雨上がり虹のある空を眺めて


「それから今まで何も変わっていない」

 私は全てを話し終えて、春那が渡してくれたお茶を一気に飲んで息をついた。

 春那の目から大粒の涙がこぼれている。

 征規は放心した顔をしていて、快晴だけが私をしっかりと見ていた。

 思い出すだけでおぞましい。

 いくらお母さんが心の病気を患っていて精神的に不安定だとしても、実の親に妹を生かすためだけの姉としての価値しかないと見捨てられたことなんか。
 この話をしたら、自分で発した言葉なのに、また傷ついてしまうと思っていたけれど、三人がいてくれたお陰か冷静でいられた。

 何か言わなくてはと思ったのか、征規が声を出した。
「誰かに、そう、おじさん、雫のお父さんに助けを求めよう」

 絞りだした案なのだろうけれど、私は首を振った。
「無駄だよ。お父さんも疲れてしまって、九州から滅多に帰ってこない。結構前だけど、杏奈のお薬手帳を出そうと棚を開けたら離婚届があった。だからお父さんに言っても無理なの。多分、もう離婚していると思う」

 征規の顔が絶望的な表情になった。

 しばらく静寂があって、それを破るように快晴が言葉を出した。

「雫、お前は何のために生きていると思う?本当に妹のためだけに自分が存在していると思うのか?」

「え……?」

「怖いよな、考えたくもないよな?自分の実の親だぞ?実の親に存在価値を否定されて、多分、俺達が親に怒られて『バカ息子』なんて言われるのと全く違う。普通じゃあり得ない話だと思う。俺は四人でつるむようになった時から思ってた。雫は本心で話さないヤツなんだって。人のことは言えねーけど、そういう雫にムカついてた。でも今、雫の口から何でそうなってしまったのか、そして本心も聞けた。だから、敢えてもう一度聞く。雫は妹のために生きているのか?」

「わからない……」

 本当にわからない。毎日を消化しているように過ごしてきて、杏奈の世話だけは欠かさずやっている私には生きていていいのかも、希望を持ってもいいのかすらもわからない。

「母親も精神的な病気になってしまって辛いだろうけど、だからって何を言っても許されるわけじゃない。妹のこともあって大変だとしても、家族で協力して病状を良くしていくことが一番だと思う。」

 そうなのだろうか?お母さんの病気に対してどうするのがいいのか、どう接すればいいのかすらわからない。何もわからない。

「親だからって、たとえ病気だからって何をしても許されるわけじゃねーよ」
 快晴がそう言うと、春那が抱き着いてきて声を上げて泣き始めた。

「雫‼ごめん‼気が付いてあげられなくて、今まで誰にも言えないで苦しい思いをさせてごめん‼」
 春那が叫ぶように言うけれど、ここにいる誰も悪くない。

「春那?謝る必要なんかないよ?言えなかった私が悪いんだから。私こそ色んな心配をさせてごめんね」

 春那の頭を撫でながら言ったけれど、春那は掠れる声で「ごめん」を繰り返している。


外が白々としてきている。夜が明けるようだ。

「徹夜しちゃったね、学校行けそうにないね」
 私が言うと、快晴が少し笑った。

「そもそも行く気なんかねーよ」

 私のスマホは快晴に会った時に電源を切っておけと言われて切っている。万が一、お母さんから連絡がきて居場所を探されたら困るからだと快晴は言った。

 一応、言う通りにしたけれど、お母さんが私を探すとは思えない

 春那の部屋の壁かけの時計を見ると朝の4時半を過ぎている。

 スマホで何かを調べていた征規が話し出した。
「こういう場合は児童福祉相談所?児童って年齢じゃないけど、相談してもいいのかな?」

「まあ、よく耳にする名前だけど、雫の場合その施設が該当するのか?一応聞いてみるだけって感じだろうな」
 快晴が答える。

 征規がそれを聞いてまた話す。
「万が一、その施設が動いてくれるまで、雫を親から離すにはどうしたらいいんだ?」

「離れる?それはダメ。私は姉だよ?杏奈の世話をしなきゃいけないもの」
 私の言葉に三人が驚いた顔をした。

「雫、離れていいんだよ。杏奈ちゃんのことも、お母さんの心の病気のこともそういう機関が動いてくれるまでうちにいればいいの。家に帰る必要はない。キチンと相談すれば大丈夫だから」
 春那が私の肩を強く揺すった。

「でも」
 快晴は飲み物を一口飲んでから続けた。

「俺達に話したことで何が変わったことはないか?雫の気持ちが、母親の言葉だけじゃなくて、俺達に打明けたことで何か感じないか?」

 気持ち?何かを感じたか?

