僕は、逢う魔が時が好きだ。物体の輪郭がはっきりして、普段見えないものまで見えるからだ。街路樹の傾き、アスファルトのヒビ、植木鉢の歪み、前を行く人のマフラーの産毛。この時間にしか出会えない、違和感なき異常が、ぼくは大好きだ。
 死んでしまった祖父は、「魔に出逢わないために、夕方は出歩いてはならない」と言っていたが、いまどき「魔に遭う」ことを恐れる人もいないわけで。そもそも「逢う魔が時」という単語自体が死語に分類されそうな気がする。どちらにせよ、今日も僕は夕方になれば出歩くし、明日も、その先もそうするだろうということは確かだ。

***

 1日の始まりは、幼なじみが家に上がり込んでくるところから始まる。

「まだ朝ごはん食べてるの! 急いで!  早くしなきゃ!」

 そう知らせてくるのは、幼馴染の加賀田ハナだ。幼稚園から中学まで、ずっと同じクラスという奇跡的な腐れ縁だ。
 身長は僕より少し低いが、脚は僕より長い。数学と体育の成績は僕の方が上だが、そのほかの全ての教科は全て彼女の方が優っている。艶やかなロングの黒髪と人形のような顔立ちは、まさに大和撫子と呼ぶにふさわしい容姿だが、性格には少し問題がある。

「急いで! あたしまで怒られちゃう!」

「今日って何かあったっけ?」

 早く早くと急かされて、僕はパンを口に詰め込んだまま立ち上がる。行ってきます。と台所にいる母と、黙って新聞を読んでいる父に言ってから、家を飛び出す。
 腕時計を確認すると、朝8時少し前。

「なんで急いでんの?」

 慌てている僕をからかうように笑みを浮かべて、彼女は言った。

「何もないわよ。ただ、2人きりでのんびり学校に行きたかっただけ」

 可愛らしい顔でそんなことを言われると、ちょっとだけ胸が跳ねる。

「もちろん嘘」

「だよな」

 こんなやりとり、もう何年もしているというのに。

「いちいち驚いた顔するから、キミはからかいがいがあるね」

「そりゃぁどうも」

 彼女の抱えている性格上の問題。それは、事あるごとに嘘をつくというものだ。

「あ、そういえば、お弁当忘れてたよ」

「……もう騙されないからな」

 鞄を開けて中を確認すると、確かに弁当は入っていなかった。

「あたしが多めにお弁当作ってなかったら、お昼ご飯抜きになるとこだったよ? 分けてあげるから、一緒に食べよ」

 彼女は嘘つきだが、たまに本当のことを言う。だから彼女の言うことをまるっきり無視することもできないのが、歯がゆい。

「そういえば、今日も夕方の探検するの?」

「うん。逢う魔が時を楽しまないことは、人生の損失だ」

「そっか。じゃあ今日も神社に行くんだ」

彼女はいたずらっぽい笑顔を僕に向けた。

「昨日、神社に行ったでしょ」

「えっ」

なぜそれを彼女が知っている?

「ひとりぼっちは、寂しかったでしょ」

「別に。そんなことねーよ」

「先に言っておくけど、あたし、しばらく用事あるから」

「知ってる。別にひとりでもなんともないし」

 目をそらして答える僕を見て、彼女は笑い声をあげた。

「本当に、キミは嘘をつくのが下手だね」

***

 僕は、お気に入りの時間をめいっぱい楽しむための方法を知っている。1人きりになること、駄菓子屋でラムネを一本だけ買うこと。最低限この2つを守れば、逢う魔が時はより一層素晴らしいひと時になる。町を見下ろす神社の石段は、逢う魔が時を楽しむベストスポットだ。ラムネが売っている駄菓子屋はそこへ向かう途中にある。神社は町の一番外れにあって、あまり頻繁には行ったりしない。でも、ここ2、3日は夕日が綺麗だから、僕はしばらくそこに通おうと思っている。
 1人で過ごせるこの時間が、寂しいような。嬉しいような。
 秋もすっかり冬に塗り変わりつつあり、紅葉が枯葉に変わり始めたこの頃。北風で、駄菓子屋の薄いガラスが、バタバタと揺れた。

