そのユイと一度視線を交わらせてから、俺は美由紀さんの方を向いて意を決した。
「美由紀さん、いろいろとすみませんでした」
硬い声で頭を下げて謝罪すると、美由紀さんは大きい目をさらに真ん丸く見開いた。美由紀さんの言葉を待たずに俺は続ける。
「あんなにお世話になって、アドバイスもたくさんしていただいたのに、プロになるどころか、コンクールで結果も残せなくて。怪我したのもあったけど、結局は俺の実力が足りなかったんです。それなのに、逃げるようにバレエを辞めて、連絡も断っちゃって。本当にすみません」
心臓がバクバクと音を立てている。こんなに緊張するのはコンクールで踊る以来だ。電車がホームに入ってくるアナウンスや人々のざわめきで、辺りはそれなりに騒々しかった。
それでも俺たちの周りだけはどこか静けさが包んでいる。
「シュウくんが謝る必要はないよ。私の方こそごめんね」
静かに呟かれた言葉に今度は俺が目を見開く。美由紀さんはこちらを見ずに目線を下にしたままだった。
「無責任に『シュウくんならきっとプロになれるよ』って言っちゃって。プレッシャーを与えてたんじゃないか、ずっと気にしてた。私が余計なことを言わなければ、今でもシュウくんはバレエを辞めずに、好きでいたんじゃないかって」
「そんなっ!」
思わず俺は立ち上がった。美由紀さんが俺にそんな気持ちを抱いていたなんて微塵も想像していなかった。俺はぐっと息を呑む。そしてそのまま美由紀さんの真正面に立った。
「俺、今もバレエが好きです!」
なんの躊躇いも迷いもなく、すんなりと言葉がでてきたことに自分でも少しだけ驚いた。すぐに気を引き締め、顔を上げた美由紀さんに微笑みかける。
「美由紀さんの踊りを見るのが好きでした。美由紀さんにずっと憧れてました。俺をここまでバレエにのめり込ませてくれたのは美由紀さんのおかげなんです。こんなにバレエを好きになれたのも。だから謝らないでください」
美由紀さんの綺麗な顔が一瞬だけ歪んで、そしてすぐにいつもの笑顔になる。
「そうやって、シュウくんがいつも励まして、応援してくれていたから、私も頑張れたんだよ……ありがとう」
「俺も、ありがとうございます」
謝りたかったわけじゃない。謝って欲しかったわけでもない。本当はずっとお礼を言いたかった。『プロになる』という目的は叶えられなかったけれど、だからといってバレエに注いできた情熱は本物だ。
無駄なものじゃなかった、誇れるものだと、少なくともそう思っても肯定してくれるやつが今はそばにいる。
美由紀さんもゆっくり立ち上がった。
「受験とか、ご家族の意向とかいろいろあると思うけど、でもシュウくんにはまた踊って欲しいな。私もシュウくんの踊りが好きだったよ」
そう言い残して、美由紀さんは再びレッスンに戻っていった。通いなれた教室に向かっていく美由紀さんの背中を、自分に重ねあわせる。
美由紀さんの向かう先には、変わらないあの光景が広がっているんだろうか。
夜の帳も下りてきて、さすがに暗くなった。駅への送迎のためロータリーにせわしなく車が行き来し、そのヘッドライトに目を細める。
俺は家の方に歩きはじめた。なにも言わずについてくるユイに、少し離れたところで声をかける。
「ユイ、ありがとな」
顔を見なくてもユイが驚いたのが気配だけで伝わってきた。
「え、私、なにもしてないけど?」
「でも、ついてきてくれたじゃん」
「ついてきただけだよ」
確かめるように俺の隣にやってきたので、俺は顔をちらりと横に向けた。
「あと、最初に美由紀さんのこと聞いてきたとき、ひどい態度とってごめん」
「どうしたの、シュウくん? 熱でもあるの!?」
とんだ言い草だ。本当はもっと早くに謝りたかった。八つ当たりまがいの態度をとってもユイは変わらずに俺と接してくれた。
