「最悪だ……」
トイレの鏡で前髪を直そうと格闘しているけれど、雨のせいでうねりが直らない。
「もうピンで止めちゃえば?」
春那がポーチからヘアピンを出してくれた。
「ありがと」
受け取って前髪を横に流してピンで止める。
私の隣にいる春那は二年生になっても、変わらず人形のような顔立ちで、小柄でとても可愛らしい。長い髪をキレイに巻いて、ナチュラルな感じでメイクはしていてもクリンとした大きな目をしている。相変わらず男子にかなり人気がある。
見た目はまさにそうなのだけれど……。
今、ヘアピンを出したポーチはドクロ柄で
隣で同じく鏡を見て睫毛をビューラーで上げながら「マジで化粧面倒くせーな」と舌打ちをしながら呟いている。
しかし春那は賢さに磨きがかかり、そんな姿をよっぽど親しい人にしか見せない。もちろん親しい人間以外がいる場所では絶対に見せない。だから『可愛い春那ちゃん』と思っている人がほとんどだろう。
春那は将来、世間を驚愕させるほどの詐欺師になれると思う。
まあ春那の本当の姿なんて私には慣れっこであり、猫を被っている方が見ていて違和感があるくらいだ。一年生の頃は、どっちの春那でも好きだと思っていたけれど、親友歴一年も経てば、猫を被っている方が気持ち悪い。
今日はそんなことはどうでもいいのだ。
どうにかピンで留めたことにより落ち着いて見えてきた前髪を確認しながらため息が出る。
「雫、仕方がないんだから諦めな。もう、あんたのため息ウザすぎる」
春那がビューラーを片付けながら言った。
私たちは、あっという間に二年生になった。
春那、征規、快晴とまた2年3組、同じクラスになった時は嬉しい反面、もうクラス替えはないから、征規とは十一年同じクラスなんだ……と、少し気味が悪くなった。
私と征規は前世で何か繋がりでもあったのか?絶対に恋人ではないけれど。
そして、今日は一学期が始まってから初めての席替えがあった。今までは出席番号で座っていたのだ。
その席替えが私をため息地獄へ突き落している。
「だって……」
「だってって言ったからって快晴が隣なのには変わらないんだから諦めな」
私のため息の元凶が快晴と隣の席になったということ。
少し悪そうな雰囲気がカッコイイなどという女子もいるらしいけれど、私には威圧感が制服を着ている悪魔にしか見えない。
目が悪いせいで目つきが悪いから、ジロリと見られるだけで嫌な気分にしかならない。関わりたくない人物ナンバーワンだ。原因はやっぱりあのラインであり、あれ以来快晴と個人的なラインはしていない。ブロックをしたりはしていないし、あの言葉は消してもいない。だってあれは客観的な私を見抜いているからなのかもしれないから。
春那がいて、征規がいてクラス運に恵まれているはずだった私を憂鬱にさせる存在が快晴なのだ。
相手にしなければいいと思われそうだけれど、そうもいかない。
相変わらず征規の一番の友達は快晴。征規と遊ぼうとしたり、話をしているとセットのように快晴がいる。
4人のグループラインも健在だ。
セットで付いてくる快晴にラインのことは考えないようにしながら頑張って話しかけたりしてはみた。
でも、頭の中は快晴が放った言葉がグルグルと渦巻いていて、かしこまった話し方しか出来なくなってしまった。一年生の終盤には、話かけるのすら動悸がしてくるくらいまでになった。
どんなに征規が快晴はいいヤツだと言って、私を安心させようとしても信用できない。征規も悪魔に騙されているのではないか?と思ってしまう。
春那はグループトークも素の自分でやり取りができるから楽でしょうがないらしい。実際4人遊んでも楽しそうに毒舌を炸裂させている。快晴や征規は春那にとって素が出せる大事な友達なのだ。
快晴を見ていても、春那には私に言ったような酷い言葉は言わない。春那はブスではないから、言う理由もないのだろう。
始業のチャイムが鳴る。
戦いのゴングがカーン‼と頭の中で鳴り響く。有名なボクシングのテーマ曲と共に。でも私はすぐにリングアウトしそうだ。12Rなんて絶対にもたない。
「ほら行くよ、次英語だから遅刻したら怒られるよ」
春那がトイレのドアを開けながら言う。
英語の先生は外国人で、本当に英語しか話さないから、怒っていても何を言っているか不明で逆に怖い。
仕方なく教室へ向かうしかなく、またため息をつくと「マジで殴りたくなってきた」と春那に睨まれた。
授業中、英語がBGMに聴こえるような中、私は下を向いてシャーペンをジッと見ていた。
見ていても何の変哲もないのだけれど。顔を上にあげると快晴がバッチリと視界に入るから、あまり見えないように、なるべく下を向いているしかない。これから先、ずっとこんな生活ならノートすら取れなくて落第してしまいそうだ。
「おい」
急に隣から威圧感の塊の声が聞こえて悲鳴をあげたくなる。
相手はもちろん快晴だ。そんなことはわかっている。
「な、何?」
なるべく快晴を見ないようにチラっと一瞬だけ横を向いてから顔を前に戻した。
「お前さ、幸せなの?」
「は?」
ポツリと静かに言われて意味不明だ。
思わず快晴に再び視線を戻す。
快晴は頬杖をついて前を見ている。
今の言葉は気のせいだったのだろうか?
