「そんなことより、ほれ、あれじゃねぇのか」

 彦佐の軽口を無視し、重実は呉服屋のほうを顎で指した。黄八丈に巻羽織の侍が、呉服屋の暖簾を潜っていった。

「背格好は似てるが、これといった特徴もない身体つきだしなぁ」

「ちっと離れすぎたな。ここからじゃ、面が見えねぇ」

 大場は鼻の横に大きな黒子があるらしい。この上ないほどわかりやすい特徴だ。だからこそ、彦佐と会うときは顔を隠したのだろう。

「あそこの茶屋に行くか」

 呉服屋の隣に、小さな道を挟んで茶屋がある。通り沿いに床几があり、外でも休めるので、あそこにいれば前を通ればばっちりだ。

「近すぎねぇか」

「多少の危険は覚悟の上だ」

 重実は少なくとも大場に面は割れていないので大丈夫だろうが、彦佐は見つかる危険がある。だが気にする素振りもなく、彦佐はするすると茶屋に近付いた。
 茶と団子を頼んでしばし経つと、呉服屋から同心が出て来た。上機嫌だ。袖の下をたっぷり頂いたのだろう。ちらりと重実は、同心の顔を見た。確かに鼻の横に黒子がある。

『ではわしが喋らせてやろうかの』

 するりと狐が重実の肩から降り、大場のほうへ走り寄った。いつものように背を駆け上り、いつかのように、肩から前足を伸ばして胸元に突っ込む。

「うおっ? な、何でぇ」

 大場が驚いて己の胸に手をやった。狐は素早く前足を引き抜き、降りるついでに尻尾で首筋を撫でた。

「ひぃっ!」

 情けない声を上げ、大場が悶えた。お付きの小者が怪訝な顔で見ている。

「旦那様、どうなされたのです」

「い、いや。何かもぞもぞしたのだが」

 首筋を掻きながら、大場が言う。見かけに反して甲高い声だ。ちらりと重実が彦佐を見ると、じ、と大場を見ていた彦佐は、小さく頷いた。

「間違いねぇ。この声だ」

「でかしたぜ」

 戻って来た狐に言いながら、重実は彦佐と共に茶屋を後にした。
 二人が呉服屋を通り過ぎたとき、路地からゆらりと一つの影が現れた。それはしばらく二人の後ろ姿を見つめ、十分間が開いてから、ゆっくりと歩き出した。