まだ受け入れられない、いや正確には信じられない。
彼女がいなくなったことが。
夜の帳の奥深く、辺りを照らすものはなにもない。現実か夢なのか判断がつかないほど、境界が闇に溶けている。ここは煉獄の入口だろうか。
思いを馳せながらも、こうして彼女の墓までやってきたのは、事実を受け入れるためだ。
この自分を苛む後悔と、どうしようもない罪悪感に居ても立ってもいられなくなって。
間違いなく彼女は死んだ。
そういえば、彼女に自分の口から本当の名前を告げることもなかった。
朗らかに笑う彼女の優しい顔を思い出す。それなのに、その顔を歪めたのはほかでもない自分だ。
あのときの彼女の顔が頭に焼きついて離れない。
出会わなければよかった。結ばれることなどないと分かっていたのに、別れることが決まっていたのに。こんな結末が待っていると知っていたなら。
知っていたなら――
あー、くそ。早く終われ。早く終われよ!
わざとらしく椅子を揺すってみたところで、担任の牧田の話はまだ終わりそうにない。
最近、薄くなってきた頭を気にしてか、わざとらしく髪を伸ばして横に流してはいるものの、それは無駄な努力というやつだ。いっそのこと坊主にでもしろよ。
心の中で悪態をつきながら、ちらりと自分の左手首に視線を落とす。緩めに巻かれた黒の革製のベルトにシンプルな文字盤。
時刻は午後四時三十分を経過していた。秒針を目で追うと、ますます苛立ちが募りそうになる。
もうどうだっていい。吹っ切って机に突っ伏したところで、ホームルームの終わりが告げられた。それと同時に教室が一気に喧騒に包まれる。
今日は五月二十九日、もうすぐ六月だ。そうなれば今年もあの鬱陶しい季節、梅雨が始まる。けれど先週、中間試験が終わったこともあり、クラスメートたちはどこか浮かれていた。高校二年なんてとくに気楽な立場でもあるし。
「新しくできたゲーセンに行ってみよう」だとか、「コンビニでジャンプを立ち読みしよう」とか、そんな声をどこか遠くのことのように聞きながら俺は席に座ったままだった。
さっきまであんなに焦っていたのはなんだったんだ。このあとは病院に行くだけでそれも急ぐことじゃない。それでも、身についた習性というのはなかなか消えないものらしい。たった数分、一分だって惜しかったのに。
ふと名前が呼ばれたので、俺はそちらに顔を向けた。
「直哉たちとカラオケ行こうって話してんだけど、お前も行かない?」
話しかけてきた田島の顔をじっと見つめる。田島陸、眼鏡の奥のくっきりとした二重瞼が印象的で、見るからに頭の良さそうな顔をしている。
見かけ倒しではなく、実際に成績は常に学年で十番以内をキープしていて、そのわりにガリ勉というタイプでもなく人当たりもいい。わざわざこうして俺に声をかけてくれるくらいだ。
でも、俺の返事は決まっていた。
「悪いんだけど」
「そっか。もしかして、まだ足の怪我がよくないのか?」
素っ気なく返すと、田島は眉を読んだのか申し訳なさそうな表情になった。しかしすぐに笑顔を作る。
「良くなったら、また遊ぼうぜ。今まで全然お前と遊べなかったし」
そう言って去っていく田島に俺はなにも言わず、鞄を持って立ち上がった。
「こんにちは」
自動ドアが開いた瞬間、店と間違うほど受付から明るい声が飛んだ。この病院の受付はいつも無駄に愛想がいい。
整形外科といえば、年寄りが多いイメージだが、時間帯もあってか俺みたいに若いやつも多かった。待合室にはざっと十人は座っていて、各々に過ごしている。
俺は待合室の奥にある【自習室】と掲げられているところに向かった。そこには図書館のように個別に机が並んでいる。
その一席を陣取り、とりあえず数学の課題でもしようと鞄を開ける。
こんな設備があるのは、俺と同じ学生が多く利用するのを見込まれ、待ち時間もそこそこかかるのが最初から想定されているからだ。
なぜならここは、とくにスポーツ外来に力をいれている。
サッカーかバスケかテニスか。県外から来る患者もいるらしい。診察からリハビリまでを丁寧に診てくれるとその評判は上々だ。
かくいう俺も紹介されてここに来たわけなんだけど。
先生は有名なサッカークラブのスポーツトレーナー兼ドクターを務めた経歴もあるらしく、受付の一角にはそれらの伝で得たコレクションたちが飾られていた。
「学校はどう?」
加圧リハビリ中にアロハシャツに白衣といういつもの組み合わせで先生は話しかけてきた。誰に対してもフレンドリーで、見た目は俺の父親より少し若いくらい。
