熱海温泉つくも神様のお宿で花嫁修業いたします

 

「私は、傘姫に何もできなかったけど……。でもいつか必ず、本物のふたりで向かい合って美味しいビーフシチューを食べてほしいです」

 ふわりと、花が花咲くように微笑む。
 不意にそよいだ風が花の髪を優しく揺らして、八雲は目を細めると、無垢な美しさに見惚れた。

「でも……関係ない私が、余計なお節介でしたかね」

 ヘヘッと小さく笑った花は頬を掻く。
 八雲は慌てて花から目を逸すと、心臓を落ち着けるように喉の奥で咳払いをした。

「いや……余計なお節介ということはないだろう。だが──」

「ねぇねぇ、どんなお願いごとしたのー?」

「えー、どんなって……大楠を一周しながら何を願ったのかは、誰にも言っちゃ駄目なんだろ? 口に出したら叶わなくなるかもだし、秘密だよ〜」

 そのとき、また先程のカップルが花と八雲のそばを横切った。
 ふたりの会話を耳にした花は、思わずサーッと青褪める。

「ど、ど、どうしよう……! 私今、願いごと言っちゃいましたよね!?」

 口に出したらいけないというルールがあるなど知らなかった。とはいえ、神頼みするときは大抵、願いごとは口に出さないのが定石だということに、花は今更気がついた。

「ふ……っ、大丈夫だろう。俺は聞かなかったことにする」

 慌てる花を見て、八雲が息を零すように笑った。

「それにあのふたりなら、誰かが願わなくとも、きっと来世で巡り会い、必ず幸せに暮らせるだろう」

 言いながら、そっと大楠を見上げた八雲は、降り注ぐ木漏れ日に目を細めた。
 そんな八雲の言葉と姿を眩しく思いながら見つめた花は、「そうですね……」と呟き、静かに顔を綻ばせる。

「……さぁ、もう満足しただろう。今度こそ本来の目的を果たしに行くぞ」

 と、ひと呼吸置いて八雲が花へと視線を戻した。その言葉にドキリと胸の鼓動が跳ねた花は、思わず肩を強張らせた。
 本来の目的──とはもちろん、弁天岩に挨拶に行くことだ。
 そもそも今日、花が八雲とふたりで大楠神社へ来たのは、弁天岩が『八雲の嫁を見せに来い』と要求してきたためだった。
 八雲は大楠まで来た竹林の小道とは別の、幅の広い橋を渡って本殿の前まで戻った。
 その途中には近代的なカフェやテラスがあり、訪れた人々が談笑に花を咲かせている。

「八雲さん、弁天岩さんは一体どこにいるんですか?」

 階段を下り、八雲の一歩後ろを歩く花が尋ねると、八雲は本殿向かって右側へと目を向けた。

「大楠神社の境内には三つの摂末社(せつまつしゃ)がある」

「……摂末社?」

「ああ。摂末社とは神社本社とは別に、その境内または附近の境外にある小さな社のことを言う」

 八雲の言葉に花がふと思い浮かべたのは、神社に行くと見かける小さな社の存在だった。
 以前から、神社の中に神社があることを不思議に思っていたのだが、それらは今八雲が説明したとおり、【摂末社】だったのだろう。