「まあ、お前の場合はそうかもしれないが」と言って桑原の見上げる先は、突っ張りポールに掛かった服だった。一番端に掛かっている三着は、僕が「正装」と呼んでいる衣服で、深川先輩と会う時だけに着る特別な衣装なのである。普段の、よれたり擦り切れたりした恰好では釣り合いが取れないというか、そもそも失礼に当たると思って購入したものだ。もっとも、特別と言っても、近所のスーパーの衣類売り場に売っていた安物のシャツとパンツなのであるが。
 これは、一つ年下の、昔からおませだった従妹が訪ねてきた時に、天の助け、とばかりに頼み込んで見立ててもらったものだった。正直、自分ではこういう場合に何を選んだらよいか見当もつかなかったのだ。事情を話すと、深川先輩のことを色々聞いた上で、何を勘違いしたのか、彼女は最初やたらと「尖った」デザインのものを勧めてきた。「相手は超絶手強いんだから、攻めないと、攻略できないわ!」と妙に鼻息が荒かったのだが、そうではなく、一緒に居るところを見られても、深川先輩が恥ずかしい思いをしないためだけの目的であることを、根気強く何度も説明し、頭まで下げた結果、つまらなそうな顔をしながらも真剣に選んでくれたのである。落ち着いた定番のデザインと色、それでいて僕のイメージを、彼女曰く「五センチ底上げ」するものだという。公言するつもりはなかったのだが、僕が慣れないアイロンを真剣にかけているところに入ってきた桑原が、こっそりと後ずさりしてそろりとドアを閉めたことに、不覚にも気付かなかったのだ。
「だいたい、お前がその先輩と会う日はわかるぞ。前の日は銭湯で体を二回洗ってるからな」
「何?」
 体を二回。それは自覚が無かった。ちなみにそこは、巨大なガマ蛙の置物然としたばあさんがいつも番台に座っている年季の入った銭湯で、近隣に住む同級生達の憩いの場でもある。
「たまに、頭も二回洗ってるし」
 つまりは、頭と体を洗って湯船につかって、の流れで、いつもはそれで上がるところを、もう一度洗い場に座って体を洗い始める、と言うのだ。失敗のないように、頭の中で綿密に翌日の行動のシミュレーションをしていただけなのだが、気付かなかった。確かに、かなり異常だ。
「大抵の分野で俺の方が異常なのは認めるが、これに関してはお前が相当に異常だぞ」
 桑原の逆襲は続く。
「最初の衝撃が強すぎて、お前、本当はその時に死んでるんじゃないのか? それで、その先輩に対しては普通の感覚じゃないんだろう? 女神じゃなくて死神!」
 昔読んだジョージ・マクドナルドの「北風のうしろの国」という童話では、優しい北風の精が同時に死を司る存在でもあった。それでも、主人公の少年は幸せだったはずである。何と言われようと、深川先輩は僕なんかにも救いの手を差し伸べてくれる女神であることは間違いないのだ。そのことを熱弁すると、桑原は「そういうことにしておくよ。お前が幸せなら、俺は構わん」と、何故か慈悲深い声である。
 桑原はそれっきり黙り込んで、仰向けに寝転がった。何かに思いを巡らせているようだが、どうせろくなことではない。なんとなく、空しい空気が流れる。