三度目の受験に失敗し、家を飛び出してからも、良太は母とは連絡を取っていた。父とは話していないけれど、母から無事であることは伝わっているだろう。

 医師への道を投げ出した良太に、母は何も言っては来なかった。電話を重ねても深くは追求せず、生存確認だけをしてくる。

そんなとき、良太は母の優しさを感じ、自分の不甲斐なさを改めて痛感するのだった。

「そういえば、この間すごいことがあってさ。ばあちゃんを連れて、外出したときのことなんだけど――」

 良太は母に、『ボヌール・ドゥ・マンジェ』での一件を話して聞かせた。

母はひと通り聞き終え、「奇跡みたいなことってあるのねえ」と感嘆した。

「市川のそのレストランって、もしかしたらあそこ? 京成線の踏切わきにあるっていうフランス料理店」

「そう。知ってるの?」

「たしか、おじいちゃんが言ってたわ。近所に美味しいフランス料理店があるって」

「近くって?」

 千葉市と市川市は、近所と呼べるほど近くはない。良太が訝しむと、スマホの向こうで母が甲高い声を上げた。

「あら、知らなかったの? おじいちゃんは亡くなった頃、市川にいたのよ。ひいおばあちゃんから相続した旧い家があってね、そこでのんびり趣味の標本作りに没頭しながら過ごしていたの。おじいちゃんが亡くなったあとは、お父さんが売却しちゃったけど」

「それで、あの店の常連だったのか……」

 知らなかった。晩年の祖父は、良太が今いるアパートのすぐ近所にいたらしい。

「おばあちゃんの老人ホームを見つけたのも、おじいちゃんなのよ」

「え、そうだったの? 父さんが見つけたのかと思ってた」

「おじいちゃんの遺言だったの。おばあちゃんの足腰が弱くなって、家で過ごすのが難しくなったら、そこに入るようにって。亡くなる前にいろいろと資料を集めたり見学したりして、おばあちゃんのためにいいところを探してたみたい。おじいちゃん、本当はものすごくおばあちゃん想いだったんだと思うわ」

 良太は、祖母が入居している老人ホームを思い出す。

 館内は広くて清潔で、カラオケやゲームコーナーなどの娯楽設備も充実している。リハビリ施設も併設していて、スタッフも気さくでいい人ばかりだ。

 老人ホームには良し悪しがあると聞いたから、最初は心配したものの、祖母の楽しそうな様子を見て安心したのを覚えている。

 祖母は、ただ単に運がよかったわけではなかったのだ。

 そこには、確かに、祖父の祖母への愛が存在していた。