それとも「あなたの幸せを祈らせてください」的な宗教的発言なのか?
「え?何て言ったの?」
そう聞いてみると、あの目つきの悪い横目でジロリとこっちを見ながら口を開いた。
「雫って嘘つきなくせに幸せなのか?って聞いたんだよ」
嘘つき……?
私がいつ、誰に対して嘘をついたというのだ。
「私が嘘つきって何?私が嫌いなんだろうけど酷いにもほどがあるよ」
授業中でなければ怒鳴りつけていたかもしれない。
「自覚ないのか。重症だな」
快晴は呆れた顔をしている。
私は誰にも嘘なんかついていない。酷すぎる。自覚がないなんて、私を嫌いなのは知っているけれどそれは言い過ぎだと思う。
「さっきから何?嫌いだからって何言ってもいいと思ってるの?」
苛ついた私の口調にも快晴は全く動じないで、呆れたままの顔をしている。
「俺は別にお前が嫌いなわけじゃない。勘違いするなよ」
その言葉は意外だけれど、嫌いじゃない人間に取るような行動をしたことないじゃないか。嫌われているって思われる行動ばかりをとってきたのは快晴の方だ。
怒りで睨む私と、呆れた顔で見てくる快晴。
そんな私たちの間に英語の先生の声がBGMとして流れている。
しばらくの硬直状態のあと、快晴が言った。
「放課後、ちょっと付き合え」
「嫌だよ。何で私が快晴に付き合わなきゃいけないのよ」
「いいから。黙って付き合え、お前のためだから。わかったな?」
それだけ言って快晴は前を向いてしまった。
昼休みになっても快晴の言葉が頭の中をグルグルと回っていて、購買のパンを持ったまま考えてしまう。
「食べないの?」
春那が言って我に返る。
「あ、食べるけど」
「なんかあったの?」
春那に言っていいのだろうか?
快晴から見て、私は嘘をついているらしい。
それが本当だとして、無意識に嘘をついているかもしれない。その相手が春那だったら?そう思うと言えない。
「別になんでもないよ」
ヘラっと笑ってパンをかじる。
「そう?快晴と隣になってストレスで疲れてるんじゃないの?」
快晴の名前を聞いてドキリとなる。
私のためってなんだろう?
春那を見ると、雑誌をめくりながらお弁当を食べている。私たちはお喋りに夢中になることはあまりない。春那もそういうタイプではないから、お互い居心地がいいのかもしれない。
教室の真ん中では、征規と快晴がクラスメイトと話しながら爆笑している。快晴は爆笑してはいないけれど、口角が少し上がっているから一応笑っているのだろう。
「春那」
そんないつもの情景を見ながら、私はポツリと呟いた。
「ん?」
「春那って快晴をどう思う?」
パラパラと雑誌をめくっている音が止まる。
「は?なにそれ?」
そして春那の呆れた声。今日は色んな人に呆れられてばかりな気がする。
「春那が男の子として快晴や征規を見ていないのは知っているけど、そうじゃなくて、春那から見て快晴ってどんな人?」
「うーん?何でそんなこと急に聞くのかよくわからないんだけど」
「征規はさ、もう腐れ縁すぎて、腐っているを通り越して一緒にいるのが当たり前なんだけど、快晴ってイマイチわからないんだよね」
春那の視線を感じて、征規たちから目を離した。ジッと私を見ている。
「快晴を好きとか?……はないよな。あるわけないのはわかってるよ」
「あったら自分で自分が怖いわ」
私の言葉に春那は笑い出した。
「わかってるって。……快晴かー、そうだなー、嫌いじゃないね。むしろ好きな方。征規も同じだけど。素で話せる数少ない友達だからね」
「うん」
「雫は快晴が苦手みたいだけど、私はいいヤツだと思うよ?前にグループトークでウザい男につきまとわれている話をしたら、征規も快晴も真剣になって、そいつを撃退してくれたから。だから私は二人ともいいヤツで好きだよ」
そういえばそんなことあったな……
一年生の始めの頃は快晴も征規も取り合わないくらい軽いものだったけど、それからしばらくしてまた違う男子が言いよってきて、当事者じゃない私もストーカーじゃないか?と気味悪かった。
春那が困っているって言ったけれど、当然ながら可愛く助けてほしいのとは言っていない。むしろ邪魔くせーんだよって言っていたくらいだったし。征規たちが近づかないようにその人に言ったんだ。快晴の威圧感で逃げたらしい話を後から征規が言っていた。
征規は正義感が強いタイプだから当然、春那を助けるのはわかっていた。でも、そんな征規よりも快晴の方が春那が迷惑がっていることに怒っていたらしい。
私のことは嫌いだと思っていたから、春那を助けるのは友達として当然だと思っていた。
もしも、私が春那みたいに困っても征規は助けてくれても、快晴は知らない振りをするであろう。間違いなく。
さっき快晴は私を嫌いではないと言っていた。じゃあ、あのラインや、今までの態度は何なのだろう?
