廃屋はその周囲も含めて真っ暗である。奈緒さんの今日の衣装は全く馴染んでいない。構図だけ見ると、カップルがこれからまさに肝試しに入ろうか、といった説明がピッタリである。ただ、僕が相手でも、そう見えるものなのであろうか? いや、これは全く余計な心配であるけれど。
 すると奈緒さんが、合鍵を使って手早く玄関の引き戸を開けた。せめて明るければ――先に入った僕が、電灯のスイッチを探そうとすると「まだ灯りはダメです」と耳打ちして、奈緒さんが暗闇の中へ入って行ってしまった。仕方なく、といった感じで後を追う。
 もうここに来ることはないだろうと思っていたのに、しかも、まさかこんな夜更けに年下の女子と二人きりで、無人の廃屋に忍び込む事態になろうとは――。
 またしても、桑原が聞いたら大いに取り乱しそうなシチュエーション、といえばその通りであるのだが、実際の事態はそういう方向とは全く無関係なのも確かである。これは僕が変なのだろうか。
「トラップに注意して」とささやいて、奈緒さんが先に二階へ進む。慎重に、小型のペンライトの光を頼りに、狭くて急な階段を這うように上って行く。僕も後に続いた。ちらちらと揺れる僅かな灯りの中、目の前は奈緒さんの形の良いふくらはぎである。奈緒さんの足が止まったので、どんな様子なのかと、思わず上を向きそうになった僕は、あわてて顔を下げた。そういえば、今日は短めのスカートであることを思い出したのだ。危ない。これは別口のトラップであった。
 奈緒さんは、ライトに光る蜘蛛の糸さえ避けつつ――「きゃっ」と声がして、突然、しゃがみ込んで僕の腕を掴んできた。小さく震えている。罠か、非常事態発生か、ここは本当に悪の秘密結社のアジトなのか、と思わず身構える。すると「あそこに――」と奈緒さんの指す方向、震える光に照らされた先には、今まさに上から下がって来たのであろう蜘蛛の姿があった。親指程に大きくて、見事に黒々丸々としている。
「これが、トラップなのかい?」
「いえ、蜘蛛が苦手――なんです」
 そういうことか。僕は右手を伸ばして素早く掌に蜘蛛を包み込むと、そのまま背後の空間に向かって投げ捨てた。こんな程度でいちいち騒いでいては、杉浦荘の住人は務まらないのだった。
「これで、いいかな?」「はい――」奈緒さんはまだ震えている。
「先に行こうか?」「いえ、大丈夫です」
 まるで本当に縁日のお化け屋敷である。高校時代、男同士でスマートボールに興じていた僕らを尻目に、男女ペアで入って楽しんでいた連中はこんな感じだったとでもいうのか。何だろう、悪い気はしないけれど。
 これはもう事件や陰謀ではなく、今となっては単なる身内の間でのゲームに付き合っているだけの様相になってしまっている。僕は何をやっているんだろう? けれど、えい、乗りかかった舟である。結末を見届けて桑原に聞かせてやろう。