木曜から降り続いている雨は窓を濡らし、涙のように幾重にも流れていく。
 寂しさを纏う私の代わりに、空は泣いてくれているのだろうか。
 窓の向こうの涙に触れるように、ガラスに掌を当てる。いくつも、いくつも。流れる涙は止まらない。
 もしかしたらこの雨は、私の寂しさを思って流れる雨ではなく、彼の涙なのかもしれない。彼は今も、私のいないところで静かに瞳を潤ませ、悲し気に目を伏せているのだろうか。
 窓に伝う雫が、彼の面影を呼ぶ。

 彼は、製薬会社の営業マンだった。名前は、谷口瞭(たにぐちあきら)。首からぶら下げていた、製薬会社のネームカードに書かれていた。尖った感じのない柔らかな雰囲気を持つ彼は、私よりも三っつ年上の二九歳だった。中肉中背で、特徴は? と訊かれると少し考える時間を貰いたいと思わせるけれど、けして影が薄すぎることはない。右目の下にある薄く小さな泣き黒子が、私の中では印象的だった。そつなく仕事をこなし、けれどどこか不器用な雰囲気があり。仕事中、一生懸命に笑顔を作っている表情には親しみがわいた。私も作り笑いは苦手な方だから、彼が仕事のために笑みを浮かべていることはよく理解できた。自然と笑みを作れる人を羨んだこともあったけれど、こうやって一生懸命になっている彼を目にしたら、愛しさが込み上げてくる。
 彼の勤める製薬会社が発売したサプリメントのイベント会場は、大きなショッピングモールの大きな広場を使って行われていた。飾り付けられたステージには色とりどりの風船が、様々な形を成して飾られ。テレビで見かけたことのある司会の男性が、サプリメントの素晴らしさを饒舌に語り説明し。サンプルを配る素敵女子たちが、笑みを浮かべてお客に愛嬌を振り撒いている。それを企画したのがうちの会社だった。
 司会の饒舌ぶりを聞きながら、イヤホンから届く指示に耳を澄ませる。
「中島さん。サンプルの追加、裏から持ってきてくれる」
 担当の山下さんから連絡を受け、背中にイベント会社のロゴがプリントされたジャンパーを翻すようにして踵を返す。視界の隅に映る彼が、サプリメントを手にするお客に笑みを見せていた。
 会場の裏手には、パーテーションで区切られた簡易的なバックヤードが作られていた。ドアノブを捻って開ければ、三畳ほどのスペースに三十センチ四方の段ボールがいくつも積み上げられている。中には、錠剤が三粒入った袋包装に、サプリメントのチラシと、製薬会社のキャラクターが満面の笑みを見せているシールが抱き合わされていた。それらが収まる段ボール自体は、けして重いものではない。
 段ボール箱を一気に三つ積み上げ抱え、山下さんから「急いで」という指示が来る前にとすぐに出入り口を振り返る。
「持ちましょうか?」
 振り向いた先に立っていたのは、谷口さんだった。さっきまで会場の様子を窺うようにしていたはずなのに、サンプル品を取りに来た私に気がつくなんて、周囲の状況把握に長けているようだ。
「大丈夫ですよ。軽いですから」
「じゃあ、僕が二つ預かり受けます」
 そう言って、私の持つ段ボールの上二つを持った彼は、更にその上に二つの箱を積み上げた。おかげで、積みあがった段ボールで彼の視界はゼロになってしまう。
「前、見えますか?」
 一生懸命で優しい彼の、少しばかり抜けたような行動が可笑しくて、つい笑みを漏らしながら訊ねると、彼も可笑しそうに肩を揺らしている。そうして、抱える段ボールの横から顔を出し「多分」と笑った。

 イベントが無事に終わり、製薬会社のお偉方は早々に引き上げていった。私たちイベントスタッフは後片付けに追われ、スタッフジャンパーの袖をまくり上げて精を出していた。
「手伝いますよ」
 お偉方に交じって早々にこの場をあとにしたと思っていた彼は、穏やかな瞳でそう言うと並んでいたパイプ椅子を手早く片付けていく。
「あの、大丈夫ですよ。こちらが任された仕事ですから」
 慌てて遠慮したのだけれど、彼がこっそりと私に耳打ちをした。
「お偉方といると気詰まりなんで、手伝わせてください」
 その言葉に目を見合わせ笑った。

