「倉橋さんは、本当に俺に見覚えが無いの? 前に一度会ってるのに?」

 前に会った?……だとしたら三神さんが越して来る前の話だろうけど、一体どこで……。
 いくら考えても思い出せなかった。
 私の生活はとても地味なものだし、雪香のトラブルに巻き込まれる目は平凡な毎日だった。
 人との交流なんて、職場以外無かったのだし。

「……思い出せないみたいだな、予想していたけどね。じゃあこの名前は?」

 三神さんは、白い封筒を私の目の前に突き出した。
 さっき見たもので、三神早妃と書いてある。

「知らない……でも三神さんの家族なんじゃないの?」

 三神さんの表情が険しくなる。私の答えは、彼の怒りを買ったようだった。

「本当に自分のことばかりだな」
「……どうして? その女性に何の関係が有るの?」
「彼女は君の隣の部屋に住んでたんだよ」

 隣の部屋……そう聞いても三神早妃という名前には、やはり覚えがない。
 同じアパートに住んでいても、めったに会わないし、表札が出ていない限り名前を知る機会もない。
 それでも隣の部屋というヒントから、一人の女性の姿を曖昧ながら思い出した。

 いつも俯いていたから、はっきりと顔を思い浮かべるのは無理だけれど。
 いつの間にか居なくなっていた彼女。
 彼女が三神早妃なのだろうか。そうだとして三神さんとどんな関係なのだろう。
 名字から他人じゃ無いと分かるけど……。

「思い出した?」

 三神さんの問いかけに私は頷き、なんとか声を発した。

「隣に女性が住んでたのは知ってたけど、私は何の関わりも無かった……私は彼女に何もしていない」

 恐怖と理不尽な状況への憤りで、体が震える。
 そんな私を見下ろしていた三神さんは、背筋の凍るような冷たい目をしながら言った。

「確かに君は何もしなかった」
「……じゃあ、どうして?」

 なぜ私をこれ程憎むのか。混乱する私に、三神さんは吐き捨てる様に言った。

「君は本当に何もしなかった、無関心だった。早妃が助けを求めてる時も見向きもしないで見捨てた」
「え……」

 助けを求めてた? 見捨てた?……意味が分からない。
 私は彼女に、声をかけられたことすら無かったのだから。

「見捨てたって……私、何も言われて無い、彼女が何かに困ってる事すら知らなかった」

 顔も曖昧にしか思い出せない相手なのに、彼女の身に起こっていた出来事なんて知りようが無かった。