「博井さーん」
教室のドアの向こうから男子が春那を呼んだ。隣のクラスの人だっけ?
「はーい」
春那が笑顔で返事をする。
「告白ですか?相変わらずモテますねー」
私が言うと、春那はこっちを見て「好みじゃねーよ」と悪態をついてからドアに向かった。
放課後になった。
春那は男子校の人とデートらしく早々に帰った。征規も珍しくいない。いつも快晴と帰るのに。
窓から外を見ていると、相変わらず雨が降っている。雨なんか嫌い。前髪がうねるし、足元は濡れるし。
「待たせたな」
振り向くと、快晴がカバンを肩からぶら下げて立っていた。
「言っておくけど、私、今日はあんまり時間がないから」
嘘ではない。本当に今日、毎週水曜日は用事がある。別に言う理由がないから誰にも言わないけれど。征規はなんとなく知っているだろう。十年も友達なのだから。
「知ってるよ」
何を知っているというのだ。私のことなんか今までいないような扱いしかしなかったくせに。
「行くぞ」
快晴に言われて渋々と後に続いて教室を出た。
電車を乗り継いで向かっている先は私の家の方面としか思えない。
快晴の家とは逆方向の電車に乗り継ぎをしている。
「どこに行くのよ」
電車のつり革を掴んでいる快晴に聞く。
席がたまたま空いていて、快晴に「座れよ」と言われ、私は座って、目の前に快晴は立っている。
「お前の用事を優先しながら俺が言った意味を教える。自覚なしのバカだから」
いちいちカチンと来るけれど、一応は私の用事を優先して、私の家の方面の電車に乗ってくれているらしいから我慢する。
『次は〇〇―、〇〇―』
電車のアナウンスを聞くと
「降りるのはここでいいんだよな?」
快晴が聞いてきた。
私の家の最寄り駅より一つ前。なぜ快晴がこの場所を知っているのか。
電車のドアが開き、二人で駅に降りる。
私は行き先を一切言っていないのに、快晴はわかっているかのように駅からスタスタと私の目的の場所まで歩いている。
私の前を歩く快晴のビニール傘は迷うことなく先へ進む。
目的の場所がよく見える公園に着くと、快晴は腕時計を見ながら「まだ時間あるだろ」と言った。
なんで……知っているの?
春那だって知らない。ここに来る意味も理由も話したこともないから、当然来たことがない。
征規も知らないはず。
だから、なんで快晴がこの場所を知っているのかがわからない。
並んで屋根がある場所のベンチに腰をかけて、快晴がカバンからお茶のペットボトルを出した。
「駅で買ったからぬるいけど」
そう言って渡してきた。
まだ五月になったばかりだし、ましてや今日は雨で肌寒いくらいだから、渡されたお茶はそれほどぬるくはない。
隣に腰をかけた快晴は自分のお茶を飲みながら話始める。
「俺がお前は嘘つきなのに幸せなのか?って聞いたのは、偶然見たからだよ」
「え……?」
「そこの通りに団地があるだろ?あそこに俺の姉ちゃんが結婚して住んでいるんだよ」
指さした場所は私が水曜日に来なくてはいけない場所のすぐそば。確かに団地が並んでいるのは知っていた。
快晴は続ける。
「去年、姪っ子が生まれてさ、俺、結構来るようになったんだよ。そうしたら、お前があそこの病院の前に立っているのを見かけたんだ」
『〇〇東病院』
私が水曜日に来なければいけない場所。
妹の杏奈は身体が弱く、小さい頃から入退院を繰り返している。そのため、普通の幼稚園や小学校へ通うのはなかなか難しく、この病院内にある院内保育園に通い、卒園後もそのまま普通の小学校に同等する院内学級に現在は通っている。院内学級を卒業する頃には身体も少し良くなっているかもしれないから、普通校の中学校へ入学出来る可能性が高い。
ここへ通うのは、妹一人では無理だから毎日お母さんが送り迎えをしている。お父さんは単身赴任をしていて、かなり遠方だからしばらく顔を合わせていない。
妹が院内保育園へ通いだしてから、お母さんはパートを始めた。妹の送り迎えに合わせて仕事をしているけれど、どうしても水曜日だけは帰りが遅くなってしまう。だから私が毎週水曜日は迎えに来ることになっている。
「見た時は、雫が何でこんな所にいるんだ?って不思議だったから、声をかけようとした。でも、玄関前でお前と多分お前の母親が話しをしているのを聞いてしまったんだ。お前は俺がすぐそばにいたのに全然気が付いていなかった」
「それっていつ……?」
掠れる声で快晴に聞いた。