 会場が片付いたのは、九時も過ぎたころだった。
「この後、スタッフ何人かと打ち上げに行くんですが。よかったら、谷口さんもご一緒に、いかがですか?」
 誘いを受けた彼は、迷うことなく快諾してくれた。
「会場近くに予約した居酒屋は、土曜日の夜ということもあってかなりの賑わいを見せていた。フロアスタッフが注文を取り、テーブルを慌ただしく片付けている。
 隣同士の席に着いた私たちは、今日のイベントについてあれこれと語り盛り上がった。その後、彼について訊ねると少しずつ話をしてくれた。実家は神奈川で、今は一人暮らしをしているということ。住んでいる場所がここから想像以上に遠くて、終電に遅れないようにしなければと力んでいた姿がなんだか可笑しくて笑ってしまった。営業をしていてるけれど、実はあまり営業が得意ではないこと。飼っている猫がベッドを占領してくるので、いつも端の方で寝ていること。イケてる大人みたいに行きつけのバーを作りたいのだけれど、好いバーが見つからないこと。
 彼の話方は焦ることなく、まるで絵本でも読み聞かせているみたいに優しいものだから、私はつい耳を傾け、目を閉じ、聴き入ってしまう。
「今度、一緒に素敵なバーを探しましょうよ」
 躊躇いなく誘う私に、僅かな迷いを見せた後、彼は笑みを浮かべて頷いてくれた。
 彼は私についてそれほど詳しく訊ねてはこなかったけれど、私は私についてを彼に知って欲しくて、押しつけがましくない程度に話した。実家は千葉で、今は彼と同じように一人暮らしをしていること。最寄り駅は、ここから一駅先でとても近いこと。太陽を浴びた洗濯物の匂いが好きなこと。動物は好きだけれど、ペット禁止のマンションだから今は諦めていること。いつか谷口さんの飼っている猫にも会いたいな、そう漏らすと一瞬の戸惑いのあと頷いてくれた。
 気がつけば時間はあっという間に過ぎていて、こんなに楽しい時間を過ごしたのはいつぶりだろうと彼を見てからスマホの時刻を確認した。
「あっ! 終電、大丈夫ですか?」
 時刻を確認して訊ねると、谷崎さんは「あ……」と力ない言葉を漏らし固まってしまった。
「もしかして……」
「はい、もしかして……です」
 彼がやってしまったというように困った顔をした後、タクシーは? と訊ねようとしてやめた。ここからタクシーで帰るとなると、彼の住む最寄り駅までは相当な距離だ。
「うちに……来ますか?」
 驚く彼が頷くのに、三秒ほどかかった。

 一人暮らしのマンションは、私の帰りを待ちながらとてもひっそりとしていた。鍵を開ける金属音のあとにつけた灯りで、私以外の人物がいたことに、ひっそりしていた空間が驚きと共に急に輝きだした気がした。
 時間をかけて淹れたコーヒーは、ほとんど口をつけることなくテーブルの上で湯気を上げ。代わりというように、私たちは熱を持って互いの温度を感じあった。彼の手や指先は、私の柔らかな部分に触れ心を掴んでいく。
 今日、初めて言葉を交わした時から、こうなるだろうと感じていた。
 彼の声は私の心をくすぐったし、少し抜けたようなしぐさは可愛らしく思えていた。営業は得意じゃないと言っていたけれど、今日一日彼の働く姿を見ていれば、仕事ができないわけではなく。寧ろ、とても頭の回転が速いのだろうと思える場面がよく見受けられた。多分、仕事のスイッチが切れると、ふわっとした、このなんとも言えない柔らかな雰囲気が全面から出るのだろと思う。
 こんな風に語れるのは、そう思えるほどに私は彼のことを目で追っていたし。彼も私と視線を合わせることを躊躇わずにいたように思うからだ。
 それからの私たちは、時間を見つけては会い、言葉を交わし、笑顔を見せあい、肌の温もりを感じていた。
 彼が初めに見せた時の迷いや戸惑いの数秒間に目を瞑り、私は彼に夢中になっていった。
 
