お店の前に出て、神様はふうっと息を吐く。
白狐たちは何も言わず、大人しく付いてきていた。
「さて、あそこに行くか」
落ち着いた表情で、今度は離れて歩き出す。
当たり前のことなのに、今まで暖かく握られていたものが無くなって、急に手が寂しく感じた。
大事なプリントを忘れてしまった日みたい。
そう思い込んで、自分の感情に蓋をする。
気付かなければ、これは名前のないただの感情。
だから、見て見ぬふりを貫いた。
神様の後ろに並び、見えてきたのは商店街の終わり。
広い公園のようになっているけれど、たくさんのベンチやテーブルが置いてあって、人型神様がお喋りをしていた。
「ここは頂上の休憩所だ。ほら、あそこに神社があるだろう? そこで参拝してる奴らは皆人間だ」
神様の休憩所の隣には、確かに神社らしき小さな鳥居と祠があって、頂上にたどり着いた人がちらほら参拝していた。
参拝に来た一人のお兄さんが、チャリンと小銭を入れ二礼二拍手をし、目を閉じている。
『今年も家族や親戚、友達が、健康で楽しく幸せでいられますように』
不思議な声がこの休憩所に響いた。まるで迷子のお知らせのように、エコーを通した声だった。
その声が聞こえ終わると、お兄さんは一礼をして、帰って行く。
そのとき、休憩所でのんびりとしていた神様の一人が、お兄さんに手をかざした。
すると、急に強い風が吹いて、お兄さんの髪が激しく揺れる。お兄さんには見えていないのだろうけれど、その風は少し緑色に光っていて、お兄さんに降りかかっていた。
『孫が今年受験なので、無事合格できますように』
次の人は、本格的な登山服を着たおばあちゃんだった。
その人に向けて、また別の神様が手をかざす。
再び吹き荒れる風は、青く光って見えた。
「あれが加護だ」
光を浴びる人達をぼんやりと眺めている私に、神様が言った。
光はその人に纏わり付き、共に下山していく。
「ご利益があるって聞いたけど、本当にあるんですね」
「ああそうだ。それはここだけに限らない。どこでもあるんだ」
「そっかあ。だから山の上って風が強いんですね」
ここに来なければわからなかった。知らない世界だった。神様だって、いればいいかなくらいの感覚でしかなくて、実際にいるなんて思いもしなかった。
「まあ、加護といっても、全員に全力で与える訳では無いがな。時と場合、人間性にもよる。そして、それぞれの願いに合わせた神が、加護を与えるのだ。
神の休憩所である頂上は、人が少なく神は多い。加護を受ける可能性も高くなるということだ」
いつになく真剣に、色々と教えてくれる神様。
遠くを眺めている横顔は、おじさんの前とは打って変わって大人びた顔つきだった。
「さて、ゆっくり話でもするか」
優しく私に微笑みかけ、ザクザクと砂利の上を歩き、ベンチへと向かっていく。
「え、飲食店は?」
私がそう聞いても、神様は微笑み返すだけだった。
なんだろう、この胸騒ぎは。神様の話が怖い。嫌だ、聞きたくない。
神様はベンチに座り、欠伸をして腕を天高く伸ばす。白狐たちは、お呼びでないことをわかっているのか、テーブルの下で休んでいた。
私はテーブルを挟んで向かいに座り、今にも面接が始まりそうな雰囲気に不安が押し寄せる。
「小鬼が来た時に、聞いたよな? なぜ舞が苦しんでいることがわかったのかと」
私はあの鳥居の階段のことを思い出し、首を縦に振った。
「あれはな、この世界のものでない者を、あるべき場所に帰す力を働かせていたのだ。
だから、舞もそれに引き寄せられた。
だが、ここに呼ばれた原因を解決出来ていないから、魂と体が分離しそうになった。それに抵抗するために目眩などが起こっていたのだよ」
「え……」
さり気なく、物凄く恐ろしいことを言われ気がする。だから白狐もあんなに怒っていたのか。
もしあの時白狐がいなければ、体と魂が分離して、死んでいたかもしれないと……。
神様は表情を変えることなく、真面目な顔をして続けた。
「人はな、後悔をする生き物だ。何度も何度も、あの時ああしていれば、と。違った道に進んだ時の可能性ばかりを考える」
青く澄んだ空を見つめていた。そうしている間も、願いの声は鳴り響く。
「舞、お前は今、何が辛い? 苦しい? 声に出して、私に言ってくれないか?」
そう聞くのは、私が悩んでいる内容を、わかっていないわけではないのだろう。
ただじっと、真剣な眼差しで私の目を見ていた。
「……辛い。苦しい。私には夢がない。もうすぐ大学受験なのに、やりたいことが何も無い」