「多分、去年の秋かな。台風が接近していたはず。そのせいで電車もかなり遅れたりしてた」
覚えている。その日のこと。
大型台風接近の影響で交通がマヒして電車がなかなか来なくて、一時間も遅れてしまった。
慌ててここへ来たけれど、お母さんが妹を車へ乗せているところだった。お母さんは息を切らせて走ってきた私に……。
「お前の母親はお前にこう言ったんだ。『本当に役に立たない子ね。何のためにあなたはいると思っているの?』って」
快晴が言った通り。
私は役に立たない子と言われた。何のためにいるの?と。
「俺はそれを聞いて驚いたんだよ。同時に腹も立った。母親のくせに何言ってるんだよって」
8歳下の妹の杏奈の身体が弱いから家族は妹を中心に回っている。
妹のことでお母さんが『代わってあげたい』と泣いているのを小さな頃からよく見ていた。
私は妹が嫌いなわけではない。むしろ可愛いし好きだし大事だ。家族が妹を中心としているのも当たり前で、姉の私が妹の面倒をみるのも、もちろん当たり前だと思う。姉妹なのだから。
「それは、私が遅れたからであって、お母さんは何も悪くないよ」
快晴の顔が見られなくてお茶を握りしめたまま呟いた。
「お前、本気でそう思ってるのか?俺はそれを言われた時のお前の顔を見た。見捨てられたような表情だったぞ?そりゃそうだよな、そんなことを言われたら誰だって傷つくと思う。雫は口には出さないけど、妹がどうやら身体が弱いらしいとは征規からチラっと聞いていたし、それを聞いて大変なんだろうな、とは思っていたよ。お前も家族も、そして妹本人が一番辛いんだろうって」
「知っているなら、妹が一番大変なのはわかるでしょ?家族が支えてあげなきゃだめなの。私が何を言われようと、私はそんなことはいいの。妹が無事に毎日を過ごせればいい。それだけを家族は思っているの」
「だからって、お前の心を傷つけてもいいのか?妹が大変だとしても、親がお前にあんな言葉を平気な顔で言っていいのか?傘も刺さないで、ずぶ濡れになりながら走ってきた娘に言う言葉か?俺はそんなのはおかしいと思う」
そんな言葉を言われたら妹のためにって我慢していた気持ちが溢れて涙が出てきそうになってしまう。
突然、快晴は私の頭を優しく撫でた。
「雫は無理をして笑っていると思って見てた。俺たちを信用していないんじゃなくて、本当の気持ちを誰にも言えないで我慢しているんだって思ってる。これからは何でもいいから俺に言え。辛いことも悲しいことも。泣いたっていい。俺は征規や春那にすら本当の気持ちを言えないお前を受け止める。勘違いするなよ?お前に恋愛感情なんて世界が滅びてもないからな」
快晴の言葉に笑ってしまった。私だって世界が滅びても快晴を好きになんかならないよ。
「俺がお前を心から笑わせてやる。本気で泣くのも受け止める。そしていつか征規や春那にも本音を言えるようにする。お前が生きていて幸せだなって思わせる。だから自分に嘘はつくな。俺の前では本音のお前でいろ」
快晴の言葉にポロポロと涙が出てきた。
そんな私を見ないように、ベンチから外を見ている。
「雫、雨好きか?」
突然わけのわからないことを言う。
「嫌い」
ポツリと言うと、快晴は言った。
「俺は雨って好きなんだよ。嫌なことも全て流してくれそうじゃん。だから、雫も雨を好きになれよ」
そう言った快晴はこれまで見たことがない笑顔だ。こんな優しい顔をする快晴を初めて見た。
「お前があまりにも自分に嘘をついて傷ついてないフリをするから、ラインで酷いこと言ったごめんな」
快晴が私に酷いことを言った理由がわかって、なんだかスッキリした。
ここまで言ってくれる快晴を信じて、快晴の前では弱音も全て言ってもいいかなと思う。
そして本当に心から笑える時が来てほしいと思った。
シトシトと降る雨も好きになりそうだと思う。
「ねえ、あの陸上部の、ほら、今、単距離走ってる人、カッコよくない?」
帰り道、グラウンドの陸上部の練習場で走っている人を指さした。
「あ?あれ確か1年だろ?期待されてて話題になったから顔くらい知ってるわ。お前ってああいうの好みなんだ?告白すれば?絶対フラれるけどな」
快晴が隣で欠伸をしながら言った。
「なんなの、あんた。ただカッコイイって言っただけじゃん」
そう言って鞄を快晴の背中にぶつけた。