それでも傷つけたのは事実だ。美由紀さんにしたって、俺は自分のことばかりで、まさかあんなふうに自分を責めているなんて思いもしていなかった。
自分だけが一番傷ついてつらいのだと殻に引きこもっていた。その殻を出ないと、気づけないものは沢山ある。
そして強引に殻を破いてくれたのは――
「美由紀さんも言ってたけど、私もシュウくんの踊りを見てみたいなー。ねぇ、シュウくんはどの踊りが一番好きだったの? バレエもいろいろあるんでしょ?」
思い出したようにユイが尋ねてきた。そこにはいつもバレエの話をするときの遠慮がちな態度はない。
「言ったところで、分かんのかよ」
「そ、それも含めてシュウくんが解説してよ」
図星をさされて少しふてくされるユイに俺は笑った。顔を上げると珍しく空に雲がかかっていない。明日も天気かもしれない。
「好きというか、俺に合っていたのはジゼルのアルブレヒトかな」
「アルブ……」
「アルブレヒト」
一度では名前が覚えられなかったユイに、再度俺はゆっくりと名を告げる。
「どんな話なの?」
話の内容を告げようとすると自然と頭の中にジゼルの音楽が流れてくる。俺は簡単にユイにあらすじを話した。
物語の名前にもなっているジゼルは心臓が弱くも明るく踊りが好きな村娘だ。そこに貴族でありながら身分を隠したアルブレヒトが近づき二人は想いを通わせる。
しかし、アルブレヒトには婚約者がおり、ジゼルに想いを寄せる村の青年ヒラリオンによってそれらの事実は暴かれてしまい、ショックでジゼルは息絶えてしまう。
「ジゼルは死んじゃうの?」
悲しそうに聞いてきたユイに俺は静かに頷いた。
「元々この話は、結婚前の女性が死ぬとウィリと呼ばれる精霊になるっていう伝説が元らしいんだ。ウィリは夜な夜な墓場から抜け出して、通りかかった男を死ぬまで踊らせるんだと」
「こ、怖いね」
「女の執念は恐ろしいんだよ」
そう口にしたら、バレエ教室で一緒だった女子たちから非難轟々だったのを思い出す。俺は気を取り直した。
「で、ジゼルもそのウィリになるんだ。ジゼルを死なせた後悔で、ヒラリオンは墓場を訪れるんだけど、ウィルたちに捕まって殺されてしまう。さらに同じようにやってきたアルブレヒトもウィリたちによって死ぬまで踊らされるんだ。ジゼルはアルブレヒトは助けてくれ、とウィリの女王に懇願するも聞き入れてもらえなくて、ふたりは一緒になって踊り続ける」
そこで俺は一息ついた。ユイを見ると、続きを促す期待あふれる目でこちらをじっと見ている。そして続きを話さない俺に対して痺れを切らしたように口を開く。
「それで、どうなるの? アルブレヒトは助かるの? ジゼルは?」
「……それは実際に舞台を観たらいいんじゃないか?」
最後まで言っては面白くない。ユイはこもっていた熱が一気に蒸発したかのごとく急にしおれた。
「シュウくんの意地悪!」
「意地悪じゃないだろ」
あらすじをささっと説明しただけで踊りだしたくなってくる。個人的にアルブレヒトの見所は断然、第二幕だ。
後悔と自責の念を抱きながら激しくひとり踊り続ける場面や、幻想的なジゼルとのパ・ド・ドゥなど。ジゼルが精霊なので重さを感じさせないようにリフトさせたり、相手と呼吸を合わせるのが大変だったりする。
「でも、なんでシュウくんはそのアルブレヒトが好きなの?」
「なんだろうな、雰囲気というか踊りが好みというか」
自分でアルブレヒトと言っておきながらなんとも、はっきりしない。細身で色白だからか、元々の相性か。もちろんプロになるなら、どんな役でもそれぞれの雰囲気に合わせてこなせないといけないのだが。
ダイナミックな「海賊」のアリのヴァリエーションや「ドンキホーテ」のバジルのヴァリエーションよりも俺に合っている気がした。