私は催眠術にかかったかのように、口からボロボロと言葉を落としていく。神様の瞳の奥の世界を見つめながら、私は無意識に語っていた。
「お父さんみたいに物凄く賢いわけじゃない。お母さんみたいに、人に優しくできる人間でもない。私は…欲しかった。私にも、たった一つだけでも誰かに誇れる素敵な何かが欲しかった。
憧れてた。だからお父さんとお母さんみたいになりたいって思ってた」
自分でも考えたことの無かった感情が、言葉になって溢れ出る。私の中の、別の誰かが話しているかのようだった。
瞬きをすると、ポタポタと涙が落ちる。それでも開放された言葉たちは、止まるということを知らなかった。
「どうなるのかわからない。怖い。とりあえず賢い大学に進んでも、ついていけなかったらどうしよう。
何となくついた職場があわなかったらどうしよう。
続けられなかったらどうしよう。
老後のために約二千万円も貯金しなきゃいけないって言われている時代なのに、ほんの数歩先の未来も見えなくて怖いよ……」
ああ、知らなかった。私、本当はこんなに不安だったんだ。
自分の感情は、自分が一番わかっているつもりでも、本当はわかっていないことを初めて知った。
知らないうちに、都合の悪いことは見ないでおこうと感情に蓋をし、ストレスとなって溢れたそれは、行き場を失って自分自身を攻撃するんだ。
「怖いよな。自分の人生がどうなるかわからないのは不安だよな。それでいいんだよ、自分の感情に正直でいいんだ」
神様は目を逸らさずに優しく笑った。それから、少し前のめりになって、私の頭に手を伸ばす。
暖かい手のひらが、そっと私の髪を撫でた。
神様は魔法使いなのかもしれない。涙が滝のように流れ出て止まらなくなる。止めたいとも思わなくなっていた。
ずっと泣きたかったのかもしれない。ずっと誰かに相談したかったのかもしれない。
ずっと、この考えや気持ちは恥ずかしいものだと思い込んで、自分の中に溜め込んでいたのかもしれない。
「人は迷う生き物だ。それは我々神が、人に生を宿す時、必ずいくつもの試練を与えているからだ。それをどう乗り越えるかが、課せられているのだよ」
神様はベンチに座り直し、参拝客を眺めた。私もその視線を追い、ちらほら訪れる人々を見る。その影は、少し長くなっていた。
「どんな道に進んでも、それは決して間違っていない。それはその人にとって正しい道だ。だって、どう頑張っても過去には戻れないのだから」
そうだ。当たり前のことなのに、私たちは異様に過去に縋り付く。あの時こうしていれば、今は違ったかもしれないと、結局変わらない現状から目を逸らす。
私だって、何度もあった。数え切れないほど沢山、小さなことから大きな問題まで後悔した。
どうしようもないことに対して、悩み苦しんだ。
過去に戻れないことなんて、わかっているはずなのにわかっていなかった。
「時々、敦史のように死の道へ進むか迷っている人間もやって来る。事情はそれぞれだが、それでも死を決断するのなら、それもまたその人の正しい道なのかもしれない。
ただ、試練というものは一時的なものだ。時は必ず流れるし、その人の行動次第でどうにでも変えることができる。
その一時的な感情に支配されて、全てを終わらせてしまうのは勿体なくはないだろうか」
神様は固く拳を作っていた。きっと、今まで何人もの人々を助けてきた中で、辛かったことも何度かあったのだと思う。
でも私は、今現在その一時的な試練や感情に支配されている。多分、私以外にも、この世にはそういう人がたくさんいるはずだ。
苦しくて、脱出したいのに、どうしたらいいかわからない。同じ地点で同じ考えを延々と繰り返す辛さ。逃げてしまいたくなる気持ちはよくわかる。
「それでも、わかっていても支配されてしまうんです。終わりが、先が、未来が見えないから……」
神様は小さく「そうだな」と言って、作っていた拳を壊した。
「これはただの例えだ。死以外のことであれば、細くとも道はある。だから、どうか逃げて欲しい。逃げること自体は全く悪いことではない。むしろ、逃げ出す勇気があるのは素晴らしいことだ」
神様の思いが、どんどん自分の中に流れてきた。神様も苦しいこと、辛いこと、嫌なことがあっただろうに、自分の終わらない人生の上で、ずっと人々を支え続けている。
優しすぎるんだよ、神様……。
神様はまた私の瞳を吸い寄せた。涙と鼻水で汚れた顔なんて、見られたくないのに、それよりももっと大切なことがある気がして、話に集中した。