「痛ってーな。俺は事実を言ってるだけだよ。全く知らない1個上の女からカッコイイとか言われたり、告白されたら怖っ‼ってなるだろ?普通。可愛かったらオッケーだけど」
「快晴もそういう経験あるの?」
私の問いに不適な笑みを浮かべている。
「教えねーよ。彼氏すらできたことないヤツになんか」
なんだか快晴に言われるとムカつく。ほっぺたをギューってつねってやりたくなる。
見事に学級委員長にさせられた征規は帰りが遅いことが多い。
春那は他校生との放課後デートに忙しいらしい。いい加減彼氏が欲しいと気合が入っている。
だから、快晴と二人で帰ることが増えてきている。
最初は二人で帰っているのを見た同級生が「あの二人付き合っているらしい」と妙な噂を立てていたけれど、私と快晴の雰囲気を見て、カップルではなさそうだ、と勝手に盛り上がり、勝手に判断したらしい。別に人にどう思われようと私と快晴はあれ以来すっかり打ち解けて仲良くしているのだから関係ないのだけれど。
制服は夏服が解禁されて、段々と夏が近づいてきている。太陽がいつもより眩しく感じるほどに近くなっているようだ。
夏服になったからと言っても、寒い日は寒い。だから私はセーターを腰に巻いたり、ベストを着たりしている。快晴は寒がりなのか、まだセーターを着ていてネクタイを緩めている。夏になるとベージュのベストに変わるのだ。女子はタイだから、している人はあまりいない。イベント事にだけ登場する存在。
駅まで二人でダラダラと歩きながら私は言った。
「快晴って彼女いないの?」
「いたらお前となんか一緒に帰るかよ」
「ですよねー」
それを聞いて私はニカっと笑った。
「お前、バカにしてんだろ。一年の時はいたんだよ。他校だけどな」
「おー、性格が悪魔な快晴と付き合えるなんて天使のような子だったんだろうね」
「バーカ。普通の子だったし、束縛されるのが嫌で別れたんだよ。どこにでもある話だろ?」
「へー……」
どこにでもある話なのだろうけれど、年齢と彼氏いない歴が同じな私にはよくわからない。
「お前も死ぬまでに彼氏できたらいいな」
完全に見下した顔で言ってくる。
「うるさいなー!」
私がむくれるとケラケラと笑った。
「お前って超長生きしそうじゃね?60歳初めて彼氏ができました、とかなったらウケるんだけど。彼氏いない歴六十年とかもう伝説じゃね?」
「快晴は早死にしそうだよね‼性格の悪さを逆恨みされて刺されるんだよ。いやー可哀想、お気の毒」
「俺がそんなに早く死ぬかよ、バカ」
頭をゲンコツで軽く叩かれる。
「痛いなー!女に暴力振るうから絶対早死にするから!絶対にね!」
私がブーブーと文句を言っても「死なねーわ、アホ」と聞き流している。
空はさっきよりも少し茜色が混ざったグラデーションになってきている。
私たちは真っすぐに駅に向かえば十五分ほどで着くのに、毎日こうしてダラダラ話したり、公園に寄り道して話し込んだりしながら下校する。
お母さんの厳しい目があるから、夜まで遊ぶってことはほとんどないけれど。
そろそろ駅に着きそうだから鞄から定期券を出していると快晴が言った。
「お前さ、実はこんなにお喋りでバカでよく笑うヤツだってこと、征規や春那には見せないの?」
「え……?」
快晴もポケットから定期券を出しながら言う。
「多分、俺にはかなり心を開いてくれてると思う。でも征規や春那だって大事な友達だろ?お前が悩んでいることも打明けてもいいんじゃないか?」
それは私とお母さんの問題を言っている。
快晴はたまに気が向いたら、水曜日に一緒に妹の学校に行ってくれる。
悪魔のような性格の快晴が信じられないくらい妹には優しい。実は子どもが大好きらしい。
「快晴くんイケメンだし、優しくて大好き」
妹がそう言っていて、驚いたくらいだ。
征規は妹の身体が丈夫ではないことはなんとなくだろうけれど知っている。でも、院内学級に通うほどとは知らないはずだ。うちの中でも妹が院内学級に通っていることは極力触れない、外ではもちろん口にすらしてはいけない。牧村家のトップシークレットだ。
私は妹が院内学級へ通っていることを別に隠す必要もないし、もしかしたら同情をされたりするのかもしれないけれど、それは決して恥ずべきことでも、隠すことでもないと思っている。妹だって好き好んで身体を悪くしたわけではない。そして、それを恨むようなことも言わないし、むしろワガママで明るい性格だ。
うちの両親、特にお母さんは何をそんなに恐れているのか?
