「邪魔するぞ」
抵抗する間もなく手を取られ、そのまま店内へ誘われる。翡翠の声に奥から「あらま」と顔を出したのは、女の私でも目を見張るほどの美女だった。
膝下ほどまである長い黒髪にタレ目気味の赤い瞳。どこか妖艶な雰囲気を纏う女性にどぎまぎしていると、不意にその頭に生えるふたつの角に目が留まる。
「そんなにじっと見なはって……ふふ、可愛い子やね。あんさん、真澄はんやろ?」
「えっ、は、はいっ」
「甘味処かごやへようこそ。翡翠はんもようきなすったなあ」
着物の袖を赤い口元にあてて上品に笑う彼女は、私と翡翠を見比べてくすりと鼻を鳴らす。含みのある笑みが浮かんで、瞳の奥になにやら妙な色が混じった。
「風の噂で仲が良いとは聞いとったけど、ほんまどすねえ。これは嫉妬してしまいますわ。ねえ、お鈴? あんたもそう思うやろ?」
「はあ、仲がよろしいのは良い事だと思います。それよりお席へどうぞ、お客様」
突然となりに現れたもうひとりの女性。黒髪ぱっつんのボブヘアで、きりっとした目元からクールな雰囲気が醸し出されている。一体いつからそこに、と目を白黒させていると、翡翠は「気にするな」と疲れたように席についた。
「こっちの派手なのは鬼女紅葉という妖怪の椛、こっちの無表情なのは鈴鹿御前という妖怪の鈴。癖のあるふたりだが、弥生通りのなかではそれなりの古参組だ」
面倒そうに紹介した翡翠に「ほんま雑」と文句を零しながら、椛さんは細く長い指で私の顎をすくいあげた。目と鼻の先に椛さんの色気漂う顔が迫る。
「へっ……⁉」
驚いて硬直する私を舐めるように見て、「好みやわあ」とわずかに赤みを帯びたような顔でひとこと呟いた椛さんを、お鈴さんが容赦なくひっぺがした。
そのまま放り投げられた椛さんは、ふわふわと宙に浮かびながら「なにしてくれはるの」と唇を尖らせる。妖怪は妖力を使って空を自在に飛べるものもいると聞いてはいたけれど、浅葱さんのように翼があるわけではない妖怪が飛んでいる姿を見るのは初めてだった。
気ままに宙を揺蕩う椛さんに少し感動する。
「申し訳ありません、お客様。あれは少々厄介な性癖をもっておりますゆえ、あまりお関わりにはならない方がよろしいかと」
「せ、せいへき?」
「簡単に申せば、可愛くて綺麗な女子に目がないのです。三度の飯より美のつく女子。人の子など特に大好物ですから、お気をつけを」
──待って、それってつまり椛さんに食べられかねないってこと⁉
鬼女というからには、彼女たちは鬼の妖怪なのだろう。恐る恐る椛さんを見上げると、なにやら意味深にくすっと微笑まれた。本能が危険を察知する。あれは、本気の瞳だ。
ぞっと背中に悪寒が駆け走り、私は逃げるようにメニューへ目を落とす。
「……まったく、いいからおまえたちは引っ込んでくれ。真澄が脅えてせっかくの甘味もまずくなるだろう。それともなにか、日ごろクソ忙しい官僚の逢瀬に横やりを入れる気か?」
「そんなまさか、滅相もない。もちろんご注文をお伺いしたら引っ込みますよ。本来はあれが接客なのですが、ほっといたらいつまでも注文をとってこないので」
「なんというか、大変だな……。まあいい、真澄決まったか?」
背中に感じる椛さんの熱い視線に耐えながら、私は目にとまった白玉クリームあんみつを選んだ。クリーム付きにするか一瞬迷ったけれど、ここは素直に甘えておくことにする。
一方の翡翠は少し悩んだのちシンプルにぜんざいを頼んだ。お鈴さんは淀みない口調で注文を確認すると、容赦なく椛さんの首根っこを引っ掴んで店の奥へと姿を消す。