 私はしばらく考えた。

 でも、思い出したことがあった。

「すごく幼稚で下らないことだけどいいかな?」
 三人は頷いた。

「私ね、杏奈が生まれる前なんだけど、絵を描くことが好きで、杏奈が生まれてからは、杏奈が描いてほしいって言ったものしか描いてなかったんだけど……。幼稚で恥ずかしいけど、将来は絵を描く仕事をしたいって思っていた。絵本なのかポスターなのか何を描きたいかはわからないけど、人がホっとするような絵を描きたいって。いつからか、そんな夢、忘れちゃったし、そもそも私の将来なんて誰も興味がないって思っていたから。話をしていて思い出した。新しい色鉛筆を使う時のドキドキした気持ちとか、丁寧に何色も重ねて塗り続けると不思議な色になることとか。その時だけ私は魔法を使えるような気分になっていたの。くだらないよね」

「くだらなくなんかない‼素敵な夢じゃない。実現しようよ」
 春那が手をギュっと握ってきた。

「ありがとう」
 私が言うと春那は首を振った。

「他には?何か気持ちの変化だったり、思い出したことはあるのか?」

 快晴の質問にまた頭をクリアにして考えようと「うーん」と唸る。

 考えて、でも本当はずっと心の隅っこにあったものをちゃんと整理してから言葉にしようと思ったことがポロっと口からこぼれた。

「……杏奈は辛くて大変だから一番になれないのは知ってる。でも……」

 そこまで言うと、お母さんに言われてから、涙すらほとんど出てこなかったのに涙が洪水のように出てくる。拭っても、拭っても、凍っていた感情と共に滝のように溢れてくる。

「私……、私も‼お母さんの娘で、杏奈とは違って健康だけど、だから将来は杏奈を色々な場所に連れて行ってあげたい。杏奈の姉だけどお母さんの娘だから‼だから……」
 涙が出過ぎて上手く言葉が出ない。でも三人は私の声に耳を傾けてくれている。

「私だってお母さんに笑顔を向けてほしい、抱きしめてほしい。大好きだよって言われたい。私は生きているよ?だから……私もお母さんの子どもだってことを思い出してほしい……」

 私の必死な本音を聞いて、また春那は泣いてしまい、征規も目を赤くした。
 
 快晴がニカって笑いながら言った。

「雫、頑張ったな。まだ油断は出来ない状況だけど、お前に起きた出来事、そして今、絞り出した叫びこそがお前の本心で俺達が聞きたかったことだよ」


これからのことを考えながら、コンビニで征規が買ってきたオニギリを食べていると、春那の部屋を誰かがノックした。

 春那がドアを開けると、眼鏡をかけた大人なイケメンが立っていた。目元が春那に似ている。

「一番上の兄貴。公務員で学校教育なんかの仕事をしてるんだ」

 一番上のお兄さんは笑いながら
「サボリだなんて、教育を仕事にしている僕は注意すべきなのかな?」
 と言った。

 春那がしばらく部屋から出ていて、その間にどうしたらいいのかを考えていたのだけれど、どうやらこのお兄さんに話をしていたらしい。

「雫ちゃん」
 お兄さんに呼ばれて「はい」と返事をする。

「雫ちゃんはお母さんからモラハラに該当する行為を受けている。だから、国の機関が雫ちゃんをすぐに保護もできると思う。母親とは接見禁止を取ることもできる可能性もある。もちろんお母さんの心のケアが目的だよ?でも、妹さんには会えるよ。ただ……お母さんは精神的な施設のような場所で、ちゃんと向き合える治療をするかもしれない。雫ちゃんを支援団体の施設で保護もできるし、もう高校二年生だから、我が家に大学入学までいてもらうことも多分、可能だと思う。お父さんがいる九州へ転校してもいい。だた……僕が春那から話を聞いて、快晴くんや征規くんも同意見だと思っているけど、このまま何も言わないで離れるのは悔しくないかな?」