「寒くなってきたから、ラムネじゃなくてこっちを飲んだらどうだい?」

 駄菓子屋のおばあちゃんが、缶のココアを出してくれたが、断った。

「これが、いいんです」

 最近、一緒に探検に行ってくれなくなった幼なじみの顔を思い出す。彼女は今、何をしているのだろう。

***

 神社へは、学校から歩いて30分ほどで着く。石段の麓に着いた時、すでに僕は少し疲れを感じていた。石段を見上げて、このまま帰ってしまおうかとも思った。しかし、ここを乗り切れば素晴らしい時間が待っているのだ。と、自分を奮い立たせて石段を登り始める。ここまできたのにこのまま帰るのも癪だという思いもあった。
 急な石段をひとつひとつ踏んで、登っていく。階段中ほどの踊り場に着いた時、石段を下ってくる影に出逢った。顔を上げ、影の主を見て、僕は固まってしまった。なぜなら、そこにいたのは人間ではなかったからだ。
 純白の着物、熟れた林檎色の帯、白い鱗に覆われた頭部は首から先が全て細長く、蛇のようである。手すりに触れた手にはまばらに鱗が貼りついて、着物の裾から尾の先が見えた。
 影の主は、僕を見て、ハッとしたように着物の袖で口元を隠した。紅い眼が、探るように僕を睨む。

「あ、あの」

 ラムネの瓶を持ち上げて見せると、蛇女は、何かに納得したように警戒を解く。それを見て、僕はこんなことを言った。

「これ、飲みますか?」

 どうしてこんなことを言ったのかわからない。常識外の異形と出逢ったのに、なぜ落ち着いていられるのか。どうして、この蛇女に見覚えがあるのか。何もわからないまま、僕たちはまるで、昔からの知り合いのように、並んで石段に腰かけた。
 石段から見渡せる町が、傾く光で輪郭を際立たせる。遠くに見える中学の校舎からは、部活終わりの生徒たちがぞろぞろと吐き出され、町の中央を横切る線路の上を、電車が通り抜けていく。ふと隣を見ると、蛇女の鱗がすりガラスのように透けて、鱗の下の肌色がうっすらと見えた。紅い眼が心地好さそうに細まり、唯一人の形を残している手は、まばらに光を反射する。
 初対面の女性に見惚れていたのだと気づき、僕はなんだか気まずくなった。
誤魔化すためにぶら下げていたラムネの栓を開けると、瓶の中にビー玉が落ちて、涼しげな音を立てた。泡立ち、溢れてくるラムネに慌てて、瓶に口を当てると、彼女はそんな僕を見て、声を立てずに笑った。なんとなく距離が近づいた気がして、僕は彼女に問う。

「君、名前は? どうしてここに?」

「ッ……」

 空気が喉から漏れる音がするだけで、声は出ない。自分は声が出ないのだと思い出したかのように、彼女は懐から紙束と鉛筆を取り出した。なにやらゴソゴソと書き込むと、束から一枚紙を引き抜いて、僕に差し出す。

『名前も、理由も、今はお伝えできません。でも、いつかきっとお話ししますわ。だから、明日もまた来てくださる?』

僕は、それを読んで、しっかりと頷く。

「もちろん。あしたも、あさっても、会いにくるさ」

 初対面の、人間ではない存在と、また会う約束をした。だって、夕陽に染まる彼女はとても美しかったし、僕は、声の出ない彼女に何かをしてあげたいと思ってしまったのだ。

またあした。
そう言おうとした時、彼女は石段を駆け上がっていってしまった。
また、あした。
遠ざかっていく背中にポツリと投げかけて、僕は神社を後にした。

***

 放課後。またあの時間まで自習でもしようと立ち上がると、ハナが声をかけてきた。

「今日も自習するんだ」

「うん。ハナこそ今日も用事? 最近毎日あるみたいだけど、なんなの?」

「実はね、神社で巫女の手伝い始めたんだ」

「えっそうなの」

「ウソだよ」

 だから昨日神社にいたことを知ってそうな口ぶりだったのか。という、僕の納得を返してくれ。

「用事のことは、もう少ししたら教えてあげるからさ」

 彼女はそう言って立ち去ろうとしたが、ふと止まって、人差し指を立てた。

「ひとつだけ、用事について教えてあげよう。今日から男の人と待ち合わせ。じゃあね」

 彼女を見送った僕の頭は、不安でいっぱいになった。彼女は一体何をしているのだろうか。怪しい人に騙されたりしていないだろうか。モヤモヤした気持ちを抱えたまま自習する気にもならず、学校を出た。
 駄菓子屋への道を遠回りしながら考える。そういえば、彼女は用事について、今日まで一切教えてくれていなかった。反社会的な行為をする人間ではないと思っているが、少し心配だ。いやいや、都会の学校へ行くために家庭教師を探していて、やっと見つけたから今日から授業が始まるとか、牛乳配達の面接に、今日やっと漕ぎ着けたとか……
 思考の袋小路に迷い込みそうになった頃、僕は駄菓子屋に到着した。店のおばあさんからラムネ買いながら、悩みを打ち明ける。

