そこは、夜しか開いてない、不思議な喫茶店「MoonBeams」だった。
以前にも何度か連れてきてもらったことがある。細い黒縁の眼鏡をかけて口髭を蓄えた、年齢不詳の、穏やかだがどこか掴みどころのないマスターが、いつも一人でカウンターに立っている店だ。そして何を隠そう、このマスターの仲介で手に入れたのが僕の新しいギターだったりするのだ。
「私もたまに気分転換に。よく当たるわよ」と言う深川先輩。
何でも、この日はマスターの知り合いだという占い師が来ているはず、とのことであった。
ギターショップへ行く途中の、あの公園のT字路のひとつ手前の十字路を右へ曲がる。幹線道路から一本北側にはずれた通り沿いの角に位置する、古い洋館風の一軒家である。後にカジ谷君に遭遇する路地からも程近い場所だ。視界を遮る高さの塀に囲まれた小さな前庭を通って玄関にたどりつくまでの間には、案内も立て看板もなく、喫茶店かどうかもわからない。ドアの横には洒落た字体で「MoonBeams」と書かれた、これも古びた小さな木製の表札が掲げてある。初見で入るには勇気がいる店であった。マスター曰く「ここは、ここに来るべき人しか来ないようになっているから」ということであるが――
ドアを開けると、コーヒーの匂いが香る。こじんまりとした大正ロマン風な装飾の店内は、ほどよい明るさの間接照明に、ほどよい音量でピアノ・トリオのスローテンポなJazzが流れていた。店名の由来でもある、ビル・エバンスの「Moon Beams」というアルバムである。開店直後にはいつも、決まってこのアルバムをかける、というマスター。深川先輩のユニット名「Re:Person」は、このアルバムのA面先頭の曲「Re:Person I Knew」からとったことを、深川先輩自身が以前話してくれた。
今日も実は居るかどうかはわからない、という、その占い師は運よく来ていた。
カウンターに座ってマスターに何やら身振り手振りで話しかけていた、黒っぽいワンピースを着た、髪の長い細身の女性がこちらを振り返る。若くは見えるんだけど、醸し出す雰囲気からは全然年齢の分からない、目鼻立ちの整った女性だった。一瞬、射抜くような視線をこちらに投げかけてきたが、すぐに穏やかな微笑みになって話しかけてきた。
「あら、百合ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです、紗枝さん」と、深川先輩が答える。
「その子が噂の、下僕の子?」
「いえ、下僕って――パートナーですよぉ」
「全然、そうは見えなかったけど」
紗枝さん、と呼ばれた女性は、僕に顔を向けた。
「忠実なる僕の真堂です」
緊張した僕は、会話を受けてとっさにそう、口走る。
「ちょっと、真堂君!」と言って、あわてる深川先輩であった。
「ふぅん、なるほどね。私は久坂紗枝。よろしくね」
紗枝さんは、意味深に笑いながら手を伸ばしてきた。サバサバした毒舌家、と深川先輩が一言で評していた通りのようだ。
「私に用があるのは――百合ちゃんじゃなくて、その子の方ね」
何を見たのか、紗枝さんは僕にじっと視線を向けたままである。
「うん、面白いわ。不思議ね。ねぇ、マスター」
「言った通りだろう?」と言って、マスターがカウンター越しに顔だけこちらに向ける。不思議と言えば、この店も、マスターの不思議さも尋常ではないと思うのだけれど。
でも、今の不思議、という言葉は僕が関係しているのだろうか。
以前にも何度か連れてきてもらったことがある。細い黒縁の眼鏡をかけて口髭を蓄えた、年齢不詳の、穏やかだがどこか掴みどころのないマスターが、いつも一人でカウンターに立っている店だ。そして何を隠そう、このマスターの仲介で手に入れたのが僕の新しいギターだったりするのだ。
「私もたまに気分転換に。よく当たるわよ」と言う深川先輩。
何でも、この日はマスターの知り合いだという占い師が来ているはず、とのことであった。
ギターショップへ行く途中の、あの公園のT字路のひとつ手前の十字路を右へ曲がる。幹線道路から一本北側にはずれた通り沿いの角に位置する、古い洋館風の一軒家である。後にカジ谷君に遭遇する路地からも程近い場所だ。視界を遮る高さの塀に囲まれた小さな前庭を通って玄関にたどりつくまでの間には、案内も立て看板もなく、喫茶店かどうかもわからない。ドアの横には洒落た字体で「MoonBeams」と書かれた、これも古びた小さな木製の表札が掲げてある。初見で入るには勇気がいる店であった。マスター曰く「ここは、ここに来るべき人しか来ないようになっているから」ということであるが――
ドアを開けると、コーヒーの匂いが香る。こじんまりとした大正ロマン風な装飾の店内は、ほどよい明るさの間接照明に、ほどよい音量でピアノ・トリオのスローテンポなJazzが流れていた。店名の由来でもある、ビル・エバンスの「Moon Beams」というアルバムである。開店直後にはいつも、決まってこのアルバムをかける、というマスター。深川先輩のユニット名「Re:Person」は、このアルバムのA面先頭の曲「Re:Person I Knew」からとったことを、深川先輩自身が以前話してくれた。
今日も実は居るかどうかはわからない、という、その占い師は運よく来ていた。
カウンターに座ってマスターに何やら身振り手振りで話しかけていた、黒っぽいワンピースを着た、髪の長い細身の女性がこちらを振り返る。若くは見えるんだけど、醸し出す雰囲気からは全然年齢の分からない、目鼻立ちの整った女性だった。一瞬、射抜くような視線をこちらに投げかけてきたが、すぐに穏やかな微笑みになって話しかけてきた。
「あら、百合ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです、紗枝さん」と、深川先輩が答える。
「その子が噂の、下僕の子?」
「いえ、下僕って――パートナーですよぉ」
「全然、そうは見えなかったけど」
紗枝さん、と呼ばれた女性は、僕に顔を向けた。
「忠実なる僕の真堂です」
緊張した僕は、会話を受けてとっさにそう、口走る。
「ちょっと、真堂君!」と言って、あわてる深川先輩であった。
「ふぅん、なるほどね。私は久坂紗枝。よろしくね」
紗枝さんは、意味深に笑いながら手を伸ばしてきた。サバサバした毒舌家、と深川先輩が一言で評していた通りのようだ。
「私に用があるのは――百合ちゃんじゃなくて、その子の方ね」
何を見たのか、紗枝さんは僕にじっと視線を向けたままである。
「うん、面白いわ。不思議ね。ねぇ、マスター」
「言った通りだろう?」と言って、マスターがカウンター越しに顔だけこちらに向ける。不思議と言えば、この店も、マスターの不思議さも尋常ではないと思うのだけれど。
でも、今の不思議、という言葉は僕が関係しているのだろうか。