――

 幸いにも天気は薄曇り程度で穏やかであった。そんな中、本番は慌ただしく進行したが、特に大きなトラブルもなく、僕らの出番は無事に――深川先輩がステージ脇でケーブルに軽く足を引っかけたけれど――終了した。
 初めての野外会場だったが、どうやら人前での演奏にもだいぶ慣れてきたようだ。もちろん緊張はするけれど、それも含めての「本番」だということが、最近になってやっとわかってきたのである。
 ギターでのサポートは、新しいギターのおかげもあって、ほぼ完璧だったはずだ。自信があった。ただ、ハモりは――寄り添えていなかった。音程を外す、とかの事故はなかったはずだけれど――そもそも、最低限のハモリを申し訳程度に入れただけなのだが、僕の声は何だか、主旋律から剥がれ落ちてしまうような感じがしていた。実際に、マイク乗りが悪い声であるとは思う。深川先輩はどう感じたのだろうか。
 ステージを降り、裏手側の出入り口から外へ出た。
「お疲れ様でした」と声をかける。深川先輩はやや放心気味である。あ、眼鏡かけて下さいね。
 深川先輩は「ありがとう、お疲れ様」と言って白いハンドタオルで汗を拭い、眼鏡をかけ、ふぅ、とため息をつく。「やっぱり緊張するなぁ」
 そうは言いながらも、深川先輩の演奏は普段の練習と微塵の違いもなく正確に、しかも、本番の空気に触発されてか、よりダイナミックに情感が溢れ出ている感じだった。演奏中にも関わらず、思わず聞き惚れてしまいそうになる程だった。そして、歌の方も、やや緊張気味に固い歌い出しだったけれど、その後はこれも練習通り、迷いなく、最後まで真っ直ぐに歌い切っていた。深川先輩の本番での「強さ」にはいつも感服させられるのだ。ぼくはその姿に引っ張られるように、いつもの練習以上の力が出せたような気がしていた。
 深川先輩は、目を閉じて余韻を反芻しているようだった。その様子に、僕のハモリの懸念をこの場で聞いてみるべきかどうか言葉を探していた時、ふいに声を掛けられた。
「あの、すいません」
 振り向くと、見覚えのない男の顔があった。思案する。どちら様でしたっけ?
 思い出そうとして、目の前の男に気を取られていると「じゃぁ、反省は来週のミーティングで」と言って、深川先輩は僕と、その男にまで丁寧に会釈して観客席の方に行ってしまった。そこにはサークルの仲間達が大勢見に来ていたし、僕に、友人と思われる男が話しかけたのを見て気を利かせたのだ。それと、本当に知らない人には人見知りなのである。ああ、せっかくの至福の時間だったのに。
 ――で、君は誰なのかな?
 大切なひと時の「締め」を邪魔された格好になり、ちょっとムッとして振り返る。全く見覚えが無い。心当たりもない。大学生のような雰囲気ではあるが、年齢も特定しにくい。首をかしげて思案していると、男が声を発した。「昨夜はお騒がせしました」
 その声。調子の悪い電車のアナウンス! もしかして。
 大きな手提げの鞄を開けて、ゴソゴソと引っ張り出しかけたのは黒っぽい布。
「――じゃなくて」と言って鞄をのぞき込み、今度こそ、ともう一度取り出したのは、ケムール人のお面だった。
「あーっ。やはりお前は!」と、思わず声が出た。昨夜の振り切ったインパクトからは絶対に予想もできない地味さ。声をかけられなければ、そこに居ることを認識することも難しいような――男はその場の背景として、その他大勢と一体化していた。