「言いたいことはね、人は誰でも、その人の体で出せる最大限の「いい声」を出せる潜在能力を持っているということよ。それが出来ないのは、そのための体の使い方を知らないからなの。細かい部分の動きは複雑だから、最初からできちゃう人もいれば、いくら教えてもできない人もいて千差万別だけど。でも、だいたいの人は練習次第でちゃんとそれなりのレベルで歌えるようになるわよ」
「つまり――僕も、少なくとも『あの声』は意識的に出せる、ってことですね」
「そうね。今はまだダメなようだけど。だから――」
「ちゃんと、その声が出る体の使い方ができるように、ボイストレーニングにはげみなさい、ってことですか」
「まあ、一言で言っちゃうと、そういうことになるわね」
 紗枝さんは、せっかくの熱演を至極一般的な結論にまとめられたことには、ちょっと不満そうであった。でもよくわかった。僕の場合、単純にまだまだ練習が足りないのである。
 ただ、高校時代からも含めて、その辺の基礎は一応習っているし、練習もそこそこはしている。それでもあまり変化を自覚できていない。北山みたいなヤツは、意識しなくても自然に体を使えてる、ということは、言い換えるとそれを「才能」と言うのだろう。逆に、上達が遅く、いまだにちゃんといい声が出せない僕は、やはり才能が無い――と。
 なんとなく落ち込んでいる僕に、紗枝さんが言った
「今の話は、一般的な歌の初心者向けのレクチャーなんだけど」
「はい?」
「あなたの場合は、上手くいかない、上達しない、というのには、それ以前の重大な問題がありそうね。才能が無いから、じゃなくて、ドベネックの桶なのかもね」
「え?」
 いつもの謎かけ、だろうか?
 ここで、お客さんが来た。開店時間であった。
「今日は時間切れ」と言って紗枝さんが立ち上がる。
「あなたにはまだ見えていないものがありそうね。続きは、それが見つかったら、ね」
 やはり、紗枝さんの言葉は意味深である。
 僕に足りないもの――それはいったい。それに、ドベネックの桶って?
「『満月の夜に、閉ざされた扉は開かれる』でしょ? 満月で、明るい未来なんだから、しょぼくれた顔しないの!」
 にこやかに、喝、を入れられた。
 そう。歌が上達するのに、一気に成長する魔法のアイテムや、簡単な方法はない、ということのようである。
 ならば――今はまず、目の前の厄介事に集中しますか。