「出来るなら代わってあげたい」
これは親なら当然思うだろう。
でも、お母さんが当時中学生だった私に言った言葉があり、私はそれ以来、お母さんが怖い。
感情を抑えることが出来なくなって発した言葉だと後から申し訳なさそうに言われたけれど、そんなお母さんの一言で私は簡単に地獄へ叩き落される。
快晴が偶然聞いたという「役に立たない」という言葉なんかよりずっと傷ついた。自分が生きている意味すらわからなくなるほどの言葉を言われたのだ。
それはまだ快晴にも言っていない。
自分で言葉に出してしまったら、また傷ついて立ち直れなくなりそうで怖いから。
とにかく、お母さんの感情が爆発しないように息をひそめて過ごしている。後で「言い過ぎた」と謝られたとしても、吐き出した言葉は私の心をえぐる破壊力を十分持っている。お母さんはそのことに気が付いていない。
私は快晴を悪魔のような性格だとからかうけれど、あの日から色々と話をしてみて、本当は優しくて困っている人を放っておけないことはわかっている。だから、私と仲良くしていてくれていることも。
そんな優しい快晴に私は一体何ができているのだろうか?
私ばかり救われていて、快晴を友達として救えていないと思う。
それは快晴だけに限らず、征規や春那に対してもそうだ。
みんな優しくて楽しくて、正直なのに私は誰にも心の底を見せていない。
快晴が指摘しているのはこのことだと思う。
「おい、電車くるぞ」
快晴に言われてハッとなる。
「あ、ごめん。じゃあ、また明日ね」
私と快晴の家は逆方向だから乗る電車が違う。
電車に乗ろうとする私に快晴が声をかけた。
「正直に話してくれても、俺達はお前を見る目が変わることはないからな」
言った方がいいのだろうな……。
春那に一度だけ言われたことがある。
「雫って毎日本当に楽しい?」
きっとみんな、私の底にある恐怖や不安を見抜いているのかもしれない。
「うん……、近いうちに話すから」
曖昧な笑顔を快晴に向けた瞬間に電車のドアが閉まった。
「お姉ちゃん、杏奈の部屋に薬持ってきてー」
部屋で宿題をやっていると、隣の部屋から妹の声がする。
時刻は9時半。
そろそろ妹が寝る時間だ。今日は体調があまり良くないらしい。院内学級も早退して診察を受けてきたと本人が言っていた。
居間に行って、棚から薬を出す。今日は木曜日だから……、それと今日の診察で出た頓服も飲ませないと……。
毎日種類が違う薬を飲むから壁に処方箋が貼ってある。それを見ながら薬を用意していると、背後に気配を感じる。
「間違えないでね。あんたが間違えたら杏奈の命に関わるんだから」
お母さんが機械的な声で言った。
声色はいつもと変わらないけれど、明らかにイラついているのはわかる。もう何年も妹のことで心労がたまっているのは理解しているつもり。そして、妹の体調が悪い日は特にイラつくことがほとんどだ。
「わかってるよ、ちゃんと確認してるよ」
薬を小さなトレイに入れながら呟くと、グイっと肩を掴まれた。
「え?何?どうしたの?」
「あんたは何でそんな口しかきけないの‼誰のお陰で五体満足で学校に通っていられると思っているの‼」
やっぱり今日のお母さんはイライラしすぎて精神的に不安定だ。予想していたことだけれど、どうして私にばかり当たるのだろう。
「それは……」
私が何と答えたら機嫌が少しでも良くなるのか考えていると、
「なんで杏奈があんなに苦しい思いをして、あんたはヘラヘラと生活できるのよ」
いつも機嫌が悪い時に言われる言葉だけれど、今日はいつもより辛い。私は確かに健康だけれど、ヘラヘラとしているつもりはない。今日だって妹の体調を心配している。お母さんには、私が能天気で何も考えてないように見えているのだろうか?
