色々な思念が浮かんだが、とりあえず通報だけはしておこうと思った時、はるか前方から嬌声が聞こえた。年頃の女性達と思われる笑い声である。前方暗闇から、縁日の商品と思われるかすかな蛍光色の光とともに、段々こちらに近付いて来る。ああ、運悪く獲物が通りかかろうとしているのだ。黒い影もそれに気づいてまさに身構えている。
今から引き返しては間に合わない。見知らぬ他人とはいえ、女性を相手に卑劣な行為が展開されるのを黙って見逃していいのか。ここで僕の存在を知らしめれば、男は逃げ出す可能性が高いのではないか。つかの間逡巡する。そして――あ、いざとなったら踵を返して表通りまで走ればなんとかなるかな、という計算が頭をよぎった瞬間、僕はとっさに足を強く踏み出していた。
思ったより大きな靴音が鳴って驚く。自分にそんな社会的正義感みたいなものがあるとは思ってもいなかった。
冷静に考えると、暗い路地に潜む怪しい人物が、危険じゃない訳がないのだけれど、この時は完全に「恐い」イメージは消え去っていた。その滑稽とも見える姿に、むしろ、次々と湧いてくる細かい疑念を一つ一つ詳細に問い詰めてやりたいような衝動が勝っていた状態であったかもしれない。
背後からの突然の音に、びくっとして男が振り向いた。その顔は――ケムール人(僕にはそう見えた)のお面をかぶっていた。サイズがやや小さくて、顔の顎部分の輪郭が丸見えである。そのお面、何の意味があるんだ? 全く想定外の物を見た僕の足が、反射的に止まる。男は息を飲んだかに見えたが、次の瞬間、何を考えたか僕に向かって仁王立ちになった。え? そのポーズ、まさか。これは予想外の動きだった。攻撃対象は女性限定、とばかり思いこんでいた僕は混乱した。まさか女に見えたとか。いや、それはないぞ。
混乱する僕を前に、男はポケットに入れたままの両手を、そのまま勢いよく横に広げた。コートの前が全開になる。ええええっ? その物体を僕に晒してどうする! ――と思ったら、予想に反してコートの下は競泳に使うような黒っぽい短いパンツを履いていた。これは何とも、肩透かし。(何を期待したんだ、僕は!)
それも予想外だったが、更に、間隙をついて今度は僕に向かってきた。どうしてこっちへ来る!
男はおもむろにコートのポケットから両手を出した。その右手には、ナイフ――なのか? いや、海賊が持っているような、大きめの鍔がついた、とにかく危険な見た目の凶器が握られていた。そして間髪を置かず両手を僕に向かって振り下ろしてきたのだ。あっ、と思う間もなかった。僕は首をすくめてとっさに男の手首を掴んだが、ナイフの切っ先は僕の肩に到達した。目いっぱい体を緊張させる――と、
くひゃん、という軽くて鈍い音がした。「ん、んっ……?」
恐る恐る薄目を開けてみる。肩に、尖った物が当たっている感触はあったが、痛くはない。見ると、ナイフの刃が短くなっていた。バネ仕掛けで柄の中に格納される、そうか、これはオモチャだ!
「はい、刺さってませーん♪」
唐突にお面の下からの声――音質の悪い電車の車内アナウンスを早回しにしたような不思議な声だった。更に男はくるりと回転してぺこり、と頭を下げ、顔を傾けると
「どうも、すみませーん♪」と両掌を上に向けて肩をすくめた。
しばしの沈黙――そして
「ふ、ふっ……」
どういうわけか最初に腹筋が反応した。そして緊張が解けた次の瞬間、僕は男に向かって叫んでいた。
<<「ふざけるなーっ!」>>
男は弾かれたようにのけ反り、後ずさりをして、ゆっくりと尻餅をついた。発した声が、周囲に発散するのではなく、一点に集中して真っすぐに男の体を射抜き、まるで声の矢が命中したかのように。そんなはずはないけれど、発した本人にもそういう絵が見えた気がした。
え? 今の声は――
今から引き返しては間に合わない。見知らぬ他人とはいえ、女性を相手に卑劣な行為が展開されるのを黙って見逃していいのか。ここで僕の存在を知らしめれば、男は逃げ出す可能性が高いのではないか。つかの間逡巡する。そして――あ、いざとなったら踵を返して表通りまで走ればなんとかなるかな、という計算が頭をよぎった瞬間、僕はとっさに足を強く踏み出していた。
思ったより大きな靴音が鳴って驚く。自分にそんな社会的正義感みたいなものがあるとは思ってもいなかった。
冷静に考えると、暗い路地に潜む怪しい人物が、危険じゃない訳がないのだけれど、この時は完全に「恐い」イメージは消え去っていた。その滑稽とも見える姿に、むしろ、次々と湧いてくる細かい疑念を一つ一つ詳細に問い詰めてやりたいような衝動が勝っていた状態であったかもしれない。
背後からの突然の音に、びくっとして男が振り向いた。その顔は――ケムール人(僕にはそう見えた)のお面をかぶっていた。サイズがやや小さくて、顔の顎部分の輪郭が丸見えである。そのお面、何の意味があるんだ? 全く想定外の物を見た僕の足が、反射的に止まる。男は息を飲んだかに見えたが、次の瞬間、何を考えたか僕に向かって仁王立ちになった。え? そのポーズ、まさか。これは予想外の動きだった。攻撃対象は女性限定、とばかり思いこんでいた僕は混乱した。まさか女に見えたとか。いや、それはないぞ。
混乱する僕を前に、男はポケットに入れたままの両手を、そのまま勢いよく横に広げた。コートの前が全開になる。ええええっ? その物体を僕に晒してどうする! ――と思ったら、予想に反してコートの下は競泳に使うような黒っぽい短いパンツを履いていた。これは何とも、肩透かし。(何を期待したんだ、僕は!)
それも予想外だったが、更に、間隙をついて今度は僕に向かってきた。どうしてこっちへ来る!
男はおもむろにコートのポケットから両手を出した。その右手には、ナイフ――なのか? いや、海賊が持っているような、大きめの鍔がついた、とにかく危険な見た目の凶器が握られていた。そして間髪を置かず両手を僕に向かって振り下ろしてきたのだ。あっ、と思う間もなかった。僕は首をすくめてとっさに男の手首を掴んだが、ナイフの切っ先は僕の肩に到達した。目いっぱい体を緊張させる――と、
くひゃん、という軽くて鈍い音がした。「ん、んっ……?」
恐る恐る薄目を開けてみる。肩に、尖った物が当たっている感触はあったが、痛くはない。見ると、ナイフの刃が短くなっていた。バネ仕掛けで柄の中に格納される、そうか、これはオモチャだ!
「はい、刺さってませーん♪」
唐突にお面の下からの声――音質の悪い電車の車内アナウンスを早回しにしたような不思議な声だった。更に男はくるりと回転してぺこり、と頭を下げ、顔を傾けると
「どうも、すみませーん♪」と両掌を上に向けて肩をすくめた。
しばしの沈黙――そして
「ふ、ふっ……」
どういうわけか最初に腹筋が反応した。そして緊張が解けた次の瞬間、僕は男に向かって叫んでいた。
<<「ふざけるなーっ!」>>
男は弾かれたようにのけ反り、後ずさりをして、ゆっくりと尻餅をついた。発した声が、周囲に発散するのではなく、一点に集中して真っすぐに男の体を射抜き、まるで声の矢が命中したかのように。そんなはずはないけれど、発した本人にもそういう絵が見えた気がした。
え? 今の声は――