「すみません、ちょっとだけ家に寄ってもいいですか?」
「家? あぁ、前に住んでたとこはこの辺だったか」
「そうなんです。この前は少ししか荷物を持っていなかったから、せっかくだし色々足りないものを補充していこうかなと……」
そう言ってから、いつの間にか自分がかくりよに居座り始めていることに気づく。
ほんの数日程度で帰るつもりだったのに、流れとはいえ翡翠の『許嫁』という立場になってしまった今、どうにも複雑な心境だ。
翡翠の言葉が脳裏を掠めて、つい頬が熱を帯びそうになる。
いやいや、これはあくまで『仮』だし。神さまの嫁なんて、私には恐れ多いもん。
「んじゃオレらはここで待っとくから行ってきな、お嬢。急がなくていいからよ」
「は、はい。ありがとうございます」
浅葱さんの声で我に返り、私はあたふたと頷く。
ここからなら、アパートまで三分もかからない。急がなくていいとは言っても、浅葱さんは今日も夜から仕事だ。仕込みもあるだろうし、なるべく早く戻った方が良いよね。
すぐに戻ります、と頭を下げて、私はタッと駆け出した。
「あ、真澄さま。ボクも共に参ります」
当然のようについてきたコハクは、待っていていいと言っても聞いてくれなさそうだったので黙って頷いておく。白ヤモリの姿の時も、こんな感じだったのかもしれない。
「ほんの少しいなかっただけなのに、なんかすごく懐かしい……」
念のため、鍵も持ってきておいて正解だった。
アパートに着いて急ぎ部屋に入ると、扉を開けただけで少し埃っぽい空気が外にあふれてくる。たった数日でも、まったく換気をしない部屋は空気が悪い。
「ごめんコハク、窓をあけてもらってもいい?」
「お任せを」
コハクにも手伝ってもらい早急に空気を入れ替えながら、私は手近にあったリュックに手あたり次第、必要なものを詰め込んでいく。
日々の着替えに関しては、洋服だとかくりよでは目立つから、と数日前に翡翠がいくつか和装を用意してくれたばかりだ。甘えてばかりで申し訳ないやら、ありがたいやら。心の中で粛々と感謝しつつ、寝巻きや下着など数着だけ持っていくことにする。
足りなかったものを一通り詰め込み終わってから、ふと母の遺品の中にレシピ本があったのを思い出して、それも入れておいた。
これがあれば、記憶が曖昧な部分も補充できる。時雨さんも喜んでくれるだろう。