「ですが、それ以降その方が店を訪れることはありませんでした。そこで桐ケ谷は、私にそのお客様が指定したメニューのレシピを書いたメモを託したのです。いつかその方が然る女性を連れて来られたとき、望まれた料理がすぐに用意できるように」

 ルイの視線が、良太へと移動する。

「そのメモが、君に渡したこの料理のレシピです」

「え……?」

 思わぬ話の展開に、良太は戸惑いながらも胸ポケットに収まっていた紙を取り出した。

「これ、ルイさんが書いたんじゃなかったんですか……?」

「いいえ。三年前からずっと、カウンター下で渡し人をお待ちしておりました」

 どういうことだ?と良太は眉根を寄せた。

 なぜ、その老紳士は、祖母の思い出のレシピを知っていたのか。

しかも、ミキサー食の手順が書かれていたということは、ミキサー食にするよう老紳士が店長にオーダーしたということになる。まるで、祖母の求める食事を分かっていたかのようだ。

「三年前……」

 弾かれたように、良太は顔を上げる。

 三年前と言えば、身内でひとつ大きな出来事があった。祖父の訃報だ。

「まさか、じいちゃん……?」

 戸惑う良太の目線を、ルイは頷いて受け止めた。

「当時ウェイターをしていた私に、とあるお客様が教えてくれたことがあります。そのお客様は、千葉市内にある病院の前医院長だと」

 良太は息を呑むと、祖母を見上げた。

祖母は身じろぎせずに、目の前の無人の座席を見つめている。

「今になって、ようやく分かりました。八神様は奥様のために、思い出の料理をオーダーされたのですね」

 祖母が食道がんを患い、ミキサー食に不便な思いをするようになったのは、四年前のことだった。

 死の間際まで、祖父は気に病んでいたのだ。

がんの手術後、ミキサー食に思い悩んでいた祖母のことを。

そして、覚えていたのだ。

六十年前オリエント急行の食堂内で見た、妻の笑顔を。

「あの人が、こんなことを……」

 呆然と、祖母が呟いた。

信じられない、といった響きの裏には、喜びと切なさが入り混じっている。

「本当に、不器用な人……」

 祖父が祖母に歩み寄らなかったのは、たった一度の過ちを許さない彼女が嫌になったからではない。

祖母を傷つけてしまった罪悪感を忘れないことで、自分を罰するためだったとしたら。