「その必要はない」

「え……」

 冷たい視線に射抜かれた花は、まるで八雲と初めて会ったときのように反射的に身を強張らせた。

「そもそも、稲荷社に祀られているのが狐だなどと、今の今まで勘違いしていたような奴に参拝されても、宇迦之御魂神は迷惑だろう。仮にも俺の嫁候補を名乗るのなら、自ら恥をかくようなことを安易に口にしないことだ」

「な……っ」

 突然の不躾な物言いに、花は思わず目を見張った。
 けれどそんな花を意にも介さず、八雲は稲荷社に背を向けると、さっさと本殿に続く参道の先を行ってしまう。

(な、なんで急に……)

 たった今の今まで和やかな空気だったのに、何が八雲の癪に障ったのかわからない花は、悶々とした気持ちを連れて八雲の背中を追いかけた。
 本来ならば捕まえて問い詰めたいところだが、そんなことをすれば更に状況は悪化するような気がして声をかけることができない。

(せっかく、ふたりで楽しくお参りできると思ってたのに……)

 花は八雲にかけてもらったジャケットを、ギュッと胸の前で手繰り寄せた。
 黒い革のジャケットは、内側は暖かいのに外側はやけに冷たい。
 それが皮肉にも、八雲自身を彷彿とさせるようで……花は何故だか無性に泣きたくなって、視線を足元へと落とした。
 気分はスッカリ落ち込んでいたが、だからと言ってひとりでつくもには帰れないため八雲を追いかけることしかできないのが悔しい。

「……これが、大楠神社の本殿だ」

 結果、ふたりは本殿につくまで一言も言葉を交わさなかった。
 手水舎を過ぎるとすぐ右手にあったのは、【御神水(ごしんすい)】。そして階段を上ると正面に現れたのが大楠神社の【本殿】だ。

「これが、大楠神社の本殿……」

 落ちていた気分を上げるように、綺麗な朱塗りの建物を見上げた花は感嘆した。
 自然に包まれた広い境内に、目が覚めるような朱色が良く映えている。
 (おごそ)かな雰囲気に包まれたその場所には、精悍な顔つきをした狛犬が二匹、向かい合うように座していた。
 思いっきり息を吸い込むと、小さな悩みなどどこかへ吹き飛んでしまうようなパワーを感じる。
 八雲を追って階段を上った花は、神々しい佇まいに感動しながら拝をして、柏手(かしわで)を打った。

(とりあえず、八雲さんの嫁候補ですって挨拶したほうがいいのかな……)

 と、花は心の中でひとりごちたが、よくよく考えたら神様には心の声まで聞こえているのでは……と気がつき、肝を冷やした。
 たとえ心の中でも迂闊なことは唱えられない。
 そんなことを考えているうちに何をお願いすればよいのかわからなくなり、花は目を閉じたまま「うーん」と小さく唸ってしまった。