「え?」

「言ってやれよ、母親に。ふざけんなってさ」
 快晴が言った。

「お母さんに?私が?」

「そうだよ‼俺も快晴と同じ意見だよ‼おばさんに言ってやろう‼馬鹿にするんじゃねーよ‼ってさ」
 征規も身を乗り出して言う。

 春那も力強く頷いた。

「そんなことをしてもいいの?」

 私が驚いて言っても、「いいんだよ‼」と三人が言った。

「雫ちゃんと妹さんのこれからについては、大人の僕たちに任せて、みんなの言う通りにお母さんに気持ちをぶつけてみてもいいと思うよ」
 お兄さんはそう言ってニッコリと笑った。


 春那の部屋で話をしてから、一か月以上が経った。


 その間、春那のお兄さんの働きかけで目まぐるしく色々なことが決まり、お父さんが九州から休暇を取って戻ってきた。

 私はお母さんとは接見禁止となり、とりあえず春那の家でお世話になっている。

 夏休みも終わろうとしている今日、お父さんは春那の家に来て、春那のご両親に私のことでお礼と少し長く話し合いをしてから、「外で話さないか?」と言って、二人で近くのカフェに来た。

 涼しい店内でアイスカフェオレをストローでかき混ぜていると、アイスコーヒーを手にお父さんが席についた。

 ふーっと一息ついたお父さんは少し疲れた顔で私を見た。

「雫、今まですまなかった」
 お父さんが深々と頭を下げて、私は仰天した。

「やめてよ、人が見てるよ。頭を上げて」
 私がそう言うと頭を上げて少しだけ微笑んだ。

「杏奈は九州でお父さんと暮らしている。あっちの病院の院内学級に夏休みが明けたら通うことになったよ」

 家族と離れてから杏奈はどうしているのかと心配していたから、それを聞いて少し安心した。

「お母さんは……今までの不安定だった心を治すために施設に入所することになった。お父さんもお母さんの行動や言動を見過ごしてきたからそばにいてあげたいが、それより先に雫と杏奈の親としての責任を果たしてからになるだろうな」

「そうなんだ」

 どういう言葉が正解かわからない。お母さんの顔色を見ながら生活することがなくなり、ほっとするけれど、私のせいで精神的な施設に入るのは複雑だ。

「雫は知っていただろうけど、お父さんとお母さんは二年以上前に離婚をしていたんだ。お父さんは雫や杏奈やお母さんから逃げてしまった。それを償うべきなのだが、それよりも親として二人を守ることが先だからな」

 いつか見た離婚届は受理されていたんだ。そこに驚きはなく、やっぱりな、としか思わなかった。お父さんが家に帰ってこないのも納得できる。もう二人は夫婦ではないのだから。

「博井さん、春那ちゃんのご両親と話し合ったが、雫はあと一年高校生活がある。今から無理に九州の高校へ転校するより、大学を九州にしてもいい、もちろん行きたい学校があれば一人暮らしをしてもいい。だから、あと一年は博井さんのお宅でお世話になるという話になったんだが、雫はどう思う?」

「私もみんなと離れたくないかな……。春那の家族に迷惑かけてしまうけど……」
 そう言うと、お父さんは頷いた。

「博井さんへは生活費も支払っているし、遠慮はいらないと言ってくださった。生活費はなかなか受け取ってくれなくて困ったけどな」

 困った笑顔でお父さんはアイスコーヒーを飲んだ。

 その笑顔を見て私もクスっと笑ってしまった。

 お父さんの笑顔は少し困ったような顔になる。お母さんの言う通りにしているフリをして、こっそり私に「内緒だぞ」と言って、お小遣いをくれたり、洋服を買ってくれたり、その時の笑顔が今と同じだ。

 お母さんは杏奈には何でも買ってあげていたけれど、私にはどうしても必要な物や欲しいものがあったら「自分で買いなさい」とお金を渡されるだけだったから。


「これからが本題なんだが……」

 お父さんは息をついてから言った。

「施設に入る前にお母さんに会うことができる。雫はどうしたい?お母さんに会いたいか?もう二度と顔も見たくないか?答えはどちらでもいい。顔も見たくないと言われても当然なのだから」

「え……?」

 お母さんに会う?

 よく冷えた店内なのに汗がブワっと吹き出てくる。

 会ったらまた杏奈の姉としてだけしか望んでいないと言われる?