「舞が嫌なら避ければいい。それがお前にとって正しい道となる。ここに残ってもいい、元の世界に帰って頑張ってもいい、死を選んでも……」
最後の言葉は、「いい」とは言わなかった。神様だから、私の言うことを尊重したいと思っているけれど、本当はそんなことして欲しくない、という気持ちが痛いほど伝わってきた。
「私は……神様と離れたくない。……でも、私はこのまま立ち止まったらいけないと思う。ちゃんと向き合いたいと思う。向き合って、前に進みたい。動かないと、何も変わらないから」
これがきっと、本心だ。神様が私の心の引き出しを開けてくれた。
ああ、もうお別れなんだ。
受け入れ難い運命を、私は悟ってしまった。
「でも…まだわからない。目的地が見えないままだから」
私は自信がなかった。戻っても同じことを繰り返してしまう気がしてならない。
すると、神様は私の両手を優しく包んでくれた。
「大丈夫。思い出して。舞は、この神隠しで何を感じた?何をやりたいと思った?何が楽しかった?」
この、神隠しで……。
走馬灯のように駆け巡る思い出。
きっと、まだ数時間しかたっていないだろうに、新しい物事をたくさん見た。
喋る面白い白狐たち。
ファッションセンスがなく、言葉の通じない狐。
地獄から迷い込んだ鬼。
白い鳥居の階段と風鈴。
元人間のおじさん。
頂上で加護を授ける神様と、知らぬ間にそれを受け取っている人々。
そして…変人で子供っぽいのに、実は相手のことを一番に思いやれる優しい神様。
「全部…全部新しくて、楽しかった。
色んな生き物と話すことの楽しさとか、逆に通じないもどかしさ。
服だって、神様たちのセンスのなさは本当に面白くて、ちょっとセットをつくってあげただけであんなにも喜んでくれて、嬉しかった」
神様は目尻を垂らし、口角を上げて白い歯を見せる。
言葉にしなくても、言いたいことがわかった気がした。
『もうわかってるじゃないか』と。
私たちはそのまま立ち上がった。
休憩所のなるべく端の方へ行き、神様はそっと手を離す。
私はしゃがみ込み、神様の足元にいる白狐たちの頭を撫でた。
「左狐も右狐も、本当にありがとう。二人とも、すっごく素敵な狐なんだから、どっちが上とかないよ。さすが、神様の使いだね!」
そう言うと、照れ隠しなのか「こりゃ!犬扱いするでない!」「そうじゃそうじゃ!やっと世話係から解放されて、せいせいするわい」と話している。
でも、細い目の隙間から見える潤んだ瞳と、明らかに小さく垂れ下がった尻尾に、強がっているだけなんだとわかった。
「さあ、そろそろ帰らねば。日が暮れてしまうぞ」
私は立ち上がり、もう一度神様を見つめた。
もう二度と会えないかもしれない。だから、涙を堪えて、必死に目に焼き付けた。
「何かあれば、またこの山を登ればいい。きっと目に見えなくとも、舞に合う加護を与えてくれるはずだ。さあ、こっちだ。この道が舞にヒントをくれるだろう。ただ、それをどう捉え、そこから何を得るかはお前次第だ」
風が吹き荒れる。春のような、何かに応援されているような暖かな風。
シャランと風鈴の音が背後から聞こえ、振り返ると大きな鳥居の道が、ずっと奥まで続いていた。
「……神様!!」
風に逆らい、私は神様に手を伸ばす。神様の背中に腕を絡ませ、ついに限界を迎えた涙が溢れた。
「神様…ううん、標様…。私は…標様のことが、好きでした」
自分の感情に正直でいいんだと、標様が言ったんだ。だから、今だけは、この気持ちに蓋をしたくない。封じ込めたくない。
これで、最後にするから────。
「私は…皆の神だ。平等に、人々導くという使命がある」
……知ってるよ、そんなこと。そういうところを、好きになってしまったんだから。
すると、そっと暖かい腕が、私の背中に回された。
ぎゅっと、力強く。
神様に心臓があるのかわからないが、自分とは違う速い鼓動が伝わってきた。
それだけで、もう十分だった。
「大丈夫、きっと舞なら何にでもなれる。どこにでも進める」
私はゆっくりと腕を離した。標様も、それに合わせるように私を解放する。
私は涙を拭い、全力で笑みを浮かべて、鳥居の並ぶ道へと走った。それでも溢れ続ける涙は、風に乗って飛んでいく。
風鈴が、私の声をかき消すように鳴っていた。
「私、頑張るから!!がむしゃらでも、もがいてでも、進み続けるから!!だからっ────」
─────見ていて。