いつもは余計なことを言わずに、お母さんの精神状態が落ち着くのを待っているだけなのだけれど、こんなことが頭によぎるのは、きっと快晴が本当の私を見ても変わらないと言ってくれたからだ。助けてくれるかもしれないと、快晴や征規や春那に淡い期待をしてしまっているから。
「どうして?どうして私が五体満足だと許せないの……?」
呟くように言ったら、ドンと肩を思いきり押された。
「生意気な口を聞くんじゃない‼」
心がグラグラしてくる。
誰か……、快晴、征規、春那……、私を助けて。
目から涙がこぼれてくる。
ダメだ、限界かもしれない。
薬が入ったトレイをお母さんに押し付ける。
「何?どうしたの?雫」
お母さんは困惑した声になる。それから慌てて言葉を繋ぐ。
「乱暴にしてごめんね。お母さん疲れているの。杏奈を産んでからずっと。雫はわかってくれるでしょ?少し気分が良くないのよ」
「私、もう無理」
そう言って、自分の部屋に駆け込んで、旅行用のバッグに制服や着替えを詰め込む。靴も持って行かないと。
「お姉ちゃん、薬はー?」
妹の声が聞こえるけれど、学校のカバンと旅行バッグを担いで、部屋を飛び出した。
「雫‼どこに行くの⁉」
お母さんの声も無視して玄関を開けて外へ出た。
行く当てなんかない。
走ってしばらくして息を整えながら、どうしようか……と考えていたら、スマホが鳴った。春那からのラインだ。
『今日やってたドラマ超面白いわ!雫も見てた?』
ラインを見てすぐに春那に電話をした。
『おー、雫から電話がくるなんて珍しいなー、ドラマの感想かな?』
「春那、助けて‼」
春那の言葉を無視して叫ぶと
『雫?どうした?今どこにいる⁉』
春那の声色が変わった。
近くのコンビニで待っていろと春那に言われて、待っていると車のクラクションが鳴る。
誰が乗っているのかライトで見えなかったけれど、「雫‼」と助手席から春那が顔を出しながら呼んだ。
車に近づくと、運転席には春那にそっくりなイケメンがいた。
「兄貴だよ。事情を説明して車を出してもらった。乗って」
お兄さんに「すみません」と頭を下げて後部席に乗る。
「別に構わないよー」
と春那とは違い優しい声で返事がきた。
車が出発すると、春那は電話をかけはじめた。
「征規?そう、今、雫を確保した。あと十分でそっちに着くから。……うん、見た目は大丈夫。じゃあよろしくね」
「征規?なんで征規に電話してるの?」
私の問いを無視してまた電話をかけている。
「もしもし?雫の確保完了。うん……、征規を今から拾うから快晴の家には三十分以内で着くはずだから。近くなったらまた電話する」
「快晴も?征規と快晴を呼ぶの?こんな時間に?……って私も春那を呼んでしまったけど、なんで?」
春那は助手席からこっちを見ながら言った。
「雫のSOSは全員で聞いて考えなきゃいけないと思う。私一人では何もできないかもしれないけど、みんなで考えたらきっと答えは出ると思うから。今日はみんな、うちに泊まってもらう」
「泊まるって、快晴と征規は男の子だよ?春那の家に泊まるって大丈夫なの?」
私の言葉に春那が爆笑した。
「うちね、兄貴が二人もいるんだよ。この兄貴は二番目ね。そんな家だから男の子なんてしょっちゅう来るし、泊まっていくし気にしなくていいから」
「雫ちゃんだっけ?本当に気にしなくていいから。キミのSOSは君たち全員が聞くべきだと俺も思うよ?もしも大人が必要になれば、俺は成人しているけど、まだ大学生だから。長男は社会人だし、長男に頼ればいい問題だからね」
春那の言葉のあとをお兄さんが続けた。
征規の家の前で待っていると、スポーツバッグを担いだ征規が出てきた。
「雫‼大丈夫か?」
「うん……大丈夫」
安堵した征規が私の隣に乗り込む。
「征規、制服とか持ってきたか?カバン持ってなさそうだけど」
春那が後ろを見ながら言った。
「非常事態の時に明日学校なんか行くわけねーだろ?雫の親が来たらどうすんだよ」
「まあ、明日はサボりってことは私と同意見だけどな」
「って快晴に言われたから学校道具は持ってきてない」
「お前の考えじゃなくて快晴かよ‼まあいいけど」
春那は呆れた顔をしたけれど、私はクスっと笑ってしまった。
征規はテンパると冷静な判断ができない。それを知っているから、快晴が助言したのだと思う。征規のことをよく知っている、やっぱり一番の友達だからなのだろう。
快晴の家に着くと、家の前で快晴が座ってスマホを見ていた。そして、車に気が付くとバッグを抱えて近づいてくる。
「快晴、外でずっと待ってたの?」
ギュウギュウになりながら後部席に乗り込んだ快晴に春那が言った。
