知らない女に寝取られ彼氏にフラれようが、泣きはらして瞼がいいように腫れ上がろうが、日常は当たり前のようにやってくる。腫れた目のまま講義に出席するのも嫌で伊達メガネをかけてきたのだけれど、余計に目立ってしまっていた。
「何、その眼鏡。似合うじゃん」
普段かけもしない眼鏡にすぐさま反応を示したのは、ゼミが一緒の幸恵だ。何かあったのかとワクワクした顔を向けられたけれど、楽しい話題など今の私には皆無だ。
「この件に関して触れないで……」
隣に座った幸恵にどんよりとして返せば、瞼の腫れに気がついて口籠る。それでも、彼氏と喧嘩でもした? なんて訊かれて、生傷になったばかりの部分が痛すぎてぽろぽろ涙が止まらない。慌てた幸恵に泣きついてみたけれど、すぐに講義が始まってしまい、愚痴は中途半端に中断されてしまった。
加え、講義が終わると、今日はこの授業だけですぐにアルバイトの時間だからと、幸恵は慌てたように授業道具をバッグにしまっている。
「今度、ゆっくり聞くからね」
申し訳程度にそう言って、幸恵はさっさと教室を出て行ってしまった。
「薄情者~」
恨めしい声と顔を向けてみたところで、急いでいる彼女に届くはずもなく。結局私は、今日もこの神社にやってきた。
「どうして浮気なんてできるんだろ。誠実さの欠片もないじゃん。こっちはさ、ひたすら連絡を待ってさ、邪魔にならない程度にLINEしてさ。結構気を遣ってきたのに。その仕打ちがこれだよ。信じられないっ」
いつものようにご神木様に寄りかかるように座り、浮気相手に彼を取られてしまった悲しみや愚痴を延々と話し涙を流していた。しばらくそうしていると、サクサクッと枯葉を踏む音が境内の方角から聞こえてきて驚いた。
人がいた!?
泣き言を盛大に漏らしていたことに羞恥心が湧き上がり、ぱっと立ち上がり直立不動になる。それから、音のする方を窺うようにして見た。
「こんにちは」
枯葉を踏み鳴らして現れたのは、多分同じくらいの年齢だろう男性だった。
「こ、こんにちは」
屈託なく笑顔で話しかけられて、条件反射のように挨拶を返した。そのすぐ後には、初対面の相手に大きな独り言を聞かれてしまったんじゃないかと、焦りに攻撃的な口調になってしまう。
「な、なにしてるんですかっ」
何をしていようがその人の勝手ではあるのに、ここに人が来ることなどお正月くらいのものだから、あまりに驚き過ぎて責めるように言ってしまった。
「えーっと。散歩です」
私の言い方がきつかったのは明らかで、現れた男性はちょっと引き気味だ。自分で勝手に愚痴っていたというのに、それを聞かれてしまったかもしれないからって、他人にきつく当たるなんてどうしようもない。
現れた男性は、なんとも穏やかな表情をしていて。散歩という言動が似合い過ぎるほどだ。なんというか、第一印象の同じ年齢という枠を超えて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「ここ、落ち着くし、いいですよね。あ、僕、神木と言います」
すんなりと名乗られて、それはどうもという具合に小さく頭を下げる。屈託なく話し掛けてくる声質はソフトで、この声で絵本を読まれたら子供は幸せだろうな、などと思った。
そんな神木さんの雰囲気に、さっきまでいきり立ち、大きな独り言を聞かれて羞恥に穴があったら入りたいという思いに駆られていた感情は、スーッと鳴りを潜めた。まるでこの神木さんという男性の持つ穏やかな雰囲気が、私にも伝播してきたみたいに、懐かしいような、親しみのある雰囲気が心を解きほぐしていった。
「N大に通うために、四月にこの町に越してきたんです」
彼は訊かれてもいないのに、近所の知人にでも会ったような口ぶりで話す。