「僕の友達が、最近何かで忙しそうなんですよ。助けてあげたいんですけど、何をしていいかわからなくて」

「その子に、何してほしいか聞いてみればいいんじゃない?」

「そんな正直に答えてくれるほど、素直なやつじゃないんですよ」

「それは困ったねぇ」



 買ったラムネを両手にぶら下げて、神社の階段を上った。電車が町を横切っていくのを見ていると、いつの間にか、白い着物が隣に座っていた。

「やあ、約束通り今日もきたよ」

紅い目が、嬉しそうに細まる。

「今日は、一緒に飲もうと思って二本持ってきたんだ」

ラムネの瓶を見せると、彼女は首を横に降る。

「あ、もしかして炭酸苦手とか? ごめん、そこまで気が回らなかった」

 紙と鉛筆を取り出して、何か書くと僕に見せてくる。

『気持ちは嬉しい。でも、清められたもの以外は口にしちゃいけないの』

「そうなんだ……」

『それより、色々と聞きたいわ。あなた自身のこと、あなたの周りの人のこと、あなたが抱えている悩み、他にもたくさん』

 色々と聞きたいのは僕の方だ。君はどうしてここに? 君は何者なんだ? 君はここで何をしているんだ? でも、そんな無粋な質問によって、始まったばかりの逢瀬が打ち切られてしまうのは、嫌だった。距離が近づいていけば、いつか質問できる時が来るだろう。そう、気持ちの整理をつけて、僕は会話に意識を向けた。

「実は、友達が大変そうなんだけど、何をしてあげたら良いかわからないんだ」

『その子が誰かに騙されて、危ないことをしていそうで不安?』

 そこまでは言っていない。なのに、なぜこの子は僕の考えていることがわかる? 僕の表情を見て、彼女はにこりと笑った。

『だって私、神様の使いだもの』

 その後も、僕たちのゆったりとしたコミュニケーションは続いた。僕が話して彼女が書いて、彼女が聞いて僕が答えて。傾いた日光が燃え上がり始める頃、彼女は立ち上がった。

『今日はもう時間だから』

 それだけ書き残して立ち去ろうとする彼女に投げかける。最初の質問。

「君の、名前を教えて欲しい」

『いずれ、わかるわ』

 階段を駆け上がっていく背中には、やはり見覚えがあるような気がした。


***


 ゆっくりながらも、なぜかもどかしさを感じないコミュニケーションを積み重ねていくうちに、彼女との距離はだんだんと近づいていった。
 彼女は、祈祷をするために神社に毎日通っているらしい。この前に言っていた「神様の使い」というのは嘘で、本当はただの蛇女なのだと言っていた。でも、彼女が不思議な力を持っていることは確かで、僕の悩みや、昼間の様子を見抜き、適切なアドバイスをくれた。幼馴染に関する悩みは「本人に聞け」と言うばかりで答えてくれなかったが、少なくとも危ないことはしていないようだ、と教えてくれた。

 待ち合わせを始めてからしばらく経ち、木の葉がすっかり落ちきった頃、彼女は僕に言った。

『明日で、会うのは最後になるわ』

「どうして?」

『私という存在は、明日にはあなたの前から消えてしまうから』

「どういうこと? 全然わからない」

 人差し指を立てて僕を黙らせて、彼女は鉛筆を走らせる。

『最後の予言をするわ。明日、あなたは幼馴染と、この神社で待ち合わせをする。あなたと幼馴染は、待ち合わせするだけでは絶対に会えない。だから、私があなたを、幼馴染のところまで案内するわ』

