「だいたい――」
 一般常識から見ても、色々外れ過ぎていた。百歩譲って、不条理さと紙一重の面白さを狙ったのだとしても、ことごとくが「アウト」側に逸脱し過ぎている。そんな思いが僕にしては珍しく声になった。
「その恰好は何だ? わざわざ交番の近くで痴漢? それに、そのナイフ、言い訳無用で捕まるぞ。言ってるセリフも意味が分からないし、あと、なぜよりによってケムール人? 誰が知っていると? そもそも狙いは何――」
 自分でも驚くほど、思いつくまま、矢継ぎ早に言葉が紡がれていた。それにしても――あ、やっぱり声が出ている。先刻と同じ、ハイトーンの声だ。思い違いではなかったらしい。

 気が付くと、男が体育座りでお面越しにじっとこちらを見ていた。
「まあ、いいか」
 何をやっているんだ。僕は――そう、先を急いでいるのを思い出した。
「こうしちゃいられない」
 まだこちらを見ているらしい男から視線を外して、前方の暗がりへ向けて再び歩き出す。少なくとも、この先が行き止まりではないことはわかった。どこでもいい、早くここを離れよう。不格好な笑いの神の成りそこないみたいな奴に足止めを食らってしまった。悪夢と鉢合わせした気分でもある。こういうのは即刻無かったことにしてしまうに限る!
 ところが、背中から再び、電車のアナウンスが呼びかけてきた。
「待ってください!」
 声の調子が哀願の色を帯びていた。その気はなかったけれど、足が止まった。
「何?」
「落とし物――」と言って、長方形の物を頭上で振っている。まだやっているのか。
「って、あ、これ、僕の財布だ」
 そこだけ声が「素」だった。
 石を投げつけたい衝動を抑えて、僕は今度こそ闇の中へ突き進んだ。一瞬でも気を惹かれた自分に腹が立つ。でも、今のが一番面白かったかな――あくまで相対的に、だけれど。
 男は後ろでまだ何か叫んでるようだったが、無視を決め込む。二度と振り向くまい!