「って言いつつ実は俺、アルブレヒトの気持ちがよく分かんねぇんだよな」
頭を掻いて付け足した言葉に、ユイは怪訝な顔をした。アルブレヒトに思い入れがあるのは事実だし、踊りも好きだ。
それでも俺は未だにアルブレヒトが理解出来ない。
「ダンサーによって解釈も違うんだよ。アルブレヒトは純粋にジゼルを想って近づいた、って説もあれば貴族の戯れに過ぎない、とか」
俺は自分なりの答えが出せていない。どうしてアルブレヒトは結ばれないと分かっていてジゼルに近づいたのか。
想いを通わせたときに彼はなにを思っていたのか。自分のせいでジゼルが死んでどう思ったのか。
「アルブレヒトはきっと恋に落ちていたんだよ」
急にユイが真剣みを帯びた声ではっきりと言うので俺は改めてユイの顔を見つめた。たった今、簡単なあらすじを聞いただけで、どうして断言できるのか。
いつもならそうやって返すのに、今はなにも言えない。怖いくらいユイの顔が悲しそうで、それでいて真っ直ぐだったから。
彼女のうしろでは手が届きそうなほど大きな月が真ん丸く光っていた。今日は満月だ。
『もちろんずっとなんて言わないから。次の新月まででいいの』
このタイミングでユイの言葉が頭の中で再生された。どうして忘れていたんだ。こんな関係が、こんな時間がずっと続くことなんてないと最初から分かっていたのに。
俺たちの別れは決まっている、まるでアルブレヒトとジゼルのように。
会うことさえできなくなる。ここのところずっと一緒にいたから忘れていた、むしろ考えないようにしていた。当たり前のことを、月は満ちれば欠けていくのだということを。
「せっかくだから、シュウくんのアルブレヒト見たいなぁ。またいつか踊って見せてよ!……シュウくん?」
名前を呼ばれて我に返った。気づけばもう家の前だ。そういえば、この縁を見る力は満月のときが一番強くなるとユイは言っていた。
それならこれは幻ではない。ユイからかすかに繋がっている今にもちぎれそうな縁はキラキラと月明かりを反射して輝いていた。
名前を呼ばれて奥に行くと、俺は下だけリハビリ用のハーフパンツに着替えた。一連の流れはもう頭に入っているので自主的にリハビリメニューをこないしていく。
ふと部屋の中にあったカレンダーに目をやった。あの満月の日から三日がたっていた。
「調子はどう?」
「大丈夫です」
様子を見に来た先生に声をかけられたが、あまり集中できない。あとから調べてみると、美由紀さんに会ったあの日はちょうど満月で、次の新月は二週間後だった。
ユイの話が本当なら俺が縁を見えるのも、そしてユイが見えるのもあと二週間ということになる。それを意識するとずっと落ち着かない。
だからといって自分がどうしたいのか答えも出せない。ただ時間が過ぎていくにつれ、苛々が募っていく。
「先生」
とくに会話もなく俺の元を去ろうとした先生に珍しく声をかけた。どれくらい珍しいのかは先生の表情を見ても明らかだ。まだなにも言っていないのに先生の顔は驚きに満ちている。
「どうしたの?」
「あの商店街の中にある月白神社について、なにか知ってますか?」
突拍子もない質問に先生は不思議そうな顔をしつつも、なにかを思い出そうと目を閉じた。
「うーん、申し訳ないけどあまり知らないねぇ。昔からあそこにあって商店街とも深い関わりだった、ってこの病院ができるときに聞いたかな。前は宮司さんもいたみたいで神事やお祭りもしていたみたいだけど、高齢だからか、最近は商店街の振興組合で管理しているらしいよ」
「そうですか」
「どうしたの急に? なにかあった?」
「いえ、ちょっと気になっただけです」
