料理は高級な感じで複雑な味や新鮮な舌触りとかが良かったけど、これは逆だ。単純に、揚げたて衣の優しい歯触りがいい。なにより、中身の魚がホクホクでなんだか定食屋みたいなうまさだな! 塩コショウとソースって超定番の味! シェフがかっこつけだけじゃないってところを見せてきたって感じだよな! こんなの、素材と腕に自信がなきゃ無理だろ、なあ、麻友?」
「ほんと。美味しいねこれ。舌平目とかかな?」
「いいや、この定食屋みたいな味は分かるぞ。間違いない、アジフライだ!」
自信ありげな卓也の声が、暗闇に明るく響いた。