 突然のことで、僕は考えを整理しきれていなかった。

『私とは会えなくなるけど、会えなくなるわけじゃないから。安心して』

 何も言わなくなった僕を置いて、彼女は階段を上っていってしまった。僕は、彼女が立ち去った後も、しばらく階段の下を見つめていた。

***

次の朝、ハナが言った。

「今日の放課後、話したいことあるからさ、神社で待ち合わせね」

「今じゃダメなのか?」

「うん。放課後に、神社じゃないとダメなこと」

「そうか」

 蛇の予言は的中して、驚いた。しかしそれよりも、唐突な呼び出しの内容の方が気になった。
 落ち着かない気持ちのまま授業をやり過ごして、放課後に神社へ行くと、彼女が待っていた。白い着物を着て、天藍石色の帯をしている。傾いた光の中で、輪郭をくっきりとさせて立っている。
 こっちへ来いと手招きをして、階段を上っていってしまう彼女を慌てて追いかけて、初めて彼女と一緒に鳥居をくぐる。慣れた足取りで本殿へ入っていく彼女に着いて、神社の奥へ。立ち入ったことのないほど奥。外よりも、もっと暗く、狭い廊下を歩く。ぎしぎしと悲鳴をあげる床を踏み、苔の生えた中庭を通り過ぎて、たどり着いたのは、四隅を篝火に囲まれた小さな舞台。しめ縄に囲われた、細く古い木の前にあるその舞台の中央に、彼女は静々と進んでいく。
 この舞台にはヒトが立ち入るべきでない。そう察した僕は、舞台の一歩手前で彼女を見送った。
 舞台の上で、彼女は静かに舞い始めた。着物の袖が揺れ、細長い首がゆらりと振られる。篝火の明かりに白い鱗が照らされて、橙色に透けた。目の前にある細い木に捧げられる舞。この木が、この神社の御神体なんだな、と僕は今初めて理解する。
 舞い踊る彼女の、なんと美しいことか。僕は、彼女の美しさに、場の雰囲気に、ただ圧倒された。
しばらくすると、舞っている彼女の周りにキラキラとしたものが散り始めた。汗が飛んでいるのかと思ったが、目を凝らしてみると彼女の鱗が剥がれ、キラキラと散っているのだった。鱗が剥がれて、散って、その下にあった肌が露わになる。長い頭は徐々に人の形を取り戻し、彼女の足元に、鱗が雪のように積もった。異形が徐々に人の姿になるにつれて、僕は色々な疑問と既視感の正体を理解した。

 夕方に用事がある幼馴染と、夕方にしか現れない蛇女。
 昼間一緒に行動している幼馴染と、僕の昼間の様子をよく知っている異形。
 唐突に約束を取り付けた幼馴染と、僕の前から姿を消してしまう魔物。

全てが、繋がった。

 神様に捧げる舞を終えた彼女は、もう異形ではない。ただのヒトとなった彼女に、舞台に上がる資格は無い。
 舞台から降りてくる彼女になんて声をかけたらいいかわからなくて、僕はただ黙って彼女のことを見つめていた。

「これが、神社じゃないと話せないこと。これが、あなたにずっとついていた嘘」

「そっか」

「説明する必要があるね」

 彼女は、ここしばらくのことについて教えてくれた。
 逢う魔が時になると、身体中が鱗に覆われて、ヒトではなくなってしまうようになったのはここ最近。冒険に付き合ってくれなくなった頃から。
 両親と共にこの神社に来て、神主から舞を奉納するように頼まれた。
この町に古くから伝わる言伝え。
ヒトならざるものだけが立ち入ることを許された舞台。そこで神様に舞を奉納できるのは、町の娘から毎年ひとり発生する、蛇巫女のみ。
蛇巫女になった娘に、選択肢は無い。神に魅入られたというのは、そういうことだ。ハナは、人知れず神様に身を捧げる準備をして、今年の巫女として、役割を果たした。

「まさか君があそこにいるなんて、思いもしなかったけどね」

 白い着物と、濡れたようにしなやかな黒髪。潤んだ瞳が、僕を見上げる。
首に、彼女の腕が巻きつく。ゆっくりと、蛇が獲物を絞めるように。僕の耳元で彼女がささやく。

「この舞に立ち会った男は、蛇巫女と永遠に結ばれるらしいよ」

「えっ」

いつもより近くに見えるハナの顔は、夢のように綺麗で、さっきまでの出来事がうそみたいに、いつもみたいに笑っていた。

「うそ」

「安心した。こんな嘘つきとずっと一緒なんて、一生落ち着けないよ」

僕の、精一杯の嘘。

「全く君は、嘘をつくのが下手だなぁ」

篝火のもとで、2つの影が1つに重なる。彼女は嘘つきで、僕も嘘つきで。



でも僕たちの間に、何一つとして嘘は無かった。