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「じゃあ、そろそろ帰ります」と言う深川先輩の声で我に返った。
「あ、真堂君、送って行ってあげてね」
紗枝さんに促され、僕は椅子から立ち上がった。安酒とちがって、悪酔いの感はない。これなら少しはいけるのかな。
帰り道。一歩分の斜め前を深川先輩が歩いている。三尺去って師の影を踏まず、ではないが、深川先輩と歩く時のお決まりのポジションだった。楽しかった。何より、今夜のライブに、他の友人達ではなく僕を誘ってくれたことが嬉しかった。
「今夜は満月なのに、残念ね。でも、もうちょっとで雲が切れそう」と言う深川先輩。後ろ手を組んで見上げた空の、月は雲に隠れてしまっていた。
地下鉄を目指して南へ少し歩くと、公園の前の幹線道路である。
「そう言えば、最初にカジ谷君に襲われたのもこの近くなんですよね」と、僕は何気なく口にした。すると、この話は何度もしているはずなのだが、どこに興味を持ったのか、今夜は深川先輩が意外なことを言い出した。
「ねえ、ちょっと回り道して、そこ通ってみない?」
「え? でも、ちょっと寂しい通りですよ?」
「大丈夫、真堂君もいるし。散歩よ。ちょっと酔いを醒ましたいの」
「いいですけど」
驚きつつも即答する。散歩とはいえ、深川先輩に誘われるなんて思ってもいなかった。
T字路の角は地下鉄の入口なのだが、そちらへは降りず、公園側に信号を渡って右へ曲がる。今度は僕が先導して歩いた。夜に来るのはあの時以来である。「ここを曲がるんです」と言って、角を曲がって路地へ入った。先の緩い右カーブを過ぎると――まさか、居るわけはないのだけれど、今でもあの光景ははっきりと思い出せる。街灯の下の人影を認識した瞬間は、心臓が止まる思いだったのである。初めてあの声が出た。その後の展開も全く予想外だった。やはり、始まりはここなのであった。
「あそこです。あの街灯の下ににいたんですよ」
月はほとんど雲の端まで来ていて、空全体は明るく、あの時のような暗闇ではない。むしろ、ぼんやりと青く浮かぶ道は幻想的ですらある。すると、ずっと静かだった深川先輩が言葉を発した。
「本当に、いかにも、な場所なのね。でも、風が気持ちいいし、もうちょっと行かない?」
「はい。では次の角まで」
浴衣姿の奈緒さんが曲がってきた、あの角から公園を通って地下鉄入口へ行ける。公園内はこの時間でも明るいはずなので安心である。
薄暗さにも目が慣れると、夜道は不思議な空間になった。何より、深川先輩がこちらをずっと見ている気がするのだ。僕は目を合わせられない。気のせいか声も普段より艶っぽい感じがする。まだお酒が残っているんだろうか? そういえば、単なる回り道とはいえ、深川先輩とこうして歩くこと自体を意図して歩くなんて初めてある。
そして、これもなんだか感じが違うと思ったら、深川先輩がすぐ横に並んでいるのであった。目が合った。薄青い僅かな明るさの中、深川先輩が艶やかにほほ笑んだ。別人のようだ。僕は息を飲む。
ところが、気が付くといつの間に左カーブを過ぎたのか、橋が目の前にあった。曲がる予定の場所を気付かずに通り過ぎていたのだ。この先は――