だからか、俺くらいの年齢の患者はみんな名前呼びするのも息子みたいな感覚なのかもしれない。
「別に。普通です」
上半身は制服のブレザーで、下半身はリハビリ用のハーフパンツというアンバランスな格好をした俺は、愛想なく答えた。
「そろそろ怪我の具合もいいと思うんだけど……本当に辞めちゃうの? 菜穂子先生も心配してたよ」
そちらが本当に言いたかったことなんだろう。俺は右足に力を入れる。
「両親ともそういう約束だったし。もういいんです」
「そっかぁ、残念だな」
まだなにか言いたそうにしながらも、先生は処置室に入っていった。俺は視線を落として再び右足に力を込める。
この怪我をしたのはかれこれ二か月ちょっと前。人生をかけた大舞台の一週間前の出来事だった。
一通りのリハビリメニューをこなし、病院を出た頃には午後六時半近くになっていた。あちこちからいい香りが漂い、空腹を刺激される。
この変わった整形外科は商店街の中にあった。おかげで病院前の駐車場は数が少なく、いつも激戦だ。
こればかりは患者数に合っていないと思うが、目の前のバス停から乗り降りする人も多い。
時刻表と腕時計を交互に見る。なんとも中途半端な時間だった。なにより目の前の道路には車が列をなして、バスが時刻通り来るとも思えない。
この時間帯は環状線に抜けようとする車で混んでいるのが、当たり前の光景だった。すぐ先の交差点で信号が青になっても、左折したい車と歩行者が堰き止めてなかなか車が動かない。
少し進んではブレーキランプが波打つように点灯するのをじっと見つめた。
一瞬だけ悩み、俺は歩き出す。ギブスもとれて日常生活にはほとんど支障もないから、家まで歩くことにした。
どうせ停留所ふたつ分だ。そこまでの距離もない。
いつもなら適当にやりすごしてバスを待つのに、このときはなんだか動きたかった。それに、この商店街はいつも病院に来るだけで、ほかにどんな店が入っているのかということを俺は知らない。
半ばシャッターを下ろしている鮮魚店、歩道にはみ出そうなくらい果物を並べている青果店、年配層をターゲットにしたブティック、こぢんまりとした美容室、本当に多種多様だ。
ただし、俺が時間を潰せそうな本屋とかは見当たらない。
店の内容をちらちらと確認しながら歩いていると、視界に小さな立て札が目に入った。
茶色く染みのある板には【月白神社 良縁祈願】の文字と奥にある小さな神社の説明が書かれていた。
どこかで聞き覚えがある、と思ったがすぐにひらめいた。この商店街の名前が月白商店街といった。それにしても、こんな商店街の建物と建物の間に神社とは胡散臭すぎる。
それでもよく見れば、きちんと鳥居があって奥に細く石畳が続いていた。参道の両脇には木々が生い茂り、なんとも不気味だ。
この先に神社があるのかも怪しいし、なにより変なやつと遭遇したらたまったもんじゃない。
そのまま通り過ぎようとしたが、それでも俺は看板に書いてあった説明文が引っかかった。
【良縁に恵まれますように。悪縁と切れますように】
“悪縁と切れる”
俺はしばらく躊躇ってから再度時計を確認し、奥へと足を進めた。どうせ時間もある。少し見てみるだけだ。やばそうならすぐに引き返せばいい。
なにかに言い訳しながらたどり着いた先は、本当になんの変哲もない小さな神社だった。人どころか猫一匹さえいない。気を張り詰めていた分、拍子抜けした。
ゆっくりと左手にある手水舎に近づくと、水は流れているが、柄杓なんていつから使われているのか分からないくらい持ち手の木の部分は変色し、椀の部分はぼこぼこだった。
社務所も見当たらず、誰が管理しているのかも謎だ。名前からして商店街で管理でもしているんだろうか。いろいろ思いつつもせっかく、来たのだからと社に歩み寄る。
悪いが賽銭はなしだ。男子高校生の小遣いは世知辛いものがある。とりあえず鈴でも鳴らそうかと垂れ下がっている注連縄のようなものを両手で掴む。
そのとき手元よりも少し上のところで、なんだか頼りなさげに赤い糸が巻かれているのに気づいた。
ふわふわと揺れて、リボン結びをされている糸は、このまま揺らしたら解けてしまいそうな儚さだった。
そこに吸い寄せられるかのごとく自然と手が伸び、気づけば俺はその糸の輪っかになっている部分の両端を引っ張っていた。糸はしっかりと結ばれる。
よし。気を取り直して力強く鈴を鳴らすと、思ったよりも小気味のいい音が響く。
えーっと、二礼二拍手?