 アイスカフェオレを持つ手からも汗が伝わるのか少しだけ温くなってしまった気がする。

 そんな私を見てお父さんは私の頭にそっと手を置いた。

「無理に会わなくていい。雫が拒絶することは当たり前だから。会うのはやめような?」

 頷きかけたけれど、あの時、話を聞いてくれたみんなの顔が浮かんだ。

『ふざけんなって言ってやれよ』と言った快晴、それに同意して私をしっかり見てくれた征規と春那。

「お父さん」

 声が少し震えるけれど、グッと身体に力を込める。
「私、お母さんに会う。言いたいことがあるから」

 お父さんは驚いた顔をしたけれど、私はしっかりお父さんを見た。


 夏休みの最終日、私は久しぶりに自分の家の前に立った。


 夏休み最後の日だというのに天気は悪く、いつ雨が降ってくるかわからないようなどんよりとした厚い雲が空を覆っている。まるで私の気持ちがそのまま空に反映されているかのように。

 きっとみんなは最終日がこんな天気でガッカリしているのだろう。

 お母さんは施設に入る前に身支度の準備で、度々、一時帰宅しているらしい。この家も、もうすぐ売りに出されるとお父さんは言っていた。

 お母さんはケアワーカーさんと一緒だと聞いているけれど、チャイムを押そうとする指が震えてなかなか押せない。玄関のドアは開いているのかもしれない。鍵だって持っている。チャイムを押す勇気も、ドアを開ける勇気もまだ沸いてこない。

 このまま逃げてしまおうか?

 別にお父さんは会わなくてもいいと言っていたし。お母さんはお父さんから私が今日、ここへ来ることは聞いているはずだ。でも、何度も何度も『無理はしなくていい』と言われている。お父さんが一緒について来ると言ったのを断って私は一人でここへいる。

 怖い。

 あの他人を見るような目をまた向けられたら私は言いたいことを一つも言えないかもしれない。


肩をポンっと叩かれて悲鳴を上げそうになった。

 驚いて振り向くと快晴がいる。

「え……?なんで?」

「春那から聞いたから」

 快晴が後ろを振り返ると、征規と春那が電信柱の陰に隠れているつもり……なのだろうけれど、丸見えだ。

 春那には昨日の夜にお母さんに会うことを伝えている。春那も春那のご家族も私のことをかなり心配してくれた。弱気は見せたくなくて「大丈夫」と笑って言ったのだけれど。

「あれ、隠れてるの?」
 私は笑いをこらえて言った。

「隠れて見守るつもりらしいけど……丸見えだよな」
 快晴も笑いをこらえている。

 吹き出しそうなのを抑えていると、快晴が言った。
「怖いか?やっぱり」

「うん……、強がってみたけど、実際は少し怖いかな」
 素直に自分の気持ちを言うと、快晴が手を握ってきた。

「じゃあ、行くぞ」

「え?ちょ……、何?」

 私が驚いているのを無視してチャイムを押した。

 私が押せなかったチャイムをあっさり押してしまう快晴にポカーンとする。
 しばらく待っていても、中から何も反応がない。

 私のことは本当にもうどうでもいいってことなのかな?

 そう思っていると、顔にポツっと水滴が当たる。空を見上げると、雨が降り出してきていた。


 快晴が三度目のチャイムを押した時、
「いいよ。向こうが会いたくないんだから仕方ないよ」
 私は自嘲気味に言った。

 私のせいでこんなことになったのを恨んでいるのかな。

「よくはないだろ。雫の勇気を馬鹿にするんじゃねーよ」

 ムっとした顔の快晴は玄関ドアを握り締めて勢いよくドアを開けた。
 バンっと音が鳴るほどの勢いでドアが開いたことに驚いていると、中から知らない女性が不審そうな顔で出てきた。私たちを上から下までジロジロと見ている。

「牧村雫さん?」
 スーツの女性が私を見ながら言った。

「はい」

 頷くと隣をチラリと見る。

「あ、同級生の……」

 私が快晴のことを説明しようとすると、
「雫の親友の大津快晴です」
 ハッキリと快晴が答えた。

 女性はケアワーカーさんなのだろう。

「大津くん?彼も同席するのかしら?牧村さん、ああ、お母さんの方ね。お母さんに大津くんの同席を許可してもらわないといけないわね。今、お母さんは少し不安定だから大津くんがいることをどう思うか確認しないと……」

