広翔の父親は有名な料理評論家で、母親は著名なコラムニストだ。彼の親族には厚生労働大臣を務めた大伯父もいれば、県議会議員の叔父、現役ジャーナリストの従兄(いとこ)もいる。相当幅広い人脈を持っていることだろう……。なんのコネも持たず、輝かしい実績もない柚香が、彼に――望月一族に――太刀打ちできるはずがない。

「おまえは終わりだ。素行不良で今日限りクビだ。荷物をまとめて出ていけ」

 広翔が吐き捨てるように言った。蔑んだように柚香を見る彼の冷たい視線が、刺すように痛い……。



 柚香の目にじわじわと涙が浮かんできた。人は死の直前、それまでの人生の思い出が走馬燈のように蘇るというが、こんな嫌な記憶を人生最後の記憶にしなければいけないのか。

 柚香はこぼれた涙を右手で拭った。

 そうしてから、手が自然に動いたことに違和感を覚える。

(私……犬を避けようとして事故を起こしたんじゃ……?)

 目を開けると、視界に板天井が映った。古い日本家屋特有の、木の年輪の模様が見える。

 車で田んぼに落ちたはずなのに、いったいどういうことなのだろう。おまけに、体には清潔そうな掛け布団が掛かっている。

 まったくわけがわからず、柚香はゆっくりと体を起こした。ふと見ると、昨日実家を出るときに着てきたマスタードイエローのニットとグレーのパンツという格好のままだ。それに、布団の横には、実家から持ってきたスーツケースが置いてある。

 ということは、事故を起こしたのは夢で、本当は昨日、実家から車で三時間かけて目指していた、亡き祖父母の家に着いていたのだろうか。

(そして、そのまま着替えずに寝たのね……)

 柚香は膝に両肘をついて、顔を覆った。

 居場所のない世界に留まってしまった。

 その行き場のない思いに、再び目に涙が浮かぶ。

 一ヵ月前に広翔のいるパティスリーを辞めさせられてから、再就職しようとしてもどこのパティスリーでも断られた。納得がいかなくて人事担当者に理由を訊いたら、『先に応募してきた方に決まりました』とか『あなたより経験の長い方が応募してこられたので』とか、もっともらしい返事が返ってきた。けれど、そんなことが五、六回続けば、さすがにおかしいと気づく。

 三日前に履歴書を送ったパティスリーからは、留守番電話に不採用のメッセージが残された。電話をかけて理由を問い合わせたところ、『高名なスーパティシエの人気に嫉妬して、怪我を負わせるような人を雇うことはできません』と冷たく言われたのだ。弁解しようとしたが、言いたいことを伝える前に電話を切られてしまった。

 広翔は捨てゼリフの通り、本当に裏で手を回したのだ。柚香はもうパティシエールとしてやっていくことはできないのだと思い知らされた。子どもの頃からの夢だったのに、理不尽な形で夢を絶たれた。あれほど憧れ続け、努力して掴んだ仕事だったのに。パティシエール以外の自分なんて、想像できない。