二階の廊下を四つん這いで進み、ドアの簡易な封印を、奈緒さんが手際よく剥がし――本当にトラップが存在したことに驚いたけれど――室内へ入る。
 まずは奈緒さんが「いつもの場所」を探してみたが、通常の形式の指示書はなかったらしい。それらしいものはないか、と僕も首を巡らす。そもそも暗い。何もわからない。気が付くと、部屋の中央で、奈緒さんと背中合わせの体勢になっていた。柱時計の音がやけにカチカチと響き、背中に体温が感じられる。奈緒さんの吐息が聞こえた。すると、ふいに正面からペンライトの灯りが目に飛び込んで来た。ドアに掛かったあの鏡だった。背後の窓ガラスに反射した光を捉えたのだ。一瞬だけ、自分の顔が映ったのが見えた。すると急に、なぜか桑原の顔とセリフが頭に浮かぶ。
『二人きりで密室にこもったりで、色々と羨ましいこととか――』
 誓って言うが、深川先輩と二人っきりでも、確かに一番最初に練習が決まった時の前日は眠れなかったけれど、いざ、スタジオに入るとそれらは全て吹き飛んで、演奏に没入することができた。少なくとも音楽に関する限り、雑念や邪念の入り込む余地はない。おそらくは、どんな絶世の美女相手でも、それは変わらないと思う。そこは自信がある。だが、今のこの状況はどうだ? 奈緒さんは探し物に真剣なようだが、ちょっと冷めた立場の僕には、邪念、雑念、果ては煩悩の類までが、ここぞとばかりに湧いてくるのは何故だ? だいたい、僕は憑き物を落とさなければならないはずなのに、これでは落とすどころか新しい憑き物が押し寄せて来ているぞ! 怨霊退散、色即是空。つまり、桑原の言いたいのはこういうことなのか!
「えーい、違うわ!」と思わず声が出た。そして呪縛を振り切るように、勢いで目の前の蛍光灯の紐を引っ張ってしまった。
「あっ!」と奈緒さんが、声を上げた。しまった、やってしまった――
 しかし、幸いにも? どうやらそれ以上の仕掛けはなかったらしく、何事も起きないようだった。ややしばらく愚図って蛍光灯が点くと、下衆な表情の桑原の生霊も消える。ふう。
「ごめん。ちょっと悪霊の類に憑かれかかって」
 がっくりと、力が抜けた。
「えっ、真堂さん、そっち系の力もあるんですか?」
 無邪気な物言いが救いであった。