 好きだと言ったのは、私からだった。一番近くにいたいと甘えたのも私だ。
 柔らかな声音で名前を呼ばれることが好きだった。
 おいで、そう言って私に向かって手を伸ばす彼が大好きだった。
 香水をつけているわけでもないのに、彼からほんのりと香る、どこか甘やかな匂いに酔いしれていた。
 ごめんな……。目を閉じている私の髪に触れ、悲しげに漏らす声には耳を塞いだ。

 彼と一緒の時間を過ごすことができたのは、僅か一か月ほどだった。
「インドネシア……」
「……うん」
「どれくらい……?」
「短くても三年。多分、それよりももっと長くなると思う……」
 言い出せなかったと彼は、瞳を潤ませた。
 初めて会った時に見せた、ほんの数秒の迷いや戸惑いの理由を知った。どうして私のことを詳しく訊ねなかったかも理解できた。彼は、あの一瞬に迷っていたんだ。迷って、話せなくて、近づいて、そして、放せなくなっていた……。
 出会った時から、すでに決まっていた海外勤務だという。しばらく日本に戻ることはないけれど、私に会うまでは未練など一つもなかったと。
「こんなに好きになるなんて……」
 震える声で私を抱きしめてきた彼の想いは、温もりを伝えながらもこの先訪れるだろう一人きりの冷たい生活を容易に連想させた。

 彼の匂いが薄れていく狭い室内。ペタリと床に座り込み、シーツに触れて目を閉じる。寂しさに心が痛みながらも、遠く離れるとわかっていても、どうしてもそばにいたいと思ってくれた彼のことが今も愛しくてならない。

 窓の外に降り続いていた雨が、少しずつ雨脚を弱めていった。外に干すことのできない洗濯物は、私の大好きな匂いを孕むことなく、箪笥の中で静かに息をひそめている。
 彼の笑顔や、指先や、声を思い出しながら窓の外をぼんやりと眺めているうちに、眩しい光が室内を照らし出し始めた。
「雨が……あがった」
 遠い空の下にいる彼の上には、今青空があるだろうか。それとも、悲しげに瞳を濡らした彼のように、今にも降り出しそうな雲がおおっているだろうか。
 明るく輝く太陽の光に誘われるように、鍵とスマホだけを持って外に出た。道路にはあちこちに水たまりができていて、まだ残る雲と青を映し出している。
 水たまりを避けるように飛び越えながら彼を想う。
 大好きだった。もっとそばにいたかった。離れたくなかった……。
 グッと唇を噛みしめて、こぼれそうになる涙を乱暴に拭う。
 寂しさを振り切るように、顔を上げて一歩前に踏み出したら滴が跳ねた。
「濡れちゃった……」
 陽の光を受けた水たまりの中で、履きなれたスニーカーが濡れていく。じんわりと染み込んでくる水分は、まるであの時の彼のようだ。少しずつ私の中に染み込んで、消せない思いで私の中をいっぱいにしていく。
「インドネシアまで、行っちゃおうかな……」
 顔を上げて声を出し、スマホのカメラを空に向ける。青も太陽も眩しくて、画面越しに目を細めた。
「こんなに好きになるなんて思いもしなかった」
 彼が私に言った言葉を、同じように声に出してみた。彼のように声が震えないのは、私は初めから気がついていたからだ。私はあの日出会った瞬間から、彼しか見えていなかったのだから。
 彼は、今どんな気持ちでいるのだろう。
 時々は私のことを想い、瞳を潤ませているだろうか。
 そうであったなら、嬉しいな。
 そうでないのなら、私だけが悲しい。
 雨上がりの空は、バカみたいにどんどん晴れてきて、そんなことを思う私を笑ってでもいるみたいだった。