N大は、私と同じ大学だ。もしかしたら、どこかですれ違ったりしていただろうか。四月に越してきたということは、やはり私と同じ年齢ということだ。学部はどこだろう。見かけたことがないということは、理系だろうか。理系の校舎は、私のいる文学部のある校舎から離れた場所に建っている。
「私もN大ですよ」
何か情報を聞き出したいという思いもあってそう口にしたのだけれど、そうですか。というように、神木さんは穏やかに微笑むだけだ。その表情を見てしまえば、大学で何を専攻していようが、そんなことはどうでもいいように思えた。
「ここ、私のお気に入りの場所なんです。ここに来ると、気持ちの整理もできるし、心がぐちゃぐちゃに波立っていても、少しずつ穏やかになるんです」
「どうしてですか?」
不思議そうに訊ねる顔に向かって、すぐそばに聳え立つご神木様に触れる。
「ご神木様です。私が赤ちゃんの頃よりも、もっとずっとずっと昔からここに生きて、私たちを見守ってくれている木です。このご神木様に会いに来ると、癒されるんです」
愛しむように触れながら話して、咄嗟に何を言っているんだ。とうっとりしながら話す自分に引かれていやしないか彼の表情を窺った。彼の瞳は、優しく優しく垂れさがっていた。神木さんは、こういう話を馬鹿にしたりからかったりするようなタイプではないのだろうと、その表情にほっとする。
「何かあると、私はいつもここでご神木様に話を聞いてもらっているんです」
と言っても、愚痴ばかりだけれど……。
「そうですか。じゃあ、僕もいろいろと聞いてもらおうかな」
「悩みを話すと、スッキリしますよ。残念ながら、答えは返ってきませんけどね」
語尾に笑いを付けると彼も笑う。
「そうだ。いい答えが返せるかどうかわかりませんが、よかったら僕もお話を聞きましょうか?」
そう言って、彼は自然と境内の方へ足を向けた。それに倣うように私もあとをついていき、二人で境内の階段に腰かける。拳三つほど空けて座った距離は、名前しか知らない彼への警戒心だ。
そんな風に離れて座っても、今朝幸恵に愚痴れなかったというのもあり、誰かに話したいという思いはあった。普段なら見ず知らずの初対面の男性相手に失恋話を愚痴るなんて、考えられない。考えられないはずなのに、……どうしてだろう。話してごらん。そう言うように瞳をのぞき込まれると、初対面だとか、失恋話は恥ずかしいだとか。そんなことは全て些末に思えて、私の口はスルスルと悲しく悔しい感情を彼に吐露していた。
「辛い思いをしましたね」
話ながらグズグズと涙を流すとハンカチを貸してくれて、子供みたいに泣きじゃくる私の背を優しく撫で、何度も何度も、大丈夫ですよ。と声をかけられた。そうやって、気がつけば夕刻を前にして、私の心は随分とスッキリしていた。
「ごめんなさい。こんなに泣いちゃって」
「気にすることはないです。泣くというのは、心にいいことなんですよ。辛いことをため込んでしまうと、心はどんどん重くなってしまう。重くなって、苦しくなって、身動きができなくなってしまう。助けて欲しいと思っても、その「助けて」が言えなくなってしまう。だからいいんです。いくらでも泣いていいんです。僕は、いつだってここで紗耶香さんのお話を聞きますし、泣きたい時はその涙に付き合います」
そう言った彼は、本当にとてもとても穏やかな表情で、私のことを見守るようにしている。
「優しいね。ありがとう」
「どういたしまして」
ニコリと微笑まれれば、失恋して傷ついていたはずの心が、小さくやわらかな音を立てた。この音は何だろう。知っている音だけれど、久しぶり過ぎて巧く消化できない。だって、私はまだ元彼のことを諦められないでいるはずだから。
「またお話しましょう。紗耶香さん」
「うん。ありがとう。またね」
「はい。また明日」
空がオレンジ色になるころ、彼の言葉に背中を押されるようにして、神社をあとにした。
「あれ……。そういえば、私名前言ったっけ?」