なんでもない世間話というにはあまりにも話題が奇抜だった。しかし先生はそれ以上は追及せずに、別の話題を振ってくる。
「そういえば、憲明くんがこのあとここに来るって予約が入ったみたいだよ」
「え、あいつどこか怪我したんですか?」
名前を聞いただけで俺は反射的に尋ねた。真鍋憲明は俺が通っていたバレエ教室に今も通っている三歳下の後輩だ。小柄だが、体幹がしっかりしているのでどんな技でもしっかり決まる。
元々コンクール入賞者を輩出している別の名門バレエ教室に通っていたのだが、親の転勤でこっちに来たらしく、その実力は二年前に教室に入ってきたときから一目おかれていた。
「詳しくは受付からしか聞いてないんだけど、足を痛めちゃったみたいで」
元々、先生は菜穂子先生の知り合いで、バレエで怪我のトラブルがあった場合、ほぼ全員がここを勧められる。俺も菜穂子先生に紹介してもらって通いはじめたクチだ。実際に先生の腕もいいので文句はない。
そういった繋がりもあるので、先生はなにかとバレエ教室の事情にも詳しい。だから先生が憲明が来るとわざわざ俺に告げてきたのは、暗に会ってやれ、という意味がこめられている気がした。
実力云々は置いといて、俺は同じボーイズのメンバーとは仲が良かった。年下が大半だったが、わりとみんな慕ってくれていて、バレエ以外でもやりとりしたりプライベートで遊んだりもした。
しかし美由紀さん同様、怪我をしてバレエを辞めてしまってから音沙汰なしだった。怪我をしてちゃんと話をしないままバレエを辞めてしまい、心配もかけただろうし、向こうもいろいろ言いたいこともあるに違いない。
ここは一度、会いに行った方がいいのかもしれない。勇気が必要だけれど、今の俺ならちゃんと向き合える気がする。
病院を出て俺は無意識にため息をついた。憲明の件を聞けたのはよかったが、神社に関しては収穫なしだ。そもそもユイは何者なのか、本当に神様であそこにずっといるのか。
神様ってもっと昔の人だったりするんじゃないのか? ユイは何十年も何百年も前からあそこにいるのか?
ユイ本人に直接聞いてみても『分からないし覚えてないよ。気づけば、ここでずっと参拝に来る人たちの縁を叶える手伝いをしているの』と曖昧な回答しか得られなかった。
そして、おそらくユイ本人は気づいていないだろうが、ユイから繋がっていた縁はなんだったのか。今の俺が自分の縁を見ることができないように、ユイもきっと自分の縁は見えていなかったはずだ。
しかしユイの縁はあの満月の日にちらりと見えただけであれからは見えない。だから色も分からないし、あれがユイの縁だったと確信も持てない。
俺は頭を抱えた。今更ユイのことを知ってどうする? 知ったところでどうするつもりなんだ。一緒にいられる時間はあと少しで、元々住む世界も違う。この状況の方がおかしいのに。
それでも、俺はなにかに抗おうと必死だった。ユイは俺と過ごすのが残りわずかだという事態にどう思っているんだろうか。なぜかそれだけは聞けずにいる。
そして、あれこれ考えて俺は月白神社に足を進めた。最早、用事がなくても神社に通うのが習慣になっていた。
向かう途中であるものに気づく。もう随分と見慣れた、でも毎回違う、俺の目の前に今映っているのは青の鋭そうな縁だった。
「あ、シュウくん。リハビリどうだった?」
ユイはいつもと変わらない調子で俺を見つけると手を振って話しかけてきた。
「誰か来たみたいだな」
その言葉にユイは弾かれたように説明を始める。
「そうなの! さっき中学生くらいの男の子が来てたよ。別々にだけどふたりも来てくれて。縁が見える?」
「ああ」
どうやら時間がないのにも関わらず、俺はこの縁について調べるのが先らしい。そしてユイの言葉と自分の目に見えているものとの間に違和感を覚える。