「出てこいよ‼逃げてんじゃねーぞ‼」

 女性が言い終わらないうちに快晴が奥に向かって叫んだ。
 私と女性がギョっとした顔をしていると、奥から人が動く気配がした。

「大津くん。牧村さんは、さっき言った通り不安定だから」
 女性が快晴を少し窘めるように言うけれど、そんな声は快晴には聞こえていない。

「不安定ってなんだよ、あんたより雫の方がずっと不安定だし傷ついてるんだよ‼散々傷つけておいて逃げるのかよ‼」

「か、快晴、もういいから。とりあえずお母さんのことを待とうよ」

 私が慌てて快晴を抑えようとしていると
「さっきから、あなた誰なの?そんな怒鳴り声を聞いたら誰でも出ていきたくなくなるわ」
 奥から久々に聞く、機械的な声がした。

 その声を聞いただけで身体が硬直する。

 私の様子を見てケアワーカーさんが言った。
「雫さん、今日の面会はやめましょう。お互いこんな精神状態で会うのは危険だわ」



 本当は逃げたい。

 一生会わなくてもいい。

 でも、でも、それじゃあ今の私を変えられない。



「大丈夫。これで二度と会えない方が後悔するから」
 額から流れる汗を拭って快晴に頷いた。


 靴を脱いで玄関に上がる。ドアが空きっぱなしの居間から、ソファに座っているお母さんの後ろ姿が見える。

 頭をポンポンとされる。快晴が私の後を追ってついてきたらしい。

 ソファに座っているお母さんが振り向いた。

「さっきからうるさく怒鳴っていたのはあなた?今日は雫だけが来るとは聞いていたけど、なぜあなたがいるの?」
 能面の顔で快晴を見ながら言った。

「あんたがまた雫を傷つけないように一緒にきたんだよ」

 お母さんがソファから立ち上がり、私たちに少しだけ近づいた。

「牧村さん、本来ならば接見禁止です。距離を詰めるのはここまでよ」

 さっきの女性が遮る。お母さんは理解したのか、一歩下がった。

「今日は何の用なの?私だって忙しいのよ」
 機械的な声の中に少しだけ苛立った感情がわかる。

 心臓がドキドキと嫌な音を立てる。それを見透かされないように、胸の前で組んだ手にギュっと力を入れる。

「お母さんに言いたいことがある」
 絞り出すように言った私を見て、お母さんは怪訝な顔した。

「何?私から杏奈を、全てを奪っておいて今更何が言いたいの?これ以上、私から何を奪いたいのよ」

「奪いたいとか、お母さんを陥れたいとかじゃないよ。聞きたいことと、言いたいことがあるだけ」

 お母さんは白けた顔で私を見ている。

 届かないかもしれない。

 お母さんの心には響かないかもしれない。

 でも、言わないと、聞かないと私は前へ進めない。

「お母さんは……」
 そこまで言って、深呼吸をする。思いきり息を吸い込んでから顔をしっかり見る。



 逃げない。絶対に。

 私はこれから、失っていた希望と未来を自分で掴み取る。

 だから逃げちゃ駄目だ。



「お母さんは私が生まれた時、嬉しかった?幸せだって思った?」

「え?」

 何を言っているんだ?という顔をしている。
 まだ、大丈夫。話を聞こうとしているはず。

「杏奈が生まれるまで大変だったのは知ってる。でも、私が生まれた日、何か感じなかった?お父さんと二人で笑顔にならなかった?」

 お父さんが言っていた。
 私の「雫」という名前はお母さんが付けたのだと。

 誰かの心にポツリとでもいい、幸せという雫を分け与えられるような優しい子になってほしいから。という意味を込めて付けてくれたのだと。

 その時のお母さんは、お父さんに照れ臭そうに「幸せを雫一粒だけしか与えられないって寂しいかしら?それでも、小さな幸せを色んな人にポツポツと与えられるって素敵じゃないかしら?」と言っていたと。
 お父さんも「いい名前だね」と言って、二人でほほ笑んだと。

「私の名前、お母さんが付けてくれたんでしょ?そこには愛情は確かにあったんだよね?」

 私の言葉に頬に手を当てて物思いにふけている。

 能面が段々と剥がれてきている気がする。



 だから、思い出して‼

 私が生まれた時のこと。

 女の子が欲しかったお母さん、私が生まれた瞬間涙を流したことを。