考えてみたけれど、神木さんの微笑んだ表情を思い出せば、名乗ったのだろうと納得した。家までの道程は、ここへ来た時と雲泥の差で、足取りは軽やかになっていた。
「何、その眼鏡。似合うじゃん」
普段かけもしない眼鏡にすぐさま反応を示したのは、ゼミが一緒の幸恵だ。何かあったのかとワクワクした顔を向けられたけれど、楽しい話題など今の私には皆無だ。
「この件に関して触れないで……」
隣に座った幸恵にどんよりとして返せば、瞼の腫れに気がついて口籠る。それでも、彼氏と喧嘩でもした? なんて訊かれて、生傷になったばかりの部分が痛すぎてぽろぽろ涙が止まらない。慌てた幸恵に泣きついてみたけれど、すぐに講義が始まってしまい、愚痴は中途半端に中断されてしまった。
加え、講義が終わると、今日はこの授業だけですぐにアルバイトの時間だからと、幸恵は慌てたように授業道具をバッグにしまっている。
「今度、ゆっくり聞くからね」
申し訳程度にそう言って、幸恵はさっさと教室を出て行ってしまった。
「薄情者~」
恨めしい声と顔を向けてみたところで、急いでいる彼女に届くはずもなく。結局私は、今日もこの神社にやってきた。
「どうして浮気なんてできるんだろ。誠実さの欠片もないじゃん。こっちはさ、ひたすら連絡を待ってさ、邪魔にならない程度にLINEしてさ。結構気を遣ってきたのに。その仕打ちがこれだよ。信じられないっ」
いつものようにご神木様に寄りかかるように座り、浮気相手に彼を取られてしまった悲しみや愚痴を延々と話し涙を流していた。しばらくそうしていると、サクサクッと枯葉を踏む音が境内の方角から聞こえてきて驚いた。
人がいた!?
泣き言を盛大に漏らしていたことに羞恥心が湧き上がり、ぱっと立ち上がり直立不動になる。それから、音のする方を窺うようにして見た。
「こんにちは」
枯葉を踏み鳴らして現れたのは、多分同じくらいの年齢だろう男性だった。
「こ、こんにちは」
屈託なく笑顔で話しかけられて、条件反射のように挨拶を返した。そのすぐ後には、初対面の相手に大きな独り言を聞かれてしまったんじゃないかと、焦りに攻撃的な口調になってしまう。
「な、なにしてるんですかっ」
何をしていようがその人の勝手ではあるのに、ここに人が来ることなどお正月くらいのものだから、あまりに驚き過ぎて責めるように言ってしまった。
「えーっと。散歩です」
私の言い方がきつかったのは明らかで、現れた男性はちょっと引き気味だ。自分で勝手に愚痴っていたというのに、それを聞かれてしまったかもしれないからって、他人にきつく当たるなんてどうしようもない。
現れた男性は、なんとも穏やかな表情をしていて。散歩という言動が似合い過ぎるほどだ。なんというか、第一印象の同じ年齢という枠を超えて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「ここ、落ち着くし、いいですよね。あ、僕、神木と言います」
すんなりと名乗られて、それはどうもという具合に小さく頭を下げる。屈託なく話し掛けてくる声質はソフトで、この声で絵本を読まれたら子供は幸せだろうな、などと思った。
そんな神木さんの雰囲気に、さっきまでいきり立ち、大きな独り言を聞かれて羞恥に穴があったら入りたいという思いに駆られていた感情は、スーッと鳴りを潜めた。まるでこの神木さんという男性の持つ穏やかな雰囲気が、私にも伝播してきたみたいに、懐かしいような、親しみのある雰囲気が心を解きほぐしていった。
「N大に通うために、四月にこの町に越してきたんです」
彼は訊かれてもいないのに、近所の知人にでも会ったような口ぶりで話す。
N大は、私と同じ大学だ。もしかしたら、どこかですれ違ったりしていただろうか。四月に越してきたということは、やはり私と同じ年齢ということだ。学部はどこだろう。見かけたことがないということは、理系だろうか。理系の校舎は、私のいる文学部のある校舎から離れた場所に建っている。