神社など初詣くらいしか行かないので、あまり覚えていない。適当に手を慣らして頭を下げる。一連の所作を終えてたあとで、肝心のお願いをしていないと思い直す。
なにがしたかったんだ、俺は。まぁいいか。どうせ願ったところで結果は一緒だ。俺の縁はいい意味でも悪い意味でもとっくに切れている。
ふと辺りを見渡して、改めて誰もいないことを確認する。少し開けたところに移動し、薄暗くなってきた空を見上げて大きく息を吐いた。
学校指定の肩掛け鞄を放り出し、力一杯に高く跳ねる。
次の瞬間、まるで神社の参道が舞台のように思えた。頭の中に勝手に音楽が流れて、自然と指先まで力が入る。そして力強くプリエをし、その反動で思いっきり宙へ浮いた。
回れるか。そう意識したときには身体の軸がぶれていた。なんとか着地したものの足は5番ではなくほぼ1番で、地に踏みとどまるために力を入れたが、結局はよろけた。
怪我をしていたから。ブレザーに革靴だったから。言い訳をしてみても、できないものはできない。自分が思い描くザンレールにはほど遠い。いや、もう近づくことさえできない。
切れているどころか、やっぱり俺とバレエとの間に縁はなかったんだ。
俺は大袈裟に肩を落とし。さっさとここを去ろうと思った。
「今のなに? すごーい!」
ところが、まさかの声が聞こえる。誰もいないと思っていたのに、誰かいたのか。
恥ずかしさと後悔を感じつつ顔を上げて、声のした方を探す。すると賽銭箱のうしろにひとりの少女が立っていた。
セーラー服を身に纏っているところを見ると、俺と同じくらいか中学生くらいか。
前髪はぱっつんで長い黒髪をポニーテールにしている。紺色の襟と袖に白いラインが入っていて、胸元の赤いリボンが目を引いた。
どこの制服だ? そもそも、どこから現れたんだよ。こいつ、どこにいたんだ?
訝しげにしばらくじっと彼女を見ていると、今度はの相手の方が不思議なものでも見るかのような顔になった。
「え?」
「は?」
苛立ちを込めて聞き返すと、目が合った彼女は顔面蒼白になる。
「私のこと見えるの?」
「見えない方が怖いわ。あんたは幽霊か」
「幽霊というか……。でも、なんで?」
キョロキョロ辺りを見回しはじめる彼女を無視して、俺は放り投げていた鞄を手に取った。
「あーーーーーー!!」
そして耳をつんざくような叫び声に、俺は眉をしかめて声のした方を向く。なんなんだよ。
対する彼女は、肩を震わせて参拝するときに鳴らす鈴と注連縄のようなものを上から下まで顔を動かして何度も見ている。
「なんで? 見えなくなってる」
いやいや、見えているだろう。先程と変わっているところなど、なにもない。変わっているとすれば、いきなり現れた彼女の方だ。
「ということは……」
彼女がこちらを見てなにかを言いかけたとき、うしろから犬の鳴き声が聞こえた。
普段ならそこまでではないが、完全に彼女に気をとられていたので、あまりの不意打ちっぷりに心臓が口から飛び出そうになる。
振り向けば小型の柴犬がこちらに勢いよく走ってきて、リードをピンっと張りつめるほどの詰め寄り、なにかを訴えるように懸命に吠えている。
こちら、といってもその矛先は俺ではなく、賽銭箱の向こうに立っている少女に対してだった。
そして必死にリードを引っ張っているのは、眼鏡をかけたやや小太りの少年がだった。中学生くらいか、目がくりっとした犬に対し、主人の目は細く、目が悪いからなのか、地なのか睨んでいる印象だ。
「おい、どうしたんだよ」
ぼそぼそと喋り、苛立ち混じりの声でリードを持っている。しかし、犬は引きずられながらもこちらに向かって吠えるのをやめようとはしない。
ちっと舌打ちして少年はさらにリードを引く力を強めた。犬がやや甲高い声を上げて少しおとなしくなる。
「ったく、ちょっと落ち着け。もう年なんだから急に走んな」
俺を一瞥すると、少年は踵を返し、犬をぐいぐいと引っ張って帰っていった。見るなら俺じゃなく彼女の方じゃないか? とはいえ、なんとなく悪いことをした気分になる。
俺たちがいたからすぐに引き返したのだろう。無理もない、俺だってまさかこんな神社で、誰かに出くわすとは思ってもみなかった。