「まあな。別に親がうるさいとかじゃねーよ。うちは放任主義だからな。色々考えたいから外の空気に当たりながら待ってただけ」
「なんか思いついたのか?」
征規が聞いても、快晴は首を振った。
「そもそも、雫がどうして家を飛び出すことになったかの原因がわからないとどうしよもないだろ?」
そっか……、私は春那に助けてとしか言っていない。他に言ったことと言えば、家を飛び出してきて行くところがないとだけ。
「なんか……ごめん。みんなに迷惑かけてるよね」
私が呟くと、真ん中に座っている征規を押し付けて快晴が私の顔を覗きこんんだ。
「お前、泣いてた?暴力は振るわれてないよな?」
快晴の言葉に他の二人も息を飲むのがわかる。お兄さんはミラー越しに私をチラっと見た。
「暴力はないよ。肩を押されただけ。ただ、今日のお母さんは不安定だから、私が何か言うと……って感じかな。私が生意気な口を聞くのが悪いだけ」
「それは違うだろ、そういうのって虐待っていうやつじゃないのか?」
征規が声を荒くして言うけれど、感情的になって肩を押されてり、最近はないけれど頬を叩かれたりしたこともある。それが虐待になるのかはわからない。
「とりあえず」
前を向いたまま春那が言う。
「うちに着いてから話そう。雫、辛いかもしれないけど私たちに全部話してほしい。そうじゃなきゃ雫を救えない」
全部話さなければいけないのはわかっている。快晴の家に向かう最中にみんなに迷惑をかけているのだから、全てを話さないと失礼だと思っていた。
こんな時間に明日は学校もあるのに、みんな何も言わずに駆けつけてくれたのだから。
「うん……わかってるよ。全部、ちゃんと話すから」
私が返事をすると、車内が静かになった。
春那の部屋は女の子の部屋にしてはさっぱりとしている。可愛い物が全くない。
春那が好きだと言っていたバンドのフライヤーが何枚か壁に貼ってある。
飲み物とお菓子を適当に机替わりにしているのだろうテーブルに乗せた。
「腹が減ったらコンビニに何か買いに行けばいいよね?」
春那はそう言って、ベッドに腰をかけた。
みんなテーブルの周りに各々座って、無言でお茶やジュースのペットボトルを取って、お菓子の袋を開けている。お菓子は征規だけれど。
私は春那の隣に座って、何から話せばいいのか考えている。長い話になりそうだけれど、簡潔に話した方がいいのか。でも私の頭では私の出来事を簡潔に話せる国語能力はない。
私が手をギュっと握りしめていると、お茶のペットボトルを春那がジーンズの膝に置いた。
「どうやって上手く話そうとか、考えなくていい。お前に起こっていること、お前がどう考えているかを順番も滅茶苦茶でもいいから話してくれればそれでいいよ」
快晴が言った。
私に起きている出来事と私の気持ち……。
頷いてから私は口を開いた。
妹の杏奈が生まれたのは小学校2年生で、もうすぐ3年生になる頃だった。
それまでは、私の家はごくごく普通で、誕生日を大好きなケーキで祝ってくれる、クリスマスも欲しいものがプレゼントされる、お父さんもお母さんも笑顔で優しかった。
でも、私には見せなかったけれど、2人目の子供が欲しくても、不妊になり、病院に通っていたけれど、なかなか出来なかったらしい。これはお祖母ちゃんが、ついうっかりと口を滑らせたのを親戚の集まりの時に聞いてしまって知った。
杏奈がお腹に来た時は家族中大喜びで、妹だとわかると、私は嬉しくて一緒に何をして遊ぼうかを考えたり、お母さんの大きなお腹に「お姉ちゃんだよー」と声をかけたりして、生まれてくることを楽しみに待っていた。
お母さんも「雫の声、ちゃんと聞こえているよ」とお腹を撫でながら笑顔だった。
そして待望の杏奈が誕生した。
私にはとても可愛らしい赤ちゃんに見えていたけれど、お医者さんから両親に告げられたのは、杏奈はあまり身体が丈夫ではないから他の子が出来ることも制限しなくてはいけないことが多く、思い通りにいかなくて癇癪を起こしたり、言うことを聞かないこともあるかもしれないと。そして、薬を一生飲み続けなければいけないとも。
それを告げられた両親の絶望も知らず、私は杏奈を抱っこしたいとお母さんに言った。
そうしたら「触らないで‼」と大きな声で言って、その声にビックリしている私にお母さんは言った。
「あんなに苦労して、苦しい思いをして、やっと授かった杏奈がこんなに可哀想で、何事もなく生まれた雫はなぜ五体満足で健康なのよ」
涙を流しながら呟くように言ったけれど、五体満足という言葉を知らなかった私はお母さんが何を言っているのかわからず、杏奈を抱っこしたいと言ったのはそんなにダメなことだったの?それとも私は何かお母さんを怒らせることをしたの?と思った。