「私もN大ですよ」
何か情報を聞き出したいという思いもあってそう口にしたのだけれど、そうですか。というように、神木さんは穏やかに微笑むだけだ。その表情を見てしまえば、大学で何を専攻していようが、そんなことはどうでもいいように思えた。
「ここ、私のお気に入りの場所なんです。ここに来ると、気持ちの整理もできるし、心がぐちゃぐちゃに波立っていても、少しずつ穏やかになるんです」
「どうしてですか?」
不思議そうに訊ねる顔に向かって、すぐそばに聳え立つご神木様に触れる。
「ご神木様です。私が赤ちゃんの頃よりも、もっとずっとずっと昔からここに生きて、私たちを見守ってくれている木です。このご神木様に会いに来ると、癒されるんです」
愛しむように触れながら話して、咄嗟に何を言っているんだ。とうっとりしながら話す自分に引かれていやしないか彼の表情を窺った。彼の瞳は、優しく優しく垂れさがっていた。神木さんは、こういう話を馬鹿にしたりからかったりするようなタイプではないのだろうと、その表情にほっとする。
「何かあると、私はいつもここでご神木様に話を聞いてもらっているんです」
と言っても、愚痴ばかりだけれど……。
「そうですか。じゃあ、僕もいろいろと聞いてもらおうかな」
「悩みを話すと、スッキリしますよ。残念ながら、答えは返ってきませんけどね」
語尾に笑いを付けると彼も笑う。
「そうだ。いい答えが返せるかどうかわかりませんが、よかったら僕もお話を聞きましょうか?」
そう言って、彼は自然と境内の方へ足を向けた。それに倣うように私もあとをついていき、二人で境内の階段に腰かける。拳三つほど空けて座った距離は、名前しか知らない彼への警戒心だ。
そんな風に離れて座っても、今朝幸恵に愚痴れなかったというのもあり、誰かに話したいという思いはあった。普段なら見ず知らずの初対面の男性相手に失恋話を愚痴るなんて、考えられない。考えられないはずなのに、……どうしてだろう。話してごらん。そう言うように瞳をのぞき込まれると、初対面だとか、失恋話は恥ずかしいだとか。そんなことは全て些末に思えて、私の口はスルスルと悲しく悔しい感情を彼に吐露していた。
「辛い思いをしましたね」
話ながらグズグズと涙を流すとハンカチを貸してくれて、子供みたいに泣きじゃくる私の背を優しく撫で、何度も何度も、大丈夫ですよ。と声をかけられた。そうやって、気がつけば夕刻を前にして、私の心は随分とスッキリしていた。
「ごめんなさい。こんなに泣いちゃって」
「気にすることはないです。泣くというのは、心にいいことなんですよ。辛いことをため込んでしまうと、心はどんどん重くなってしまう。重くなって、苦しくなって、身動きができなくなってしまう。助けて欲しいと思っても、その「助けて」が言えなくなってしまう。だからいいんです。いくらでも泣いていいんです。僕は、いつだってここで紗耶香さんのお話を聞きますし、泣きたい時はその涙に付き合います」
そう言った彼は、本当にとてもとても穏やかな表情で、私のことを見守るようにしている。
「優しいね。ありがとう」
「どういたしまして」
ニコリと微笑まれれば、失恋して傷ついていたはずの心が、小さくやわらかな音を立てた。この音は何だろう。知っている音だけれど、久しぶり過ぎて巧く消化できない。だって、私はまだ元彼のことを諦められないでいるはずだから。
「またお話しましょう。紗耶香さん」
「うん。ありがとう。またね」
「はい。また明日」
空がオレンジ色になるころ、彼の言葉に背中を押されるようにして、神社をあとにした。
「あれ……。そういえば、私名前言ったっけ?」
考えてみたけれど、神木さんの微笑んだ表情を思い出せば、名乗ったのだろうと納得した。家までの道程は、ここへ来た時と雲泥の差で、足取りは軽やかになっていた。