その日の夜遅く、奈緒さんがバイト先に突然やって来た。
 ドーナツのファーストフード店の、夜間の店内清掃作業である。今夜はサークルの先輩のピンチヒッターに指名されたのだった。朝まで一人きりの作業だったが、今まで何度かやっているし、財布が心細い状況には救いの神でもあるのだ。
 そこに、奈緒さんが現れた。床のモップ掛けをしていると、ガラス戸をコツ、コツ、と叩いて辺りを見まわしている。
 黒のキャップを被り、髪は帽子の中。眼鏡にジーンズ姿だった。
 もう驚かないけれど、一応聞いてみる。
「なんで、ここが?」
 割と急な依頼で、ここに居ることを奈緒さんは知らないはずだった。
「あの夜のもう一人の浴衣の子、真堂さんのサークルの人なんです」
「え」
 今年の新入生自己紹介会。全く臆することなく、楽しさを前面に押し出した、スーパー・ガールズバンドだった。超越している、という形容がおおげさではなく、今現在すでにサークル内では「トップファイブ」と言われる看板ユニットの一角に食い込もうかという勢いなのだ。
 ――そのヴォーカルの娘?
「実は、あの夜は木島さんからの秘密指令を受けてたんです。偶然を装って被験者になってくれないか、と。でも、実験もちゃんとやりたいから、できれば事情を知らない人を一人、連れてきてほしい、と」
 それはなかなかに無茶な依頼ではないだろうか。でも、それで目をつけたのがあの子か。確かに、彼女ならあの夜のカジ谷君も笑って受け流しそうではある。むしろ、逆に大喜びしそうな。実に適切な人選である。
「でも、どうやって?」
「ちなみに私は、助っ人でキーボードをやってました」
 そういう繋がりがあったとは!
 知らなかった。あの時のメンバーは、全員が過度に派手な衣装とメイクで、露出もやや多めだった。決め、のアクションもきれいに揃っていて、会場が異様に盛り上がり、ちょっとした騒ぎになったのである。え、あの中に奈緒さんがいた? あの光景と目の前の奈緒さんは全く重ならなかった。想像がつかない。何にでもなれるんだね、この「女二十面相」は。
「ちなみに、真堂さんとは気付いてませんでしたよ」
 それは幸いだった。しかし、まだ疑問の解答に結びつかない。
「彼女は真堂さんのサークル内の情報通ですから。まずは彼女に聞いてみたんですよ。でも、今日はたまたまです。皆で街へ繰り出すとかで――」
 奈緒さんが言うには、そのメンバーの中に今夜の依頼主の先輩がいるのを偶然知ったらしい。「それで、今日のバイトは代役だと――」
 なんと、そんな身近な足元で諜報部員の暗躍が!