けれど、確かに説明には矛盾らしき部分はなかった。ではなぜあんな行為を? 抑圧されていた煩悩が溜まりに溜まって暴走したとか。
 男は「改めて、僕はこういう者です」と名刺を差し出してきた。

  北海大学 教育学部一年 お笑い研究サークル 無笑者(ぶしょうもの)の会
  カジ谷 徹

 カジ谷君? 大学の後輩なんだ。で、お笑い研究って何? 変質行為の実演もやっているとか――疑問は全く解消されてくれない。ここに至るまでの話の中で、関連する要素が全く見当たらなかった「お笑い」という単語に、むしろ混乱の度合いが増長する。
 お笑いの仕組みの「研究」をしている――。
 実演していたわけではなく、実験で――。
 もう少しで完成が見えて――。
 身振り手振りでそのような意味の説明を必死に投げつけてくる。実演でも実験でも、そんなの、やられる側にとってはどちらでも同じではないか。
 ステージでは次のグループの演奏が始まった。サークルの先輩達のユニットで、ボン・ジョヴィの「夜明けのランナウェイ」のキーボードのイントロが流れて来る。じっくり観たいと思っていたのに――
 これ以上ない、僕のしかめっ面の極限状態を感じたか、カジ谷君は懇願するように言い迫ってきた。要するに「どうして面白いのか、メカニズム徹底的に解明し、逆にそのメカニズムに則って面白いお笑いの再構築ができるところまで持っていきたい」ということらしく、
「やっと、その段階にたどりついたんです」と言う。
 昨夜のは、その研究結果の実証実験だったと?
 まともに考えるのも拒否したい気分ではあったが、かなり断言してもいいレベルの一般論としては、学術的に研究して面白いとされた方法で、はたして誰もが実際に笑いを起こせるものなのだろうか。
 笑いが、どのような仕組みで可笑しかったかを真面目に解明したとして、それは研究成果としては価値があっても、そこからお笑いを生み出すのはまた別の問題というか、才能が必要なのではないか。文学研究者が優れた文学を書けるだろうか。音楽評論家がヒット曲を生み出せるだろうか。お笑いの研究者が笑いを取れるものなのか。 
「だからこその実証実験だったんです」とカジ谷君は言う。いや、もし仮に実験だとしたら、大失敗だ。なぜなら、これっぽっちも面白くなかった(・・・・・・・・・・・・・・)からである。まあ、そんな中で強いて一番面白かったのは最後の財布のくだりかな――